明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の好きな心に染みる歌、改め「私の選ぶ新百人一首」(3)一条院皇后宮定子

2023-08-01 22:11:00 | 芸術・読書・外国語
第三位、 夜もすがら 契りしことの 忘れじは  恋ひん涙の 色ぞゆかしき ・・・藤原定子

前回、従二位家隆で取り上げた「風そよぐ」の名歌だが、あの後に歌の中に込められた「祝意」ということで、更に深い意味があることに気がついた。夏越の祓は厄払い悪病退散の行事の一つだが、下の句の「禊ぞ」という言葉で家隆は、自分の上司である道家の愛娘「竴子(しゅんし)」の目出度い中宮入内に「罪や穢を落とす」という意味も込め、「美しく清らかな姿で」天皇家へ送り出す「寿ぎの歌」としたのである。なお、私は前回「下鴨神社」と書いたがこれが真っ赤な嘘で、ならの小川(御手洗川)は本当は「上賀茂神社の境内を流れる川だ」と判明したので、お詫びして訂正致します、御免なさい。

まあ、上でも下でも大した違いではないとも言えるが、これで私が京都に不案内だということがバレてしまったわけだ。実は賀茂社は上下とも「一度も行ったことはない」のである。宝ヶ池にはイベントで何度か行ったことがあるが、すぐそばの上賀茂神社・下鴨神社に行ったことがないというのは、京都通を自称している私としては返すがえすも情けない。糺の森ぐらいは散歩しても良かったのに、と大いに反省してます(グスン)。

ちなみに大祓は年に2回、6月と12月の晦日に行われ、6月30日の夏越の大祓では「茅の輪潜り」が有名だそうである。メインイベントとしては下鴨神社では「矢取りの神事」が行われるそうだが、上賀茂神社では「人形流し」というのが行われて、これは夜8時頃から開始というから、家隆の歌の「夕暮れ」とはそぐわない気がする。が、とにかく一度は行っておくのも良いだろうと思う。何にしても、実際にこの目でしかと見るまでは、知ったか振りするのは止めとこう、と思った次第でした。

さて、第三位のこの歌だが、時の関白内大臣正二位藤原道隆の妹で、一条天皇の皇后(号は中宮、後に皇后宮)に迎えられた定子の歌。第二皇女媄子内親王の出産直後に崩御した時に、自らを哀傷して作ったと言われている。これを機に中関白家(父・兼家と弟・道長の間だから「中」と言われる)は凋落の一途を辿ることになる。この道隆は「眉目秀麗」、明るく開放的で冗談付きな性格から、特に女性の間に絶大な人気を誇っていたというが、43歳で飲水病(糖尿病らしい」で死亡してしまった。それから中関白家は、定子の兄弟の伊周や隆家が花山天皇に矢を射掛けるという事件を起こして左遷されるなど、問題続きで勢いが傾き、結局家系が絶えてしまった。定子の死も、中関白家の不幸な運命のうちの一つなのかも知れない。

定子は13歳で入内し、一条天皇の姉さん女房として仲睦まじく暮らしていたが、そのサロンは流行の最先端を行く華やかなものであり、漢学の素養もあって「まさに絵に書いたような才色兼備」の女性だったという。このサロンには後日、枕草子の著者「清少納言」も加わっており、定子の機知を愛し風雅を重んじた性格もあって、一条期の宮廷の明るい雰囲気が伝えられている。この時期は、彼女の生涯で一番幸福な時ではなかっただろうか。定子を一条天皇の皇后にするために、道隆は三人いる后(太皇太后・皇太后・中宮)に割り込ませて色々ゴリ押しした経緯もあって、案外と政権の中に「敵を作った」ようである。藤原実資の日記「小右記」には、定子の立后を往古不問事と書かれている。

順風満帆だった定子の生涯も道隆が急死した辺りからチグハグになり、伊周・隆家が事件を起こして定子の家に逃げ込んだ所を検非違使に捕縛されたことで、一気に政権の中枢から追い落とされ、定子自身も落飾して仏門に入ってしまった。一条天皇はそれでも定子を愛していた為に何とか戻って来てくれと懇願したようだが、定子の意思は変わらなかったと見える。ようやく再度宮廷に定子を迎え入れた一条天皇だが、もはや中宮という華やかな立場ではなく、清涼殿からほど遠い中宮職の御曹司にひっそりと暮らす生活に甘んじたようだ。一度出家した后の再入内を、世間は「天下不甘心」と小右記は書き残している。そんな中でも第一王子敦康親王を出産し、天皇を大いに喜ばせた。

これで焦った藤原道長の策略で、むりくり女御彰子を皇后に冊立し、中宮を号するなど「定子追い落とし」に必死になって、とうとう定子の不幸のドラマが大団円を迎えることとなる。長保2年の暮れに第二皇女を出産直後に、産後の肥立ちが悪くて体調が悪化、ついに死を覚悟した定子が「今生の思い出に」と歌にしたのが、この絶唱である。

前半の意味は分かりやすい。「二人が一晩中愛し合ったことを、あなたが忘れていないなら」、とストレートに解釈しよう。下の句は、「(二度と会えない黄泉の国に私は一人で旅立つことになってしまったけれど、それを知ったあなたが)私を思って流すであろう涙の色が、(恋するものの流す)血の色であるかどうか、知りたいものだ」、と解釈できる。今はただ、この世の栄華のすべてを諦めて一人静かに去っていく私だが、あなたの涙の色を見ることが出来ないのが、ただ一つの心残りである。どうか、血の色であって欲しいけど・・・、というのが言外の定子の気持ちであろう。生きたいという切なる気持ちを叶えられずに長い諦念で心を鎮めた後、愛する一条天皇を思いやって「涙の色を見たいわ・・・」と最後の別れを歌った彼女の曇りなき冴えた心情には、読む者を泣かせずにはいられないものがある。一条天皇も、愛する定子を病から救うことが出来ず、永遠の別れの言葉が「心にグサグサ突き刺さって」、この歌を読んだ夜はきっと一晩中号泣して、目を「真っ赤にした」んじゃないだろうか。男女の愛が死によって引き裂かれる哀しみは、現代も平安時代も、究極の気持ちに変わりは無いという証しである。

ちなみに「ゆかしき」というのは、興味があって知りたいということなので、例えば話していても言うことに深い含蓄があり、みだりにガツガツ自慢話などをしない人を「奥ゆかしい」などといって、「その人の人柄をもっと深く知りたい」という意味になる。この歌の場合は、色を知りたい、というのがそれだ。何分にも伝承のことで真偽の程は分からないが、もし死の床で定子が作った歌であれば「余り深読みせず」に、字句通り解釈して問題がないと思う。その方が、よりストレートに彼女の愛らしさが伝わって来て、更に一層、人生の儚さを感じさせる、と思うのである。

ネットなどでは「契りし」を神との約束のように取り、肉体的・エロティックなものではなく、精神的な愛情を描いているとした解釈もあるようだが、この時代の男女関係には、後代の言う所の精神的とかいう「現代的な複雑なもの」はまだ生まれてはなくて、一晩中愛し合ったと書いても「誰もエロティックとは思わない、当たり前のこと」と解釈するほうが現実感・臨場感がある。何よりこの歌を読んだ時の、読者の「素直な感動」こそが、受け狙いではない、定子の「畢生の絶唱」に相応しいと思う。歌の流麗な格式の高さは、彼女の類まれな素養が巧まずして表に出たものと考えると、更にこの悲劇の皇后が愛おしくなってくるではないか。

一条天皇もまた、道長の策略の前に「定子の忘れ形見の敦康親王」を皇位につけることが出来ず、後半生は政治からも遠ざけられて、さみしくこの世を去っていったみたいである。道長が「この世を満月に例えた」のはこの頃のことだ。庶民から見れば幸福の絶頂を味わっていたかに見えたであろう定子も、運命の大波に翻弄された弱者の一人だったというべきか。・・・黙祷!


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