Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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Snapshot;上村愛子は“参考”になるか?

2010-02-15 11:30:08 | 日記

“朝日新聞”は言う;

「なんで、こんな一段一段なんだろう」。上村愛子のことばは12年間、4回の冬季五輪で期待と注目を集め続けた彼女の思いを、十分すぎるほど伝えました。バンクーバー冬季五輪第2日の13日(日本時間14日)、女子モーグルで4位。メダルを逃したものの長野7位、ソルトレーク6位、トリノ5位に続く入賞。30歳でなお技を進化させた様子や、彼女をずっと支え続けた母。「愛子ストーリー」を各面でたっぷりと。(圭)=(’あらたにす’編集局から引用)


たぶん“多くのひと”がこのような文章を、何の疑問もなく読むのだろうか。

“ひとの良い”読者は、この“リード文”につられて、「愛子ストーリー」を読むのだろうか?

ぼくは、“上村愛子”というひとが、きらいなのではありませぬ。
そうじゃなくってさ。

こういう<言説(言論)>の“正当性-正統性”を問う、のよ。
もっと“ひらたく”言えば、この文章に、なんか“意味”があんの?と、クエスチョン。

お祭だから、意味なくてもいいじゃん、とか、どうせ“何とかストーリー”を適度に楽しめばいいじゃん、なのよね。
こういう“文章”に眼を止めて“いきどおって”みせるのは、<粋(スマート)>じゃない“オヤジ”ばかりだと。

でもぼくは、<問う>よ;

上村愛子の<愛子ストーリー>は、“ぼくらの生き方”の、なんか“参考に”なるんですか?
(ぼくは読んでないので、知らないが;笑)

《彼女をずっと支え続けた母》とかいうなら、彼女は母子家庭なんですか?
そんなら、ぼくもそうだが、別に関心ないね。

あるいは、“一般に”、“努力し続けること”とか“30歳でなお技を進化させた様子”などが、<参考>になるんですか?

しかし、《「なんで、こんな一段一段なんだろう」》という言葉は、上村愛子というひとの“独自性”ではなく、ぼくたち<まともに生きてきたもの>の基本的条件である。

ぼくには、“ドゥルーズによるスピノザ”の方が、“参考になる”(笑)

そのひとにとって、“何が参考になるか”は、多様であってよい。

ぼくは“ドゥルーズによるスピノザ”が、“すべての人の参考になる”などとは言っていない。
しかし、“ドゥルーズによるスピノザ”が参考になるひとが、あってほしいと願うだけだ。

朝日新聞には、そういう謙虚さが欠落している。
朝日新聞は、すべてのひとが上村愛子を参考にしたり、それに“はげまされるべきだ”と主張しているのだ。

こういうのを、“言論の硬直性”と呼ぶ。




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