Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

デュラス

2010-11-28 14:47:19 | 日記


今月新刊の文庫本にデュラス『アガタ』とコクトー『声』のふたつの戯曲のカップリングがある(光文社古典新訳文庫2010)

この翻訳者渡辺守章の解題“『アガタ』あるいは創られるべき記憶”にあった;

★しかしデュラスという人は、自分の個人的体験を、虚構の枠組みの中で一種の普遍的経験に読み直す、とでも言ったらよい操作をするから、(略)虚構の「種」を探すことを、19世紀的実証主義の残滓と言って、退けてばかりもいられない。


《創られるべき記憶》とか、《個人的な体験》とか、《虚構の枠組みの中で一種の普遍的経験に読み直す》とか、《19世紀的実証主義の残滓》ということがあるのである。


このことは、デュラスに限らない。

まさに現在ぼくが読んでいる大江健三郎『取り替え子』は、そういう問題群を喚起する。
そして大江には、『個人的な体験』というタイトルの“小説”もあった。

ぼくが中上建次の“小説”『熊野集』と“ドキュメント”『紀州』を同時に読んで、衝撃を受けたのも、その“問題群”に係わる。


しかしこのブログは、マルグリット・デュラスに係わる。

前にも引用したデュラス自身の発言がある(自分のことが書かれた本に寄せた序文“彼女はわたしについて書いた”);

★ 彼女がわたしに、わたしがシャムの森でエクリチュールに出会ったと言うのは、驚異的だ。そして彼女がそれを言うとき、わたしはそれを信じるのだ。死の、悲惨の、わたしのこども時代の森……


《シャムの森でエクリチュールに出会った》

という指摘に、デュラス自身が、驚いた、のである(たしかにそれは、レトリックでもあろう)


そして“ぼく”にとって(“ぼくら”にとって)問題なのは、<どこで>エクリチュールに出会ったか、あるいは、出会えなかったか、という問題である。


その<場所>は、デュラスにとっては“シャムの森”であった。
大江健三郎にとっては、“森のなかの谷間の村”であった。
中上建次にとっては、“路地”であった。

そして、村上春樹にとっては?




このブログの最後に、デュラスの“シャムの森”についての、圧倒的な記述を引用する;

★ 夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。
<デュラス『愛人(ラマン)』>


★ 子供たちがとても幼かったころ、母親は、ときどき、子供たちを乾季の夜景を眺めに連れだした。彼女は子供たちにこう言う、この空を、まるで真っ昼間のように青いこの空を、見渡すかぎり大地が明るく照らされているのをよく見てごらん。それからまた、耳を澄ませてよく聴いてごらん、夜のざわめきを、人びとの呼び声、笑い声、歌、それからまた、死にとり憑かれた犬の遠吠えを、あれらの呼び声はみんな、孤独の地獄を語り、同時にまたそういう孤独を語る歌の美しさを語っている。そういうことも、耳を澄ましてちゃんと聴かなければ。普通は子供たちには隠しておくことなのだけど、やっぱり逆に、子供たちにはっきりとそれを語らなければいけない、労働、戦争、別離、不正、孤独、死を。そう、人生のそういう面、地獄のようであり、同時にまた手の打ちようもない面、それもまた子供たちに知らせなければいけない、それは、夜空を、世界の夜の美しさを眺めることを教えるのと同じことだった。この母の子供たちは、しばしば、母の語る言葉がどういう意味なのか説明してくれと求めた。すると母はいつも、子供たちに、自分にはわからない、それはだれにもわからないことなんだと答えた。そして、そういうことも知らなければいけない、と。何にもわからないんだいうこと、何よりも、それを知ること。子供たちに向かって何でも知っているよと言う母たちでさえ、知らないんだ、と。
<デュラス『北の愛人』>






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2 コメント

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Unknown (不破利晴)
2010-11-29 00:12:47
不破でございます。

『愛人(ラ・マン)』『北の愛人』そして『太平洋の防波堤』

そこには必ず母≒デュラスの母、少年≒デュラスの兄、少女≒デュラス本人、そして少女時代の絶望的とも言える経験が折り重なるようにして存在してますね。
その辺がデュラスの世界観だと思いますが、漢方薬のようにじわりじわりと迫ってきます。

デュラスの作品は原文で読んだらどんなに素晴らしいかと思います。
翻訳としてはかなり良いと思いますが、原文ではどうなのかな?、とついつい思っちゃうのがデュラスの作品ですね。

そんな意味では、村上春樹の海外向け翻訳本もピンときませんね(笑)
Unknown (warmgun)
2010-11-29 00:58:38
不破利晴 さま

ああ、このブログは、“不破利晴ブログ”連動企画さ。

ぼくは、英語と仏語は学校でちょっと習ったが、“原書”で小説にしろ思想書にしろ1冊読んだことはほとんどない。

最近、英語の本でも、翻訳がけっこうひどいという指摘が多いので、やっぱサイードとかは、英語で読んでみようか(かなり辞書を引くことになる)とも思う。

しかしデュラスの翻訳は、原文と比べたわけではないが、日本語として満足できる。
(そういえば『イギリス人の患者』の原書は買って、好きな部分の英語原文と比べたら日本語翻訳文の方が良かった!)

きみは、政治情勢についての発言を続けているが、ぼくは“なにもかも”つくづくいやで、そういう時は、デュラスの文章は、とても良い(笑)

大江の『取り替え子』はあと数ページで読み終わるが、やっぱ、このひとには困った(爆)
“くだらない”小説とは思わないし、“つまらなく”もないが。
(ようするにこの人の、セックスが、ぼくとはまったく異なっているのだ!;爆)

ぼくは中上建次を除くと、ニッポンの小説は、“基本的に”苦手だなー。

デュラスやル・クレジオが読みたくなる。

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