そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

新作五句⑪ 人は刃物

2007-11-30 22:34:15 | Weblog
日記果つ蛍光灯に照らされて
新聞に死者の名多しかまいたち
寒紅のものを言はざるあかさかな
猟銃の朽ちてゆくなり寒月下
水なべてひかりとなりぬ日向ぼこ

新作五句⑩ うなだれて

2007-11-23 09:48:07 | Weblog
さそはれていなかつたとは大くさめ
くたばつてしまえ姿勢正しく熱燗飲む
誰も彼も立ち去る冬の月までも
眠りたし屋台にラムプ冴えゆけば
寒波来る夜の鉄橋が終はらない

新作五句⑨ 愛撫

2007-11-16 22:50:23 | Weblog
マフラーを出てゐる耳のあどけなく
山茶花より切なき耳のあかさかな
寒夕焼小さな耳のひだに影
白息にひたひたと耳撫でらるる
貝よりも耳やはらかき雪の夜

旬の一句鑑賞②

2007-11-15 23:22:57 | Weblog
月天心京都タワーはビルに乗り

 僕は貧乏学生なので、京都に遊びに行く際には、夜行バスを使う。バスの車中では灯りは消され、カーテンは閉められ、全員が眠るしかすることがない。

 そんなバスに乗って京都から東京へ帰るとき、動き始めたバスの中からカーテンの隙間にちらりと見えたものは、かの京都タワーだった。このタワーは、JR京都駅のまん前に立ち尽くしている。

 タワーなのだから、本当は「立ち尽くしている」ではなくて、「聳え立っている」とでも形容したいところなのだが、そういうたたずまいではない。このタワーはビルに乗っているのである。くすんだ白色の建物。

 駅の前の建物、あたりには民家も見当たらず、しかも観光のために特化していて、おそらくは何も地域生活と結びつくところのものはないタワー。それなのに、東京タワーほど光り輝くわけでもない。この、あられもなくビルの上に乗せられてしまっている、くすんだ白いタワーが、東京へ帰る夜行バスの窓のカーテンの隙間にぼうっと浮かび上がるとき、僕はかえって、旅情、という言葉を思い出す。

 すわりの悪いタワー。中途半端に年をとった建物。寄る辺なくぼうぼうと光る月が、夜空をしずしずと進むから、そんな京都タワーも寄る辺がない。

作者は、すずきみのる(週刊俳句落選展より)

騙されてもいい

2007-11-11 00:06:27 | Weblog
 先日、ちょっと訳あって『忠臣蔵』のビデオを見る機会があった。

 『忠臣蔵』で盛り上がるのは、なんと言っても討ち入りのシーン。ワクワクしながら画面を食い入るように見ていた。吉良邸に押し入った赤穂四十七士は、抵抗してくる使用人たちをなぎ倒し、命を捨てた大活躍は正に獅子奮迅の極み、平和元禄の世にあってその勇猛果敢さは天晴である。

 勝負は既に決したが、どこへ隠れたものか宿敵・吉良上野介の姿は見えない。彼らの目的は、単に吉良邸に押し入ることではなく、確実に上野介の首を討ち取り、亡君浅野内匠頭の墓前に供えることだ。このままでは、仇討ちは失敗に終わってしまう。浪士たちに焦りの色が見えてくる。

 そんな折りも折り、四十七人のうちの一人が、ようやく庭にある米蔵らしきところで上野介を見つける。「引っ張り出せ!」と言って数人がかりで老体を引きずり出そうとするが、そこで「待て!」と止めたのは大石内蔵助(里見浩太朗)、吉良殿は仇とは言え、身分の高い方なので、力で引きずり出すなんてもってのほか。あたかもハリウッドのレッドカーペットのように、庭にわざわざ畳を敷いて、「さあ、吉良殿」と出てくるのを待つ。

 しばらくすると、中から白い寝巻き姿の吉良上野介(森繁久弥)が現れる。「人生五十年~下天のうちをくらぶれば~夢まぼろしのごとくなり~ひとえに生を得て滅せぬもののあるべきか~」信長が桶狭間の戦いの出陣前に踊ったとされていることで有名な舞「敦盛」を舞いながら出てくるのだ。舞い終わったところを、大石が刀を振りかざし・・・。

 と、いうようなシーンを、見た。畳を敷いて迎える、というのは良しとしよう。僕は史実に明るくないので、それが本当かどうか判定する術はないが、当時の武士が面目を重んじ、礼を尽くすことを義としていたことを考えれば、不自然ではない。

 が、しかし、「敦盛」はいかんだろう、と、見ていてどうにもこうにもしらけてしまって、作品世界に陶酔していた気持ちがすーっと冷めてしまった。それまで徹底的にヒールとして描かれていた上野介の人物像がつかめなくなったし、だいたい「人生五十年」ってあんた、もうとっくに五十過ぎてるだろ、と無駄につっこみたくなってしまう。

 「敦盛」を舞うのは、僕の感覚では「やりすぎ」。でも、畳を敷くというのも、おそらく実際にはなかっただろう。ところが、たとえ史実と違っていたとしても、そこはそういうことがあったんだ、と「騙されても良いかな」と思えるのだ。

 この「騙されても良い」という感覚、文藝その他藝術作品の鑑賞の際には意外と大事なことなのではないだろうか。文藝においてその作品世界は、往々にして現実世界が歪められ、作者により意匠が施された形で読者の眼前に提出される。「そういうことが実際にあるかどうか信じられるか」ではなくて、「そのことが実際にあってもなくても、あるかもしれないじゃん、って騙される気分にさせてくれるか」そこが優れた文藝の一つの基準のように思う。

 文藝、と言うからには、それは俳句ももちろん例外ではなくて。

 たとえば、

「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク 川崎展宏

という句、実際にそんなことがあるわけない、なんていうのは野暮で、「ああ、騙されても良いか」と僕なんかは思うが、これがもしも

「大和」よりヨモツヒラサカサクラサク

だったら、やっぱり「おいおいそれはやりすぎだろ」としらけてしまうと思うのだ。たとえば、そういう話。

 ・・・まあ、どういうラインに「やりすぎ」と「騙されてもいい」があるのか、というのは至極感覚的なもので、僕にもその基準を示すことができていないのが残念なところではあるのだが。それはまたおいおい。

第二回法政句会

2007-11-09 16:48:24 | Weblog
 飯田橋駅に降りて外堀沿いに市ヶ谷の方向に歩いて行けばいいのだな、と思って歩いて行ったら、ものの見事に真逆の小石川方面へ歩いてしまい、危うく遅刻しそうになったが、どうにか句会には間に合う。

 法政に初めて足を踏み入れたが、大学内にエスカレーターがあることに驚く。しかも校舎がきれい。

 法政大の先生で、天為の日原傳先生に来ていただいて催される法政句会。今回が二回目だ。法政・慶応・東大・早稲田・東京農大・聖心女子と多くの大学から人が集まった今回の句会。まあしかし、いわゆるいつものメンバーである。

 当季雑詠で五句出し。

 ちょうど立冬だったこともあって、秋・冬両季節の句が入り乱れてのにぎやかな句会に。七点を取った最高得点句以外は三点以下と点が一極集中した句会であった。

 学生が多く、みんな活発に忌憚のない意見を言い合った。お菓子の多い句会。