西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?
西洋哲学は、17世紀に哲学と科学とに分かれましたが、現在、その思想は共に、東洋に向かっています!
 



今回が哲学編の最終回です☆

今日は再びニーチェに登場してもらい、

西洋(キリスト教)と東洋(仏教)について語ってもらいましょう!

なかなか辛らつですよ。


以下、ニーチェの著「アンチクリスト」から。
(適菜収訳『キリスト教は邪教です!』講談社+α新書)
   
 
●仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい

 現実的です。

 仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを

 考える宗教と言っていいでしょう。


●「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉

 です。

 ブッダの言うことはもっともなこと。

 キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」といった考えは、

 健康的なものではありません。


●仏教はいい意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された

 種族の宗教です。

 残念なことに、ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟

 していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、

 精神的にも肉体的にも健康にさせます。


●私達の敵はキリスト教の神学者とこれまでの哲学すべてなのです.

 哲学すべてなどというと「何をおおげさな」とみなさんはお思い

 になるかもしれません。しかし、これは冗談ではありません。

 ものごとを少し考えている人にはおわかりになっていただける

 かもしれませんが、これまでのヨーロッパの哲学は、すべてキリスト教

 が土台となっているのです。


●僧侶たちは「すべての幸福は神のおかげだ」

「すべての不幸は神を信じないことへの罰だ」などと

 言い始めました。

 まず「原因」があり、それが「結果」につながるというのが

 自然界の法則です。

 彼らが言っていることは、その正反対。


●キリスト教の敵は「現実」です。

 なぜなら、彼らの思い描いている世界と現実はあまりにも

 かけ離れているからです。

 彼らは現実がつらいから逃げているにすぎません。

 彼らは苦しんでばかりいたので、すなおに現実を認める

 ことができなくなってしまったのですね。

 それが作り物の道徳や宗教の本質です。


●僧侶は「科学」を嫌います。僧侶自身が「真理」と「非真理」を

 決めるのですから。

 そういった考え方に、私たちは、闘いを挑まなければなりません。

 科学的な方法によってです。


●キリスト教徒が幅をきかせている世の中では、科学は「神の敵」

 と呼ばれて、長い間不当な一におとしめられてきました。

 科学的にものごとを考えること、つまり慎重で疑い深いことが

 軽蔑されてきたのです。


●神はすっかり弱々しくて青ざめたものになってしまった。

 なにしろ屁理屈によって神を扱う時代になってしまったの

 ですから。


●キリスト教徒というのは異なった文化を認めようとしないのですね。

 それどころか、考え方が違う人たちを憎むのです。

 そして徹底的に迫害する。

 とても暗くて不健康で危険な人たちなのです。


●キリスト教は「希望」というものを上手に使います。

 苦しんでいる人たちに対して、簡単に満たされて用済みに

 なってしまわないような「希望」を、彼らの手の届かない

 ところにわざと置く。そうやって人を釣るわけです。


●彼らは「愛」を利用しました。

「愛」とは、ものごとをありのままに見ない状態だからです。

 人間はそこで夢やまぼろしを見ます。

 また「愛」は人間に我慢することを教えます。

 それで、キリスト教が「信仰」「愛」「希望」というキーワード

 を利用したのは、ある意味では賢かったのです。それによって、

 上手に人をダマせたわけですから。

 仏教がこういう方法を使わないのは、ものごとを現実的に

 きちんと考えるテクニックを持っているからです。


●しまいには、人生のあらゆる場面で、僧侶が不可欠になってしまった。

 結婚、出産、病気、死など、人生の節目節目で、僧侶たちは変な

 儀式を行って、人から金をゆすり取ろうとします。


●結局、イエスは自分の罪が原因で死んだのです。

「イエスは他人の罪のために死んだ」というお話は有名ですが、

 そうではありません。十字架にも、きちんとそう書いてあります。


●キリスト教に比べたら、仏教は100倍も誠実で客観的な

 宗教です。


  

ニーチェやハイデッガーの哲学を見てもわかるように

思想は、西洋から大きく東洋へと移っているようです。

ニーチェはさらにいいます。

●ツァラトゥストラは、自分の心に向かって言った。

「いったいこれはありうるべきことだろうか。

この超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いて

いないとは、

『西洋の科学』が死んで『東洋の科学』が生まれた

ということを」

       (「ツラトゥストラはかく語りき」)


科学もまた、西洋思想から東洋思想へというパラダイムシフトが

おきているのです!

次回からはいよいよ、科学編に突入です!!


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ハイデッガー6回目です☆



このハイデッガーが感動したのが、仏教でした。

ハイデッガーは仏教の「有時」(うじ・ゆうじ)の思想に大変驚いています。

「存在と時間」(SEIN UND ZEIT)は直訳すると

「有」「時」ですが、

仏教書に次のような一節があります。

 「いはゆる有時(うじ)は
 
  時すでにこれ有なり
 
  有はみな時なり」

 「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、

  山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、

  時もし不壊なれば山海も不壊なり」


存在と時間は分けられない、ということですね。

ハイデッガーは自分が哲学してきた内容が、すでに東洋では

遠い昔に明らかにされていることに驚嘆したそうです。


相対性理論によって「時間」と「空間」は分けられないとして

「時空」という概念が確立されました。

ニュートン力学ではなりたたない概念でした。

ちなみに「宇宙」という言葉は「宇」は空間「宙」は時間を表して

います。


また「世界内存在」自体が、仏教でいう、

「三界唯一心、心外無別法」(さんがいゆいいっしん・しんげむべっぽう)

(三界は唯、一心なり、心のほかに別の法なし)

という世界観に近いもので


「凡(あら)ゆる現象を心の中の渦と眺めてゆく」

ことにも連なってゆきます。

ちょっと専門すぎますかね(^-^;


イメージとして次のように考えてください。

夢を見る時、夢の中の「私」も「回りの世界」もすべて意識に収まり、

見る「私」と見られる側の「世界」との間に区別は立ちませんよね。

「この世界」もそのような関係なのです。


ハイデッガーが影響を受けた本の一つにユクキュルスという人が

書いた「生物から見た世界」という本があります。

ダニやハエの世界と人間の世界は別の世界であることを明らかにし、

さらに人間一人一人の世界はべつものであることを示した本です。


その中にはこのような一節があります。

「われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との

 関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結び付けている関係と、

 同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。

 この幻想は、世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物がつめ

 こまれている、という信念によって培われている。

 すべての生物に通用する空間をもつ宇宙の存在への疑いが物理学者

 たちの間で生じてきた。」


一人一人が別々の世界に生きている。

これは仏教の「唯識学」に詳しく教えられているものです。

また、ハイデッガーは晩年には、親鸞聖人の教えに感動したとも

聞いています。


 ●さて、いままで述べてきたハイデッガー哲学を
  まとめてみましょう☆

 ・一人一人が別の世界にいる

 ・私=宇宙(世界内存在) (すごく大まかな言い方ですが。。)

 ・死は最大の問題であり、死について考えるのが本来の姿(本来性)


   ※この死の大問題は科学編と統合した最後に話したいと思います!
 
ニーチェはいいました。

ツァラトゥストラは、自分の心に向かって言った。

「いったいこれはありうるべきことだろうか。

この超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いて

いないとは、

『西洋の科学』が死んで『東洋の科学』が生まれた

ということを」

       (「ツラトゥストラはかく語りき」)


哲学もまた、東洋へと大きくパラダイムシフトしたのです。

次回を哲学編の最終とし、科学編にうつっていきたいと思います!

お楽しみはまだまだこれからですよ(^0^)/







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ハイデッガー5回目!!


ハイデガー
ハイデッガーは

「根本において死の不安につながれた世界を脱却」して

こそ本当の幸せになれると論じています。

しかし、その為には、「存在可能性に関わりつつ生きる」

という有り方に、根本的な変革が起きねばなりません。


それは、単に信じる、とか、明るく生きる、とか、希望をもつ、とか、

絶望する、とかいうことではないのです。

それらのものは、単なる存在可能性の一様態であり、

存在可能性に関わりつつ生きるという有り方に

根本的変革が起こっていない限り、

「死」という存在可能性に関わりつつ生きる、

という有り方にも変わりはないからです。


それならば、結局、いくら劇的な体験だとしても、

根本において、死の不安からは

脱却できておらず、死の解決とは到底言えません。

一般の宗教体験といっても、結局それは、一つの特殊な

存在可能性が開かれたに止まり、存在可能性に関わりつつ生きる、

という有り方そのものには何の変革も起こっていないわけです。

それでは本当の死の解決とは言えないのですね。

それでは、「存在可能性に関わりつつ生きる」という

有り方に、根本的変革が起こった場合、理論的にはどのような事態が

予想されるでしょうか?

それは、今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という

有り方が、言わば根本から否定され、その後に新たな有り方が出

現する、ということでなければなりません。

この「新たな有り方」というのは、既に哲学を超えた所に

位置するもので、到底想像できるものではないでしょう。

しかし、今までの有り方が、根本から否定される、

ということに関しては、ある程度予測することが

可能かもしれません。

それは、少なくとも、回りの世界の根本的変革を伴います。

なぜなら、回りの世界が、現在あるように見えているのは、

今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という

有り方があるからです。

少なくともそれは、「回りが真っ暗になった」とか、

「回りがどうだったか覚えていない」とか、その程度のもので

ある筈がありません。

なぜなら、そういう表現では、まだ、机は机、椅子は椅子として

見えているだろうから。

それは心理的投影のレベルにすぎないからです。
 (このシリーズ12回目を参考にしてください)

その宗教体験のとき、自分が変わるだけで、回りの世界が

温存されるなら、つまり、机が机、椅子が椅子、として

見えたままなら、それは真実の根本的変革ではありません。

机が机、椅子が椅子、として見えるのは、

「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があればこそ

可能なのであり、そういう有り方は、根本において「死への存在」

だからです。

そういう有り方に根本的変革が起きるなら、少なくとも一旦は、

机が机、椅子が椅子としてもはや見えない、という瞬間を

通らねばならない筈です。

言い換えれば、己の成立の根源と回りの世界の成立の根源は

同じところにあり、

(それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、という有り方だが)

自己の変革が、その根源から行われるならば、回りの世界も、

必ず同時に、様相を一変するに違いない、ということです。

己のみが変わって、回りの世界が大して変わらないような体験は、

自己の非常に浅いレベルの変革に過ぎず、

到底、自己の根源にある「死」という問題を解決したことには

なっていません。

要するに、その根本的変革の体験のさなかに、回りの世界が

どのように見えるか、によって、その体験の深さをある程度

推し量ることができるわけです。

これが、ハイデッガー哲学から導き出される結論です。

これが、根本的変革の体験を測るための物差しとして、

今まで人類が作りえた最も正確なものだ、と言っていいでしょう。

逆にいえば

「世界内存在」=「私」 ならば生きている時

(肉体の死をとげる前)

に、生命の根本的変革が可能であり、

生死の大問題の解決が可能、ということです。

これはものすごいことなのです。

死ぬ前に、生きている時に

「生きてよし、死んでよし」の「身」になれる。

それは、そういう心(意識レベル)になれたという段階ではなく、

実際に「生きてよし、死んでよし」の「身」になれる

ということです。


続きます(^o^)/


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さて、ハイデッガー4回目です☆


ハイデガー

ハイデッガーは、人間の究極の存在可能性は「死」といい、

人間を「死への存在」といいました。。

大人のための哲学授業」には、次のように書かれています。



日常的な生=頽落(たいらく)の何がいちばんの問題かといえば、

自分の存在可能にきちんと向き合う態度が欠落

しているということです。

目先のやるべきことに心奪われているときにも

「自分が本当にやりたいこと、やるべきことは何か」という

問いが失われている場合が多い。

そこで、日常的な生=頽落 は、

「本来の自分自身ではなくなっている」という意味で、

「非本来性」と呼ばれます。

では、本来の自分自身である在り方、つまり「本来性」とは、

自分のもろもろの存在可能性に向き合ってみずからそれを

選択するような態度ということになります。

そしてそれは、みずからの死に直面すること-「死への先駆」-

によって可能になる。

日常性=頽落は、「自分がいつか死ぬ」という事実を隠蔽し、

自分の存在を自覚的に引き受けてはいない。

だからこそ、日常性はとつぜん気だるさに襲われるのだ。

自分と世界との関係を再構築することが必要になる。

不安とは結局、みずからの「死」を恐れているのだ。




「死」というものについて3つの視点からハイデッガーは

論じています。

①死は最も固有な可能性である。 (代理不可能)

②死は、あらゆる他の可能性を喪失する可能性である。 

 (死ねば何もできなくなる)

③死はあらゆる瞬間に可能である 

(人はいつ死ぬとも限らない)



日常的な現存在は、自分の「死」の可能性から逃亡し、

「共世界」-みんなとともに生きている世界-のなかへと

頽落している。

こうして死を隠蔽してなにごともないように生きているが、

しかし、この死への恐れは「不安」という気分として立ちのぼってくる

それに対し、死の可能性にまっすぐ向き合うことを、

ハイデガーは「死へと先駆ける」

という意味で「死への先駆」といいます。

みずからの可能性のすべてを見渡したうえで、

「自分にとって本当に大切なものは何か」

を考えることが大切だとハイデッガーはいいます。


つまり、人間、本来あるべき姿は、「死」を通して「生」を

考える、といったところでしょうか。


「死」を人間究極の存在可能性と定義したのは、

この「死」という存在可能性に没入した時、今まで慣れ親しんで感じられた

世界は、全ての意味を失い、不気味な世界となり、

人間は「不安」という気分にさせられるからです。

人間が、自らの存在可能性に関わりながら生きる、

という有り方をしている限り、

人間は、世界を慣れ親しんだものに意味づけ

ていると同時に、その根本においては、不安で得体の

知れない世界を持っています。

慣れ親しんだ世界と、不安で不気味な世界は表裏一体をなす、

と言ってもいいでしょう。

人間は、その不安で不気味な世界から逃避して、

普段は慣れ親しんだ世界に住んでいますが、、

根本においては、不安から逃れることはできません。

このあたりのハイデッガーの考えは、仏教の説く、

生死一如(生と死は紙の表裏のように密接不離で切り離せない)と

同じことを言っていると考えてよいでしょう。



次に原文を見てみましょう。

「存在」と「時間」(SEIN UND ZEIT)(中巻)

『人間存在-現存在は、ふつう本来的な自己自身から逃げ出している。

 これは、不安に駆られているのであって、

 何か特定のものについて
 
 恐れをいだいているのではない。

 いわば得体の知れないこの世に投げ出されてきて、

 さて死んでまたどこへ連れて行かれるか、

 だれも知らない。
 
 われわれがこの世にある、そのことが限りない

 不安なのである。』中巻


『死はたしかにやってくるが、

 当分はまだやってこないと、ひとは言います。

 この「ナニナニだが」でもって、

 <ひと>は死の確実性を否認します。

 死は<いずれ後ほど>と押しやられています。

 こうして<ひと>は死がどの瞬間でも可能である

 という死の確実性特有のものを蔽っているのです。

 死の確実性と、死の<何時か>の無規定性が

 密着しています。』p246

 不安の相手・対象は、
 世界=内=存在そのものです。 p116

 不安が不安がる当の相手は、
 世界=内=存在 自身である。 p118

 現存在は死に向かって存在しているのです p226

 死からの絶えまない逃走 p240


徹底して「死」を問題にしていますね。

では、必ず死なねばならない人間は、どうすればいいのでしょう?

またまた続きます(^-^)/



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さて、ハイデッガー3回目です(^-^)/(まだまだ続きますよ!)

 
ハイデガー

「ひと」=「世界内存在」と規定した、20世紀最大の哲学者、

ハイデッガー!

その難解な「世界内存在」の理解に挑戦しているわけですが、

何となくでも分かったら、大変な感動があることでしょう!!

では、「世界内存在」とはなんぞや!

次の文章を読んでみてください。

「私の見ている世界は、私の過去の思い出をすべて含んで

 慣れ親しんだものとして見えています。

 だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、

 私と深いかかわりを持っているのです。

 そういう世界で生きているのが人間であり、

 そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」というのです。」

 
何となくでもイメージしてくださいね(^-^)/ 


では、回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。

それらが、自分にとって「意味をもつ」ということです。

つまり人間は、自分が「意味づけ」した世界の中で生きているのです。

例えば、この机は、書き物をする、という自分の行為にとって役立つもの。

この椅子、というのは、座る、という自分の行為にとって役立つもの。

という風に、全てのものは、私にとってどういう意味をもつのか、

という見方のもとでそれなりの位置を占めているわけです。

この、書き物をする、とか、座る、とか、そういう自分の有り方を、

ハイデッガーは存在可能性と呼びました。

全てのものの意味は、私の様々な存在可能性から、導かれてくるのです。

「人間とは、自らの存在可能性に関わりつつ生きている存在だ」

これが、ハイデッガーの取り出した、人間の根本的、普遍的な有り方です。

どんな人間も、基本的にはこういう有り方をしているのであり、人間で有る限り、

こういう有り方を免れることはできません。

そこで、私の存在可能性とは、書く、座る、以外にも、歩く、走る、移動する、

など様々であり、それに対応して、靴や自転車や、杖や、自動車が、

意味づけされてきます。

これは、目に見えるものだけではありません。

観念や哲学、すべての学問も、神も、自分自身で意味づけしてこそ、

知識として働くのです。

ですからハイデッガー流に言うと、人間の作った

「世界内存在」の中の神は、臨終の嵐の前に消えてしまう(!)のです。

洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、死を前にしては

ひとたまりもないのわけですね。

原文にはこういう一節もあります。

『現存在は自分があるかぎり、いつもすでに出会う「世界」を
 頼りにしてきたのであって、現存在の存在には本質的に、
こうした依存性が属しています。』
(「存在と時間」上巻p170)

      

では、人間の究極の存在可能性とは、何か。

それは『死ぬ』ということだとハイデッガーは言います。

ハイデッガーは、「死」という存在可能性を非常に重視しています。

人間を「死への存在」と言うのはそのためなのです。

この「死への存在」については、次回お話することに致しましょう(^o^)/



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2回目のパラダイム・シフト(「枠組み」「世界観」の大転換)が起こり、

実存主義の大成者ハイデッガーの登場まできました。

さて、これからしばらく、ハイデッガーシリーズが続きます。

ではガンバッていきましょう~(^o^)/

 
 マルティン・ハイデッガー 
(Martin Heidegger,
 1889年9月26日 - 1976年5月26日)
 ドイツの哲学者。
 現象学の手法を用い、存在論を展開した。
 また、後の実存主義、構造主義、ポスト構造主義などに
 大きな影響を与えた。


ハイデッガーの主著、「存在と時間」

 

「西洋哲学の歴史のなかで最も重要な著作の一つ」と評されます。

さて、ハイデッガーは、人間を「世界=内=存在」(せかいないそんざい)

だと言いました。

人間とは「世界=内=存在」??

いきなり理解しがたい唐突な表現だと思う人もあるかも知れませんが、

「人間は、そういう在り方をしている」とハイデッガーは言うのです。

頭のてっぺんから足のつま先までが人間、という表面的な

意味ではないわけですね。

原文を見てみますと

『人間の「実体」は、心と肉体の総合としての精神ではなくて、実存なのです。』
    (「存在と時間」中巻 p44)

 
(このシリーズでは岩波文庫の桑木務訳で通します)

とあります。単なる、肉体を<ひと>とは定義づけず、「心」も単純な

意味ではありません。

哲学者ですから、哲学的に、そして厳密に人間というものを

定義づけているわけです。

では「世界=内=存在」とは何ぞや?


ハイデッガーの言った「世界=内=存在」とは、

「世界の内に在る、という有り方をしているものが人間だ」ということです。

もっとうがって言えば「世界は人間(私)の構成分の一つだ」ということに

なります。

原文には

『世界は、世界内存在として、現存在の自己存在に属しています。』

 (「存在と時間」中巻 p44)

とあります。


大人のための哲学授業には、次のように書かれてありました。



「現存在の存在」ひらたくいえば「人間の生のありよう」を、ハイデガーは
<世界=内=存在>(イン・デア・ヴェルト・ザイン In-der-Welt-sein)
 と名づけています。
「世界に関わりつつ存在している」くらいの意味です。


「肉体が私」という固定観念を取り払って、心を空しくして、

ハイデッガーの哲学に耳を傾けてみましょう。


「世界=内=存在」といことは、私の身体も、目の前のペンも、部屋も、

家も、景色も、全てひっくるめたものが私だ、ということです!!

ついてこれてますか(^-^;??


まあ、まずは続けて読んでみてください。

すべてをひっくるめて私ということは、どういうことか、説明します。

例えば、自分の家を見る時、その家は、子供時代からの思い出を全てふくめて

「慣れ親しんだ」もの、として見るでしょう。

そういう見え方をしている家というのは、私の世界にだけ、あるわけです。

親、兄弟、といってでも、見え方は違いますよね。ましてや友人が見た場合、

たまたま通りかかった人が、家を見た場合と、その家は、違う形として

うつれているわけです。

その意味で、私の家は、私の世界の一部であり、私という人間の一部、と言える、

ということです。


だから、一人一人が一人一人の世界(仏教でいう業界)を持っている

ということ。

何となくでも分かってもらえますかね(^-^;


原文では

『世界のなかに溶けこむ、』 p107

とあります。ちょっと難しいですかね(^-^;


「心が世界を生み出す」とも表現されます。

「心が世界を生み出す」という言い方は、私達の心が実体としての机や、

実体としての地球を生み出す、ということではありません。

心が、今までの心の歴史から(仏教でいう業)そういう見え方の世界を生み出す、

ということです。

回りの世界は決して己を離れたものではなく、その成立の由来から、己と深く

かかわっている(なれ親しんでいる)わけです。

これがハイデッガーのいう「世界内存在」なのです!!

大丈夫でしょうか?(^^;)


ちなみに、これは単なる心理的投影ではありません。

 心理的投影とは、そのときの心理状態によって見え方が変わるということです。

 例えば、切るものを探している時、はさみは切るものとしてうつれます。

 磁石の実験をしているときは、はさみは、鉄としてうつれます。

 強盗に襲われたときは、身を守るものとしてハサミを見るでしょう。

 こういう見え方の違いが心理的投影です。


では、そのように回りの世界の中の色々なものが慣れ親しんで感じられる、とは

どういうことか、とハイデッガーは分析をすすめますが、

いっぺんにやりすぎると大変なので、つづきます!!!



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さて、いよいよ実存主義の大成者、

マルティン・ハイデッガー

の登場です☆


マルティン・ハイデッガー 
(Martin Heidegger,
 1889年9月26日 - 1976年5月26日)
 ドイツの哲学者。
 現象学の手法を用い、存在論を展開した。
 また、後の実存主義、構造主義、ポスト構造主義などに
 大きな影響を与えた。


ここで、いままでの内容を少し振り返ってみましょう!

ギリシャ哲学にはじまった西洋哲学。

17世紀デカルト物心二元論で、一回目のパラダイムシフト

おきます。


  デカルト

いわゆる一つだった哲学と科学がここで実質二つに分かれたのです。

に関することは、哲学・宗教(キリスト教)が受け持ち、

に関することは、科学が受け持ったわけです。

ちょうど、この17世紀には、科学の世界にニュートンがあらわれ、


ニュートン

デカルトの流れで、近代哲学が発展していき、

ニュートン力学によって、近代科学が発展していくわけです。

ところが、20世紀2回目のパラダイムシフトがおきます。

哲学の世界では、19世紀末にニーチェがあらわれ、

それまで哲学の基盤であった「神」の概念が、

「神は死せり」のニーチェの哲学によって大きくゆらいだわけです。

  
     ニーチェ

科学の世界では、アインシュタインが現れ、

  
     アインシュタイン  
間違いないと思われていた、ニュートンの絶対空間、絶対時間は

完全なものでなく、宇宙に飛び出せば、相対性理論でなければ

説明できなくなってしまいました。

「神」を失い、新たな基盤を求めた西洋は、共産主義


マルクス


と   

実存主義の二つの流れとなりました。

しかし、共産主義は崩壊。

そこで、実存主義に期待がかかるわけですが、その実存主義の

大成者がハイデッガーなわけです!
(分類の仕方は諸説ありますが、とにかくハイデッガーが
 あらわれた訳です)


   ハイデガー
 
ところが、このハイデッガー哲学は難解です。

主著存在と時間はその厚みといい、専門用語の多さといい、

理解するのは大変です。

ハイデッガーの解説書を読んでも、ちょっとやそっとで理解できる

ものではないでしょう。

やっと読んでも「それで?」となるかも知れません。

今日からこのブログで紹介する内容は、膨大なハイデッガー哲学の中で、

世界内存在」にしぼり、いったいそれは、私たちにとって、

どのような意味があるのかを考察してみたいと思います(^-^)/
        


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哲学編はいよいよ大詰めに迫ってきてます。

今回登場するのは、デンマークの哲学者

セーレン・キュルケゴールです!

「世界中で最も多量のインクを使った人」といわれるほどの

勉強家でした。

実存哲学の先駆者といわれます。

厳密にいうと、ニーチェより前の人ですが、

全体の流れを重視し、

ニーチェよりあとに登場してもらいました☆


神は死せり」と宣告され、土台がゆらいだ西洋哲学は、

その後、共産主義実存主義と二つの新しい流れがメインと

なります。

しかし、共産主義は前回の記事で投稿したように、崩壊して

しまいました。

そこで希望の星、実存主義☆

その先駆者がキュルケゴールなのです!



セーレン・オービエ・キェルケゴール
 Soren Aabye Kierkegaard,1813-1855
 著「あれかこれか」「不安の概念」「死に至る病」など。

 ※実存  :実際にそこにあるもの。
       特に人間存在をいう。
       主観とか、客観とかに分けてものごとを
       とらえる前の存在の状態。 
 
  実存主義:人間の実存を中心に考える思想
       客観的なとらえかたや、
       観念的なとらえかたを批判する。 


そのセーレン・キルケゴールは、人生の根本問題に、

深刻に取り組んだ哲学者でした。

彼の信念は「ギーレライエの手記」と呼ばれる日記に記されています。

『私に欠けているのは、私は何をなすべきか、

 ということについて私自身に決心がつかないで

 いることなのだ。(略)

 私にとって真理であるような真理を発見し、

 私がそれのために生き、

 そして死にたいと思うようなイデー(理念)を

 発見することが必要なのだ。

 いわゆる客観的真理などをさがし出してみたところで、

 それが私に何の役に立つだろう!』

格好いいですね!!(そういう問題ではないか?)

また、キルケゴールは

「 自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、
 いとも簡単になされている」


 と著書『死に至る病』で警告しています。
 
この言葉は

「どのような喪失にしろ、これほど平静にすまされることはないもので、
 ほかのものなら何を喪失しても、腕1本、足1本、金5ターレル、妻、
 そのほか何を失っても、ひとはすぐに気づくのである」

と続きます。

自己を知る重要性を訴えた人でした。

このころ、デンマークでは、ヘーゲルらの哲学が流行していました。

そこには、いかめしい体系はあっても、

肝心な「自己の生き方」が抜け落ちていたのです。

キルケゴールは、彼らの哲学を拒絶し、

「自分がそのために生き、そのために死ねる真理」を探そう、

と思ったわけですね。

そんな彼の前に現れたのが、レギーネ・オルセン

たちまち、恋に落ち、27歳で婚約したのですが、

約1年後、約束を一方的に破棄しました。

恋する人を得ても、大事な問題は未解決のまま。

『たとえ全世界を征服し、獲得したとしても、
 自己自身を見失ったならば、なんの益があろうか』

と、当時の日記に書いています。

すごい言葉ですね。

このキルケゴールの哲学を学ぶ時、忘れてはならないのが

『実存への3段階』です。

(以前、間違って「実存の3段階」と言ったら怒られました。

 「実存の3段階」です。

『あれか―――これか』『哲学的断片』『人生行路の諸段階』

などの著書を次々と出版し、その中で、

人間の真の生き方に到達する道を、3段階に分けて考え、記したものです。

①「美的段階」

 欲望のままに快楽を追う生き方。
 
 しかし、無限の欲は満たされず、不満と不安にとらわれ、
 
 やがて、絶望してしまう。

 人は快楽では真の幸福は得られぬと気づく。
 
②「倫理的段階」
  欲を抑え、道徳的に生きる生き方。

  しかし、不完全な人間に、完全な善はできない。
  
  結果、真剣に善に向かうと、良心の働きが鋭くなって、
  
  自分の悪が見えてくる。
  
  罪悪感が深まり、またもや絶望するほかなくなってしまう。

③「宗教的段階」
  人間を超越した絶対者の力によって幸せを与えてもらうしかない。
  
  不完全な人間の内側を探しても、絶対者は存在しない。
  
  だから、救済は信仰の決定的飛躍によってのみ得られると確信する。


これが『実存への三段階』です。
  
西欧で生まれ育ったキルケゴールにとって、「信仰」とはキリスト教でした。

彼は、聖書の記述を一切、疑わないように努力したそうです。

例え話や冗談として扱わず、まともに受け止めようとしたのです。

しかし彼は最後まで、キリスト教を信じ切れませんでした。

「キリスト教はどこにもない」

と絶望の叫びを残しています。

彼自身は「宗教的段階」をキリスト教に求め、結果、幸せには

なれなかったようですね。

しかし、実存主義は受け継がれ、のちにハイデッガーが現れるわけです。

ハイデッガーはいよいよ次回登場!



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「神は死せり!」

ニーチェの思想により、その根底が大きくゆらいだ

西洋哲学。

新たな思想が求められます。

西洋の価値観が大きくゆらぎつつある、そんな時代に

あらわれたのが、マルクスでした。


カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx,
1818年5月5日 - 1883年3月14日)
ユダヤ系ドイツ人。
経済学者、哲学者、革命家。
産業革命後の資本主義経済を分析し、
フリードリヒ・エンゲルスとともに、
自らの共産主義を打ち立てた。
『共産党宣言』の結語
「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」
“Proletarier aller Lander, vereinigt Euch!”
の言葉は有名。
プロテスタントとしての洗礼を6歳で受けるが、
のちに無神論者になる。


 スタンダードなわけ方なら時代順ということで、ヘーゲルの後、
 キルケゴールとマルクスに分けるのでしょうが、時間的なものより
 大きな流れを重視して、ニーチェの後、キルケゴールとマルクスの
 流れで紹介します☆


今日は、そのマルクスについて勉強してみましょう☆

細かいところまで話できないので、

有名なマルクスの唯物史観(ゆいぶつしかん)と共産主義の骨組みを

紹介したいと思います。

(細かいところは、かなりはしょってます、当然ですが。。)

唯物史観とは、

おおざっぱにいいますと、

「物質的な発展に基づいて、

 人間の発展や変化を説明する」方法です。

マルクスは次のようにいいます。

「社会の発展は、その社会のもつ物質的条件や
 生産力の発展によって引き起こされる。」

「どんな国家でも、支配階級のための権力組織である。」

「言い換えれば、国家とは、ある一階級が自らの支配を安泰にし、
 自らの好ましい生産関係を社会に強いるための手段である。 」

「今ある生産関係の形態が生産力の発展を助けず、
 その足かせとなるとき、革命がおきる。」


大分、まとめたのですが、まだ、難しいですかね(^-^;

マルクスの主張は、最終的な結論からいうと、

「支配者階級ばっかり良い思いするな!
 みな、平等にしよう!」


といった感じ。

その理想を実現しようとして、

「能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受ける」社会を

目指したのが共産主義です。


自由を重んじている資本主義に対して、

共産主義は、平等を重んじているともいえるでしょう。


しかし、理想と現実には大きなギャップがあったようです。

結局ソ連はご存知の通り崩壊してしまいました。

なぜか?

「能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受ける」社会を

シンプルに考えてみましょう。

以下シンプルに数字で共産主義の仕組みをあらわしみました。

「能力に応じて働く」とは、

100の能力もつAさんは、100働きましょう。

70の能力をもつBさんは、 70働きましょう。

40の能力のCさんは、40働いてくださいね。

ということ。

結果、全体の生産が210(100+70+40)になります。

これを必要に応じて(平等に)分配すると、

1人、70ずつになりますよね(210÷3=70)

能力40のCさんにはまさに理想の社会。

ところが、100の能力のあるAさんはどうでしょう?

「なに、あのトロいCさんと同じ給料!?」

 平等の理念はわかるが、どうも釈然としないでしょう。
 
そうすると、Aさん、手を抜きはじめる。

100の能力もつAさんは、70しか働かなくなる。

70の能力をもつBさんは、 70働く。

40の能力のCさんは、40働く。
  
結果、全体の生産が180(70+70+40)に落ち込む。

平等に分配され、一人の取り分は、60(180÷3=60)

すると、今度は

100の能力もつAさんが、60しか働かなくなる。

70の能力をもつBさんが、60しか働かなくなる。

40の能力のCさんは、40働く。。

こうして、最後、みな40しか働かなくなり、収入はガタ落ち。。。

結局、「マルクス主義は、平等に貧しくなる思想」と皮肉られて

しまいます。

たけしは、マルクス主義をこう評しました。

「今世紀最大の新興宗教といったら、
やっぱりマルキシズムだろうな。
まったくとんでもない宗教だった」(ビートたけし)

”宗教はアヘンである”として排斥したマルクス主義が、

実は最大の新興宗教だったというのですから、

皮肉なことですね。

さらに、たけしは言います。

「マルクス教信者たちは、
人間がいかに言うことをきかねえか、
だらしねえか、ダメなものかというのが、
全然わかっていなかった」

なるほど、簡にして、明、ですね。

結局、人間の欲望というもの、自分というものが分かって

いなかったということ。

「神」の理念を失い、「共産主義」を目指しましたが、

これも失敗に終わった西洋。

西洋文明は、どこへ行くのか?

次回に続きます(^o^)/


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今回は、2回目のパラダイムシフトのキーパーソン、

ニーチェです☆


哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、
ドイツの哲学者です。

「その思想は100年後に理解されるだろう」
と言われて100年。

まさにニーチェの予言した「ニヒリズム」の時代と

なっているのではないでしょうか?

ニーチェの言葉で何といっても一番有名な言葉は

「神は死せり」("Got ist tot.""God is dead")でしょう。

以下、原文をみてみましょう。


「神が何処へ行ったかって?」と彼は叫んだ、
「お前たちに言ってやろう。
 我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が!
 我々はみんな神の殺害者だ。

 神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。
 世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、
 それが我々のナイフによって血を流したのだ。」

         (「ツァラトゥストラはかく語りき」)


「アンチクリスト」という本も出しており、

キリスト教は邪教です!」という題(なんというタイトル!!)で

翻訳されてますね。(講談社から出てるんですね~)

すごい題に訳されたものですが、もうすぐ5万部になるそうです。



しかし、西洋において「アンチクリスト」という題は、

私たちが「キリスト教は邪教です!」という題を見た以上に

衝撃的かもしれません。

  詳しくはコチラ

以下、引用してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

適菜収訳『キリスト教は邪教です!』(講談社+α新書)より

「これから私がお話しすることは、もしかしたら少数の人たちにしか

 受け入れらないかもしれません。

 それに正直に言って、皆さんがこの本の内容を完全に理解されることは
 
 難しいのではないかと私は思っています。
 
 私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下ろしました。
 
 それを受け止めていただくためには、皆さんには、まず「精神的」
 
 なことがらに対して、きびしく、正直であってほしいのです。
 
(中略)

 「皆さんは、くだらないものはくだらないと、
 
  はっきりと軽蔑するべきなのです。」

 (中略) 
 
「では「幸福」とは何でしょう。それは、力がみなぎっていくこと、

 勝ち抜いたということ、頂点をきわめたということ、なのです。
 
 弱い人間やできそこないの人たちは、落ちぶれていくべきだと
 
 私は考えています。こういうことを言うと、皆さんは驚かれるかも
 
 しれません。
 
 しかし、本当に人間というもの愛するのなら、落ちこぼれたちが
 
 ダメになっていくのを、むしろ背中から後押しするべきです。
 
 人間という存在が本当に素晴らしいものになっていくためには、
 
 それが必要なのです。それこそが、本当の人類愛というものです。
 
 だからダメな人間に同情することは、非常にいけないことなのですね。
 
 キリスト教という宗教がありますが、あれはその典型です。」


被告・キリスト教は有罪です。私はキリスト教に対して、

これまで告訴人が口にしたすべての告訴のうちで、

もっとも恐るべき告訴をします。

どんな腐敗でも、キリスト教以上に腐っているものは

ないからです。

キリスト教は、周囲のあらゆるものを腐らせます。

あらゆる価値から無価値を、あらゆる真理からウソを、

あらゆる正直さから卑怯な心をでっちあげます。

それでもまだ、キリスト教会の「人道主義的」な

祝福について語りたいなら、

もう勝手にしろとしか言えません。

キリスト教会は、人々の弱みにつけこんで、

生き長らえてきました。

それどころか、自分たちの組織を永遠化するために、

不幸を作ってきたのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すごいことをいいますねー、当時の西洋にてよく言えた

ものです。

ともかく、ニーチェの「神は死せり」は西洋哲学に

衝撃を与えました。

なぜなら、西洋哲学の根本に「キリスト教」が

あったからです。

もっといえば、西洋の科学も「神の心を知る為」に

発展させようとしたものでした。

「神」という大前提がゆらぎ、

2回目の大きなパラダイムシフトがおきるのです!!


では続きはまた(^o^)/



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