Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

インフルエンザと坂本龍一

2009-05-18 13:49:24 | 日記
もしこの“インフルエンザ騒動”を、本質的に考え、その対策を考えるなら、それは“環境問題”として提起される。

“環境問題”という言葉が古いならば、<エコ>でもよい。

この“エコ問題”について、ぼくたちは、無意味な言説を死ぬほど聞かされてきた。

もし“エコ問題”という問題があるならば、それがぼくたちの生活を取り囲む(ぼくたちがそのなかでしか生きられない)“すべての環境の問題”であるなら、それは“すべての問題”として提起される。

それは“日本の海外線(という”風景“)が消えてしまった”というような、美的-情緒的感慨(ぼくはそれを軽視しない)から、“現実の”公害被害者の生存の問題としても提起される。

また、“環境はかわりうる~変えるべき環境もある”、というふうに言うこともできる。

つまり“エコ問題”において、おいてこそ、“あらゆる問題”が、たしかに提起される。
それは、ぼくたちの個々の生存の問題であり、ぼくたちの“子供たち、孫たち”の生存の問題である。

あらゆる問題を“解決”することに取り組むならば、その一歩は、その問題を“認識しよう”とすることである。
“認識”には、一般に、二つの側面がある;
① 情報(事実)を知る
② 事実に基づいて考える(事実にもとづいて想像力を駆動する)

以上のような“思考=志向=試行”においても、その個人によって“ウエイトの差”というものはあるだろうし、あってよい。

しかし“思考=想像=幻想形成”というのは、“実証的”にあるだけではない。
人間-自然に関する事象の“総体”を、“分析しきる”サイエンスなど、どこにもない。
そんなことは、“現役の科学者”自身がいちばん知っていることである(その科学者が“真摯で”あるなら)

もちろん、ぼくは、“オカルト”を導入しない。
ぼくたちが“生きてきた”体験-経験こそ、まさに“実証的”なのである。

けれどもその“実証性”だけでは不充分であると“認識”したとき、ぼくたちは、ある問題の核心を“言葉”とする。

いちばんシンプルな言葉は、ぼくにとってはこうである;
“エコ問題の核心は、国家権力と資本である”

これは、あまりにも正しくて、“何も言っていない”ほどの命題である(笑)
ここから“すべては始まる”のである。

しかし、この“命題”の手前で、あるいは、この命題に気づかぬ振りをして、あるいは、この命題に気づかぬほどの馬鹿が、堂々と、発言している。

というか、いまマスメディアで発言している輩は、みなそうではないか。

最近の不破利晴ブログは、坂本龍一という名の馬鹿を取り上げている;

★ 2009年4月25日、土曜の朝日新聞「be on Saturday」のトップは「坂本龍一」であった。そして、『「エコはファッション」でいい』と題された最近の坂本龍一が展開するエコロジー活動記的記事に、圧倒的嫌悪感を感じている(不破ブログより引用)

さらに不破ブログから引用しよう;
★《「水道水をください」。ニューヨークの高級レストランでボトル水は飲まない。「セレブがやり出して広まっているんですけど。トレンドだけれども、そこにあるのはとてもまじめな考え方です」。格好良さがないと、続かないし、広がらない。
 「エコはファッションであっていい」と言い切っている。》
~2009年4月25日 朝日新聞「be on Saturday」より~

ぼくはこういう坂本の発言およびこういう発言を“セレブの発言”として持ち上げて、それが“エコ問題”解決の役に立つがごとき虚偽言説を掲げ続ける“朝日新聞”に“圧倒的嫌悪を感じる”から、購読を昨年暮れでやめたのである。

もちろん“坂本龍一だけ”ではないが、このような無思考=無倫理なセレブどもが、“環境”を破壊している。

“エコはファッションでいい”

まさに。
ぼくも“ファッション”は、大好きである。

ぼくには自分の着るもの、携帯するものに“無頓着”であっても(あってこそ)、正しい生き方ができる、などという“古典的”発想とライフスタイルはない。
ぼくの“ファッション”が、他人からみて、“なんなのアレ”と見えようと(笑)、ぼくのファッションこそ、ぼくの63年の人生の表現である。

だから坂本龍一とwarmgunの“差異”は、ファッションの差なのである。
ファッションの差と言説の差は、同じものである。

そういうことが“わからない”ひとは、いかに“古典”に通暁していても、“現代人”ではない。



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