Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

啓蒙とは何か?;生のスタイル;反逆は正しい

2013-12-04 11:36:19 | 日記

★ フーコーにとって、カントの「啓蒙とは何か」とは、近代哲学で初めて、現在を<出来事>として捉えようとした試みだ。カントにとって啓蒙とは、歴史の起源や目的、完成や救済に関わる歴史上の一コマではない。それは個人と現在とのあいだの二重の関係だ。第一に、人間にとって啓蒙を発展させることは権利であり、個々人には啓蒙を推進する責任がある。つまり、人は個人として、啓蒙に自覚的に参加することが求められている。だがそれは同時に、人がその渦中に身を置かざるをえない、歴史的・集団的プロセスのことでもある。したがって、個々の意志とは関係なしに、人は集団の一員として、啓蒙に自覚なしに参加させられている。啓蒙とは各人が生きる現在への関わり方のことだ。そのかぎりで、啓蒙には「再帰的な」性格が認められる。カントによれば、啓蒙とは未成年状態を脱することであり、人が、他人に導かれずに、勇気と決意とともに、己の悟性を自由に用いる責任を引き受けることであった。

★ しかし、啓蒙の実践はここに一つの逆説を抱える。理性を公的に使用するにあたっては、人は未成年状態から脱していなければならない。けれども、未成年状態から脱するには、理性を公的に使用している必要があるからだ。さらに厄介なことに、当の本人はこのことを理解していない。己を啓蒙する段階にまだ至っていないのだ。カントはこのジレンマを、人は啓蒙の理念を引き受け、現在が啓蒙の時代であることを意識することで、現状を自覚することができる、と論じて解決しようとする。

★ フーコーはこの議論を足がかりとして、啓蒙に「意志と権威、理性の使用との間の既存の関係の変更」という定義を与える。啓蒙とは、自己の導き(意志)と他者の導き(権威)によって構成される自己が行う、己の振る舞いのありようの問題化(既存の関係の変更)なのだ。人は啓蒙を意志し、勇気を出して、これをあえて引き受けることによって、啓蒙のプロセスに主体的に参加する。

★ 現実をあえて引き受けるというこの態度を論じるにあたり、フーコは1983年の「啓蒙とは何か」でボードレールの名を上げ、その「モダンな態度」をカントの啓蒙観に重ねる。現代性とは歴史上の切断であり、移ろいやすい性格を持った一種の運動ではある。けれどもボードレールによれば、モデルニテを問題として捉えることとは、いまここを歴史上の一点としてでなく、固有な地点と見なすことであり、さらに、その「いまここ」を哲学的に考察することなのだ。

★ 《この意志に基づく困難な態度とは、永遠な何かを<現在>という瞬間の彼方にではなく、背後にではなく、そのただ中で捉えることである。現代性とは、時代の流れを追うだけの流行とは異なる。それは、現在という瞬間のうちにある「英雄的な」ものを捉える態度のことなのだ。》(フーコー「啓蒙とは何か」)

★ じっさいボードレールは、ダンディズムに「頽廃の時代における英雄性の輝き」という表現を与えていた。フーコーはこの「ダンディズム」を、モダンな態度のモデルとして提示する。モダンな態度にとっての問題とは、自己と現在との関係であると同時に、自己の自己に対する関係であるからだ。現代性を問うことは、現在の核にあるものを捉えたうえで、現在と自己とをともに、今ある姿とは別のものへと変え、作りかえていく実践のことだ。(……)ダンディな自己は、自らを当事者として「美的に」構成し、固有の「生のスタイル」を追い求める。啓蒙を生きること、それは、現実を批判的に生きることであるとともに、自分に何ができるのかを問題化することだ。その態度には「自己に対する義務的な反逆」という性格が備わる。こうした自己の構成としての主体化が「倫理的」や「美的」と呼ばれるのは、自己の統治を通して、己を形作るからだ。

★ 反逆は正しい、のではなく、反逆は義務である。しかもこの「反逆」は、他者の導きへの反逆ではなく、自己の導きへの反逆というかたちを取る。なるほど「自発的な選択」にもとづくのだから、この反逆は、あらゆる人に課せられた普遍的な義務ではない。しかし、現代性を問うことで、現在の固有性を捉えた人は、過去とも未来とも区別された、現在を生きることを選ぶ。モダニティをめぐる時代診断とモダンな態度のあいだには、カントの啓蒙と同形のジレンマがあるだろう。けれども、「あえて」の一歩を踏み出し、現在に対して、それまでとは違う何かを感じる人々は、このジレンマをただちに乗り越えて、いまここに反逆の義務と理由を見いだす。自己反逆の実践としてのダンディズムにおいて、認識と実践は、自己を舞台に結びつく。「デカルト的な契機」を経た自己認識は、自己についての客観的認識と同義とされる。それでも自己への配慮につらなる、自己の倫理の系譜が、絶えてしまったわけではない。むしろそれは、近代の中心にあるのかもしれない。

<箱田徹『フーコーの闘争 <統治する主体>の誕生』(慶應義塾大学出版会2013)>





最新の画像もっと見る

コメントを投稿