◆内田樹氏は言う。
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学校教育の目的は、学ぶ側に「十分に努力したので、努力にふさわしいだけの報酬を得た」という合理的な達成感を得させることにあるのではない。
そうではなくて、そこで自分が「求めていた以上のもの」「求めていた以外のもの」を受け取ってしまったのだが、それが何であるかがよくわからないので、それを知るために、そのあと長い時間を生き、さまざまな経験を経巡らなければならなかった・・・という行程の全体をふくむものが教育なのである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
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◆物事を教えるのではなく、学び方を教えるのも教育である。
少しぐらいの「謎」を残した方が自ら学べるというものであろう。
有田先生の「追究の鬼」にもつながるところだと感じた。
◆この辺りについて諏訪哲二氏は言う。
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家庭や学校では、学ぶ者は教育内容や教育者を選ぶことはできない。これは、避けられない事実である。赤ん坊や子どもにはまだ選ぶ力がないし、選べるようになるための教育を受けている最中だからである。・・・(中略:奥野)・・・
家庭や学校での教育は、学ぶ者の本体を構成するもの(自己限定的)であり、余暇におこなわれる教育はその本体が自らの文化的生活を豊かにする(自己拡大的)ために選ぶものなのであるから。
(『間違いだらけの教育論』(光文社新書)P.44)
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◆例えば、詩文を暗唱させることを例に考えてみる。
「子曰く・・・」
「祇園精舎の鐘の声・・・」
小学生に意味もわからない漢詩や古典を覚えさせて、何の役に立つというのか?
そう考える人はだんだん少なくなってきているように思う。
意味が分からないけれども、いわれた通りに覚える。
強制的にさせられているけれども、教える側には明確な意図がある。
学ぶ側はそれは分からない。
だから「謎」になることもある。
けれども、数年後もう一度読み直したときに、実はこういうことだったのではないか?と考えるときがある。
実際、算数などで暗記したものを中学高校になって「なるほど!」と納得したことはいくらでもある。
その時間にすべてを理解させることを学校教育では望んでいない。
またそういう教育であるならば、内田氏がいうように、それ以上の成長はあり得ない。
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学校教育の目的は、学ぶ側に「十分に努力したので、努力にふさわしいだけの報酬を得た」という合理的な達成感を得させることにあるのではない。
そうではなくて、そこで自分が「求めていた以上のもの」「求めていた以外のもの」を受け取ってしまったのだが、それが何であるかがよくわからないので、それを知るために、そのあと長い時間を生き、さまざまな経験を経巡らなければならなかった・・・という行程の全体をふくむものが教育なのである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
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◆物事を教えるのではなく、学び方を教えるのも教育である。
少しぐらいの「謎」を残した方が自ら学べるというものであろう。
有田先生の「追究の鬼」にもつながるところだと感じた。
◆この辺りについて諏訪哲二氏は言う。
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家庭や学校では、学ぶ者は教育内容や教育者を選ぶことはできない。これは、避けられない事実である。赤ん坊や子どもにはまだ選ぶ力がないし、選べるようになるための教育を受けている最中だからである。・・・(中略:奥野)・・・
家庭や学校での教育は、学ぶ者の本体を構成するもの(自己限定的)であり、余暇におこなわれる教育はその本体が自らの文化的生活を豊かにする(自己拡大的)ために選ぶものなのであるから。
(『間違いだらけの教育論』(光文社新書)P.44)
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◆例えば、詩文を暗唱させることを例に考えてみる。
「子曰く・・・」
「祇園精舎の鐘の声・・・」
小学生に意味もわからない漢詩や古典を覚えさせて、何の役に立つというのか?
そう考える人はだんだん少なくなってきているように思う。
意味が分からないけれども、いわれた通りに覚える。
強制的にさせられているけれども、教える側には明確な意図がある。
学ぶ側はそれは分からない。
だから「謎」になることもある。
けれども、数年後もう一度読み直したときに、実はこういうことだったのではないか?と考えるときがある。
実際、算数などで暗記したものを中学高校になって「なるほど!」と納得したことはいくらでもある。
その時間にすべてを理解させることを学校教育では望んでいない。
またそういう教育であるならば、内田氏がいうように、それ以上の成長はあり得ない。
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