研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

政教分離原則の歴史

2006-10-30 06:09:05 | Weblog
ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』第四篇第八章に“civil religion”というよく分からない概念が書かれている。長さにして2頁くらいで、本当に最後の最後に唐突に出てきて、それきりになっている。学部学生時代、ハンナ・アレントの文献を読むゼミに出席していた時、当時の政治思想史の教授がふっと、「あれ、よく分からないんだよね」と言っていた。なぜこの話が出てきたのかは、私はもう憶えていないが、たぶんギリシャの政治と宗教の問題をアレントが論じていた時に、教授が思い出したのだろう。

ニコロ・マキャベリは、領主としてのローマ教皇の存在がイタリアの統一を妨げていると考えていたのは有名なわけだが、彼の宗教としてのキリスト教に対する否定的な感情は、『ローマ史論』の中に出ていて、要するに「キリスト教は共同体への英雄的な献身を生み出さないが、異教(古典古代のギリシャ・ローマ)の宗教ではそれを讃える」ということであった。これはヨーロッパの思想家の中に流れていた共通の感慨で、彼らによれば、カトリックというのは、愛国心がないんだというのである。カトリックは、普遍的な存在で、その忠誠の対象は、ローマにあるのだと。だから、ジョン・ロックは、彼の考える国家共同体の構想の中に、カトリックは入れなかった。時は、中世キリスト教普遍世界から国民国家建設に向かう時代で、そういう彼らを悩ませたのがカトリックだった。ヨーロッパの思想家たちのこういう着想は、基本的にマキャベリの影響で、モンテスキューもルソーもマキャベリを熱心に読んでいて、ルソーの“civil religion”は、異教世界における宗教のあり方を理想としてといたものなんだろう。ギリシャ文献学を専門としていたニーチェの宗教観は、もっとダイレクトにキリスト教そのものを否定するが、もちろん宗教そのものを否定したわけではないのは、彼の『ツアラツストラかく語りき』という無茶苦茶な作品を我慢して読むとなんとなく分かる。ドイツの場合、政治的にはプロテスタントがこういうニーズを請け負っていて、ヒトラーとゲッペルスはカトリックを捨てた人たちだが、ナチスの党員にプロテスタントが多かったのは、知っている人は知っているだろう。ルターの反ユダヤ主義は有名だが、そもそも彼の現世に対する態度は、完全に官憲まかせでキリスト教は完全に心の問題だったのだから。

もちろん“civil religion”のニーチェ的解釈は例外なのであって、オーソドックスなのは、ロバート・ベラーの「アメリカにおける市民宗教」という論文に示される“civil religion”観であろう。と言っても、この論文も分かるような分からないような難しい論文で、この論文が発表されたのはちょうど米ソ冷戦の真っ最中だったこともあり、ずいぶん誤解された。誤解というのは、要するに「市民宗教」とはアメリカへの愛国心を養成する政治的宗教であるというもので、ベラーの言説の揺れをみるかぎり、彼も少しは誤解に乗っかった瞬間が無いわけではなさそうである。やはり話題になるのは嬉しいものだから。そこで、ベラーの同論文を少し精密に読んでみると、もちろん「市民宗教」とはそういう性格の概念ではないことが分かる。

どんなものかを簡単に述べると、「市民宗教」とは具体的・積極的宗教なのではなく、国民の宗教感情を、特定の宗派的主張を最小限に抑制しながら、政治的動員と安定に結びつける体系的方法論であるということである。つまり、アメリカ的な「政教分離」原則だと考えればすっきりするわけで、こうすれば合衆国大統領が就任式でバイブルに手を置いても問題はないわけである。ポイントは、心の中でジーザス・クライストへの誓いを抱いていてもかまわなくて、本人の信仰がキリスト教ならバイブルに手を置けばよろしいと。国民への献身を、自分の信じる神に誓えばよいと。ただし、公的な場で、「ジーザス・クライスト」の名を口にするのは、ルール違反だという点で、断じて政教分離なのである。だから、純粋に憲法学的にのみ考えれば、仏教徒が大統領に選出されれば、仏典に手を置いて、僧侶臨席のもとで、誓えばよいということになる。理論的にはそうなる。ただ、そういう日は来ないというだけのことである。

そういうわけで、「市民宗教」は当然国によって、雰囲気が違ってくる。ピューリタンが多数ならば、ピューリタン的な雰囲気になる。ただし、それだけである。ピューリタンの主張そのものだとそれは「市民宗教」ではなくて、「国教」になる。だからベラーは、『市民宗教と市民宗教でないもの』という著作の中で、中東のイスラム国家におけるイスラム教は市民宗教ではないと述べている。ちなみに彼は日本の政治における神道的な様式を、「市民宗教」にカウントしている。神社本庁によれば、神道というものには、そもそも経典宗教におけるような「教義」が無くて、基本的には儀式の体系が神道なのだという。言われてみれば確かにその通りであろう。神道の修行方法などよく分からない。

ただし、こうした「市民宗教」というとらえ方自体が、すでに現実をとらえていないという主張が最近のアメリカで少しずつなされてきている。つまりこの枠組みは、アメリカの宗教と政治のあり方に、無理やりヨーロッパの政教分離の原則を当てはめて説明したもので、最初から無理があったのではないかというのである。そこで新たに提案されつつあるのが、「脱世俗化(desecularization)」理論である。この論者によれば、そもそもヨーロッパの世俗化が異常で例外的だというのである。もっと世界を見て欲しいと。世界は宗教がまず中心で、それを権威として政治が正統化されているではないかと。教会と政治を徹底して分離しているのは、世界でもヨーロッパと共産主義国だけで、後者を「宗教」の一形態だとすると、そもそも“the separation of church and state”などは、地域的にも人口的にもごくごく小さいヨーロッパだけの特殊な文化なのだというわけである。これまた言われてみればその通りである。彼らによれば、「世俗化」というのは、歴史の中の一つの現象にすぎないのだという。それで、今アメリカで起こっているのは「脱世俗化」なのだというわけである。

では、過去に実際にあった「公定宗教」・「国教」が、それに属さない人々を政治的に抑圧してきた歴史の教訓はどう活かされるのだろうか、たとえそれがヨーロッパというローカルな世界での特殊な文化だとしても、それが人類の目指すべき方向であるのに変わりはないのではないかという主張は当然なされるだろう。それに対する回答が非常に面白い。曰く「デモクラシー」だと。過去の公定宗教による弾圧にしろ、現在のイスラム諸国における状況にしろ、要するにデモクラシーが欠けていた、あるいは欠けているのが問題の根本なのだという。こうして、「脱世俗化社会における信教の自由」という命題の回答がデモクラシーとして登場するわけだが、なんだかデモクラシーが万能薬化しているのが気になる。

そういうわけで、最近は、自分の専門の傍らでこういう関係の文献を集めて研究を始めている次第である。