そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

新作五句36 おなかが減ったら

2008-05-30 01:29:45 | Weblog
夏来る一味唐辛子のやうに
唇を上下に割つて氷菓食む
あかるさやきうりの芯のやはらかく
葛切やスーツに雨の匂ふなり
にんにくをすりおろしたる大暑かな

季語体系を振り切って

2008-05-10 14:01:45 | Weblog
 5月13日から10日間、北京に行ってくることになった。僕は大学院で惑星科学の研究をしている。今回の北京行はその関係だ。

 と言っても、別に本格的に惑星科学の調査をしに行く、とかいうわけではない。調査しに行くとしたら、ロケットに数年は乗らなくちゃいけないし(火星には一度行ってみたいものだが)。指導教官が、北京の精華大学で惑星科学の展示を行うので、そのお手伝いだ。ついでに、向こうの大学生との交流、というのも兼ねている。

 一応、この前購入したノートパソコンを持っていくつもりなのだが、これは論文を書く作業用なので、向こうでネットが使えるかどうかはまだちょっと分からない(たぶん使えるだろうが)。なので、もしもネットにつながらなかった場合は、新作五句を一回分お休みすることになるが、ご承知おきいただきたい。

 久しぶりの海外である。と言っても、以前に海外に行ったのはたった一度、二年前に学科の巡検で行ったオーストラリアだけなのだが。折よく、今週の週刊俳句の特集は「海外詠」。僕も大いに張り切って詠んでみようかと。

たんぽぽや長江濁るとこしなへ 山口青邨
掌に枯野の低き日を愛づる 山口誓子

 誓子の句は満州・朝鮮旅中の句と言うから、中国と言っていいかは微妙かもしれないが、まあ、しかし中国と言えばこのような句が思い起こされるところであろう。偶然、みんな山口だ。

 海外詠については、僕は一度オーストラリアに行ったときに試みたことがある。そのときに大変困ったのが、週刊俳句で触れていた方もあったが、季語の取扱いである。なにしろ窮してしまったのは、日本を出たときには秋だったのが、オーストラリアに着いてみたら春だった、という現実である。南半球の季節は北半球とは半年ずれるもの。昨日まで秋の句を作っていたのを急に春の句にしろ、と言われても実感が湧かないし、なんともやりづらいことこの上ない。

 しかも、たとえば「春の風」とか「春雨」とか「おぼろ月」とかいう季語を使ってみようと思っても、なんとなく感じが日本とは異なる。オーストラリアでは春なのだからいいだろうと思って、春の風、と使ってみても、湿り気具合とか、そこに感じる時期的な象徴だとかが日本とは変わってしまって、季語が合わないのである。あるいは、オーストラリアにはオーストラリアの四季があるのだから、そこで作ったことを前提に読者に読んでもらうような句ということでいいじゃないか、と思っても、季語を用いた時点で、日本にいる読者の思い描く「春風」と僕が書いている「春風」との間に齟齬が生まれてしまうことは必然なのである。春だから春の季語で、というわけにもいかないよなあ、とまた悩んでしまった次第だ。

 そのとき、僕は俳句というものが、あるいは、季語というものが、いかに日本という足かせに、よくも悪くも結びついて存在してしまっているか、を痛感した。このジレンマを振り切って俳句を書く方法は、次の二つではないだろうか。一つは、現地の歳時記を作るつもりで現地の季節感を積極的に取り入れて詠んでいく。季語の更新を試みるということだ。ただし、これは数日という短い旅行ではなく、現地に数年は住むつもりの長いスパンでなければ成り立たない作業だろう。俳句という短い文芸だからこそ、数の集積がものを言うこともあるのではないかと僕は考える。

 いま一つは、僕がオーストラリアで結局やったことだが、季語を無視する、無季の句を作る、ということだ。季語というのが所詮日本の四季に基づいて作られた体系である以上、日本からかけ離れた地で俳句を詠むならばこの二つの方法のどちらかで現行の季語体系を振り切る必要があるように僕には思われる。

 日本の中においてだって地域差から生まれる差異があるじゃないか、という声はあるかもしれない。たとえば「しぐれ」というのは、本来は京都盆地におけるものなのに、わりと今ではそんなこと関係なく使っているじゃないか、という声もあるかもしれない。だが、やはり言語圏が同じか違うか、ということはこの際かなり大きく効いてくるように僕には思う。同じ言語を使っている日本の中では、東京にも愛媛にも「しぐれ」が降るかもしれないが、オーストラリアで降る雨を「しぐれ」と表現することはない。オーストラリアにはオーストラリアの言葉があるのだから。

 そんなわけで、僕がその当時現地で詠んだ句はこういう無季の形になった。

おやすみのあとの淋しき灯を消しぬ
誰とゐてもさびしくベッド使ひけり
トレッキングシューズで南十字星
骨になるまで飛び跳ねるカンガルー
スパークリングワインのやうな出会ひかな
光る丘真白く太き骨点々

 あまーーいい!本当に甘い句ばかりで恐縮だが、こんな感じ。下手っぴなのは置いておいて(それでも、最後の句は一応、自分のお気に入り)、一応、無季の句を作ってみようと思った、これが最初の機会になった。そういう無季俳句との出会いも面白いな、と感じたり。

 無季の句は、季語という約束事を廃した分、人間くさいところが多くなるのかもしれない。それは、二十歳そこそこの青年にとっては甘さをますます誘発する結果となったのであろう。と、いうのはただの言い訳だが、今のところ無季の句で僕が一番好きなのは、たとえばこのような作品だ。

見えぬ目のほうの眼鏡の玉も拭く 日野草城

 ぼくはセカチューなどの作品に対して「泣ける」という感想を述べるのは大変イヤなのだが、この句はなんだか「泣けてくる」。しみじみしてしまう。こういうのが無季俳句の真骨頂だ(決めつけてしまった)。

 北京では無季の句を作るか、それとも季語を更新するつもりで作っていくか、まだ決めてはいない。おそらく、行ってみないとわからないだろう。

 なんにしても、向こうでいったいどんなできことが待っているのか、どんな人が待っているのか、そして、どんな俳句が待っているのか、楽しみにして行ってこようと思っている。

 最後に、「海外詠」特集で気に入った句をあげる。

娼婦等は首から老ゆる春の午後 対馬康子
枯枝に身をおおわれている産後 対馬康子
ギリシア人夜の魚を食べにけり 小野裕三
ペーパーバック海の匂いの信号機 小野裕三

新作五句33 夢

2008-05-09 23:12:06 | Weblog
薄暑光洗濯物へアンテナへ
ハンガーの服をつぎつぎ剥ぐ立夏
雑然と日当たりてをる蝉時雨
以前来たときはなかつた蟻地獄
草いきれ水のにほひの流れけり

『嘘のやう影のやう』を読む

2008-05-03 20:09:52 | Weblog
生きた日をたまに数へる落花生

 本当に好きだなあ、と思える句に出会うと、なんだか身悶えしてしまう。見た瞬間にいいなあ、と思うと、そのままその句がじんわりと自分の体に沁み渡ってゆくのをじっと待つ。全身にいきわたってしまうと、句の持っているエネルギーにあてられてしまったようになり、それが自分の体だけに収まりきらなくなってしまって、変に身悶えしてしまうのだと思う。この句集では、そういう貴重な出会いがたくさん見つけられた。

多喜二忌の樹影つぎつぎぶつかり来
花吹雪壺に入らぬ骨砕く
屈むたび地中の冷気まむし草

 歩いている自分に「つぎつぎぶつか」って来る樹影の物質感、「壺に入らぬ骨砕く」という所作から否応もなく浮かんでくる人骨の手ごたえ、「地中の冷気」を「屈むたび」に感じる確かな皮膚感覚…。

 彼女の句には、何かに触れてしまったような生身の手触りがある。読んだ瞬間、思わず手を引っ込めてしまうような、思いもよらぬほどはっきりした触覚。驚くべきことに、もはや言葉が概念を超えて物質化している。

顔洗ふ水に目覚めて卒業子
ずぶ濡れの欅の並ぶ大試験

 そんな彼女の句の世界に人物が登場すると、皮膚感覚のレベルでの共感が生まれる。ああ、眠いな、今日もいつもの一日が始まるのだな、そんなこと意識することすらなしにただぼんやりと顔を洗う、徐々に意識がはっきりしてくる、ああ、そうだ、今日は卒業式だったのだな、と気が付く。タオルで顔を拭いて鏡の中の自分を見る。いつもと同じ朝、同じ目覚め方、顔を洗う動作も同じ、それでも、今日という一日の感傷的な気分は、こんな型どおりの朝から始まってしまっている。顔を洗って初めてそのことに気づく。

 生理的な感覚と意識的な感情とが、こんなに自分に身近な人生の中で生々しく交差していたのだと気づく。そんなとき、身悶えする以外僕にできることがあろうか。

羅の手足を長く去りゆけり
夏めくと腰にぶつかる布鞄
三角は涼しき鶴の折りはじめ
雫する水着絞れば小鳥ほど
回遊の魚の鳴かない大暑かな
むかうから猫の覗きし水中花
夏果てや抛りし小石落ちてくる

 あんまり引用しているとキリがないのだが、どれもこれも素敵な句だ。そうして、彼女の句の魅力は手ごたえと言うにとどまらない。この世界に存在しているものの確かな手触りをベースにして、自在なイメージがくるくると空中を飛びまわるのを感じる。それは、「鶴の折りはじめ」を涼しい三角だ、と言ったり、絞って硬く小さくなった水着に小鳥をイメージしたり、魚が鳴かないと言ってみたりするところに特に顕著だ。どれも、単に言葉の上での新奇な取り合わせなどではなく、ある種の生々しさを感じさせてくれるのは、「三角」「雫する」「大暑」と言った個々の言葉が、物質の存在感を保証してくれているからに他ならない。

鶏頭は雨に濡れない花らしき
芒原眼吹かれてゐたりけり
花芒急げば雨に飛びつかれ
運命のやうにかしぐや空の鷹
饅頭のうすむらさきも霜日和
日陰から影の飛び出す師走かな
枯野原とんびの影が拾へさう

 「雨に濡れない花」という奇妙な断定は、逆に他の花が雨に濡れたら花びらがしっとりするだろうということを想起させ、それとは異なる鶏頭の花のありようを巧みに思い浮かべさせる。「急げば雨に飛びつかれ」のやるせなさ、「運命のやうにかしぐ」という言い回しそのものにある、どきっとさせる何か、「饅頭のうすむらさき」がしっとりしている様子、「日陰から影の飛び出す」単純な驚き、「影が拾へさう」な枯れ切った野原…。どの句も、目を閉じているだけで体の中を通り過ぎる何かに身震いが出そうに思う。

末枯や抽出しにある絵蝋燭

 この句の地味さも、しみじみと思われてならない。

 そんな中でも、冒頭に挙げた句は大好きな一句。落花生などぽりぽりとかじってしまうような秋の夜長だからこそ、来し方を振り返るような気にもなるのであろう。「たまに」が泣かせどころ。もしもいつもいつも数えているような人なら、その人はこの人生に全く満足していない、悲しい人であろう。もしも全く数えないような人なら、その人は楽観的であまりにお気楽な人であろう。「たまに」、生きた日を数えてみるような気分になる人、というのは、これまでに辛いことも楽しいこともきっと数多く経験してきた人であろう。そうして、おそらくはもう若くない。

 落花生の、あの、ちょっと出っ張った部分を親指で強く押したら、パリッと乾いた音をたてて殻が割れて、中に二粒とか時には三粒入っていたりする豆を取り出し、一気に口に放り込む。そんな一連の動作も人生の一部なんだなあ、と当たり前なことを思うのは、柄にもなくつらつらと自分の過去のことなど考えてしまったからだった。

 もはや、身悶えどころではない。なぜか、嘆息が漏れてしまうような、そんな句。

作者は岩淵喜代子(1936-)