Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

幻影の都市=東京

2010-02-10 22:24:42 | 日記


★ 敬太郎をまきこんだこうした錯誤に近いものを、私たちは地下鉄の駅から地上の街路にくぐりでるときにしばしば体験する。私たちが通過するのは、閉された地下の空間と開かれた地上の空間との不連続面であって、標識に惑わされて思いもかけぬ街角に引きだされた方位感覚の喪失が加算されるとき、ふだん見なれているはずの地上の風景は、意外に新鮮な印象で迫ってくる。空間感覚の日常性が破綻したときにあらわれるこの手の幻覚のもっとも精妙なモデルとしてごく自然に連想されるのは、萩原朔太郎の『猫町』である。朔太郎によれば、夜汽車の乗客は、うたた寝の夢から醒めたとき、汽車が逆方向に進行する錯覚におそわれることがあるという。そのとき、窓外の見慣れた風景は、まったくべつの世界に見えてくるというのである。しかし、現実の正しい方位の認識がはじまるとともに、「始めに見た異常の景色や事物やは、何でもない平常通りの見慣れた詰らない物に変わつてしまふ」。

★ 東の停留場で黒子(ほくろ)の紳士を待ちかまえている敬太郎の周辺にはしだいに夕闇が迫り、ガス燈と電燈の光が群集の雑踏する商店街を彩りはじめる。明治末年は、ガス燈と電燈にあわせてまだランプがまだ実用に供されていた時代であって、光の種類が多様であるだけにいっそう街並みの影は深いのである。

★ 敬太郎は、夜の街並みにきらめく電燈やガス燈の光を、夢の世界、仮象の世界の影であるかのようにうけとめる。夜の光は、昼間の陽光とはうらはらにものの輪郭を鮮明に浮かびあがらせはしない。とりとめのない幻像を織りなすまやかしの光源であり、ひとを夢見心地に誘いこむいつわりの照明なのだ。この「夢の影」に見せかけの生気を吹きこむのは、夕闇のあわいから突然敬太郎のまなかいに姿をあらわした見知らぬ若い女である。

★ 漱石は、『それから』の代助をかりて、関連性を喪失したために、「孤立した人間の集合体」にすぎなくなった現代社会の病弊を指摘したことがあった。また、近代人の病理の象徴としての「探偵」は、『吾輩は猫である』を書いたころから漱石の心にわだかまっていた固定観念のひとつであった。(略)敬太郎に探偵の役割を演じさせ、虚体としての都市空間を探索させるプロットを案出した漱石の意図は、思いの外に根深いところから発しているのだ。

<前田愛;“仮象の街”-『都市空間のなかの文学』>





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