研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

北海道論(6)-札幌の成功と北海道の失敗

2010-07-15 20:07:17 | Weblog
マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)という言葉がある。「明白なる運命」という意味で、ジャーナリスト、J・L・オサリバンが、『デモクラティック・レビュー』(1845年7月号)に発表した論説「併合」で使用した言葉である。アメリカ合衆国の西部、さらには西半球全域への膨張を倫理的に正統化する機能をこの言葉は果たしたとされる。

まさにそれは「倫理的」な概念であり、必ずしも論理的でもなければ道徳的でもないというのが重要である。つまり大変難解である。この難解な概念をアルバート・K・ワインバーグ(Albert K. Weinberg)は、Manifest Destiny: A Study of Nationalist Expansionism in American History (The Johns Hopkins Press, 1935) によって、植民地時代からカナダ併合論が収束するあたりまでのアメリカ政治史のすべてを題材に政治思想史的な分析を施し、なんとかこの概念を明らかにしようとしている。最初は自然権(natural rights)の文脈から分析が試みられ、最後は「政治的重力(political gravitation)」という一種の中華思想が「丘の上の町」という自意識を基礎に政治思想として確立していく様子が描かれている。そしてウイルソンの宣教師外交の内的必然性をみごとに論証している。ただし結論は、Manifest Destiny have never been manifestというもので、残念ながらこれが今日に至る通説である。

この難解な概念は、大陸国家のすべてに当てはまる。中国やロシアはなぜあんなに広いのか。少数民族の権利について尋ねた時の彼らの尋常ではない怒り方は、単純な利益論を超えたものがあることを示している。もちろん、大陸国家にかぎらない。例えば、かつてH・キッシンジャーが、中国の台湾に対する執着について問われた際に、それを「日本と沖縄」で類比をして見せたことがある。もちろん、これはアジア政治をまったく知らないキッシンジャーが完全に的外れなことを言ったもので、論外すぎて話にもならないのだが、ポイントは我々のこの逆鱗にある。沖縄は「明白に」日本である。もし外国人が「そこ」にくちばしを突っ込んだ場合は、もう十分な戦争の理由になる。マニフェスト・デスティニーが倫理的である理由はここにある。それは理性よりも神聖であり、たぶん命よりも重い。

私には幼いころからずっと引っかかっている光景がある。私の育った北辺の土地は、港町なのに世界に開けていなかった。その港は北極を向いていて、まったく国際性というものがない。太平洋や日本海のように、どこかに向かって開けた海ではなく、閉じた海だった。そう、私が見てきた海は、オホーツク海だったのだ。日本人にとっての第三の大洋というか、たぶん日本人と海の関係史でいうと別のパラダイムの世界だったのではないか。とにかく、津軽海峡は本州と北海道をつなぐ海峡であるのに対して、宗谷海峡はどこにもつながっていなかった。

もう少し正確に言うと、冷戦中だったのだ。宗谷海峡の向こうは、本当に別宇宙の政治体制が存在していて、境目に住んでいる住民は海から閉め出されていた。冷戦は終焉するまでその終焉を予測した者はいなかった。冷戦終焉前のオホーツク海は、権力層と自衛隊のみがその存在を認識する海で、日本の庶民には存在していないも同然の海だった。稚内に住んでいても、漁師以外は、誰も海に関心を持たなかった。本当に不思議なのだが。漁師たちは、「オオマガキ」で何かを本当は見ていたのかもしれない。しかし、彼らの言葉は訛りがきつすぎて、市役所職員の息子である私には何を言っているのかさっぱり分からなかった。みんなそうだった。

しかし私は幼いころから海の向こうに島があることに気づいていた。稚内の海岸から樺太(サハリン島)は見えるのだ。天気の良い日ならば、樺太の近辺を巡るソ連の国境警備隊の船体に陽光が反射して銀色に輝くのが見えた。鉛色の海の向こうに見えるあの島には、確かに人間が住んでいるようだった。私は、どうにもそこに行ってみたかった。見れば見るほど、相当大きな空間であるように思われた。休日になるとしばしば父親に自動車で宗谷岬に連れて行ってもらった。何もない宗谷岬から、私は飽きることなく樺太を見ていた。何がそんなに引っかかっていたのか。実は私の感性は正しく機能していたのだ。

徳川幕府時代は、北海道を「蝦夷地」、樺太を「北蝦夷」とした。まずは蝦夷地を確保したうえで、北蝦夷はロシアとの状況次第といったところだったのだろう。しかし蝦夷地を北海道と改めるころには方針は固まっていたと思われる。小樽をもって北海道の都とせしめたことがそれを示している。日銀の支店を置き、倉庫(この時代、倉庫は銀行業務も兼務)を充実させた。ちなみに札幌はこの段階では想定外だったという。札幌は農学校を設置したことに示されるように、研究施設と食糧基地の位置づけだ。北の「帝都」は断然小樽だったのだ。そして小樽の位置を見れば中央政府の意図ははっきりする。次の停泊地は絶対に稚内であり、稚内の次は絶対にサハリン島のコルサコフだ。中央政府は樺太を日程表にはっきりと入れていたのだ。小樽が北海道の都であるということは、サハリン島は日本であると主張しているのと同じであり、もし小樽が北海道の都であるならば、確かにサハリン島が日本であることは明白なのだ。北海道と樺太はワンセットの企画だったのだ。

壮大な展望である。千島列島と樺太が日本だとしたら、オホーツク海は日本の内海となる。稚内からオホーツク海岸沿いの地域の地位は、まったく違ったものになっていただろう。宗谷海峡の重要性は、津軽海峡とは比較にならなかったはずだ。小樽と稚内がそれぞれ日本海とオホーツク海を代表する文化地域になっていたはずだった。つまり北北海道の設計工学は樺太を前提としていた。それが宙に浮いたのだ。樺太を失い、すぐに冷戦になった。そのため本件は考えてはいけないことになった。北方のマニフェスト・デスティニーは、とてつもない力で封印され、行き場を失った。そして想定外の札幌が肥大化した。

北海道開拓のすべては樺太と一対になった事業だったわけで明治以来の北海道開拓史の延長上に現在の北海道は無い。札幌の肥大化は、北海道開拓の失敗を象徴している。北海道が損なわれて、札幌が残った。