この文庫もたぶん品切れだろうが、1995年に講談社学術文庫で出た見田宗介『現代日本の感覚と思想』という本がある。
この文庫本自体が見田氏がそれまでに書いた文章(東京写真美術館会館記念展カタログの文章、新聞にでたもの、朝日論壇時評からのセレクト)から成っている。
つまり1980年代後半から1990年代初頭に書かれた文章である。
いまこれらの文章を読むことは、過去を懐かしむのではなく、現在を考える手がかりになる。
この文庫本のなかから、このブログでは、第1部の補章として収録された“愛の変容/自我の変容”という部分“だけ”をとりあげる。
これは1970年から90年までの「朝日歌壇」の主要な歌を集めた本への見田氏の感想(批評)である。
見田氏は当然、そこに“日本人の感覚の変容”を見ている。
あるいは“現代という時代の基層の見えない胎動の音を聴く“としている。
ぼくはその論旨を紹介するのではなく(めんどうなのでみなさん“古書店”でこの文庫を買って読んでください)、そこに収録された歌でぼくの好きなものを列挙したい。
たとえば、まだケータイが普及していない時代の“相聞歌”がある;
★ 会いたいと切り出すまでの沈黙を抱きて深夜の受話器握れり(1989)
★ 受信器がきょう傷ついているのです誰の電話もとらずにいます(1990)
しかし相聞歌だけがあるのではない、はっとする“社会批判”の歌がある;
★ 一人の異端もあらず月明の田に水湛え一村眠る(1987)
★ 犇めきて(ひしめきて)海に堕ちゆくペンギンの仲良しということの無残さ(1990)
どうってことのない季節の情感に現代を感じる;
★ 右あやめ左にさつき右さつき左にあやめ曲がり道行く(1989)
★ 閑散たる24時間レストランこんな時だけ秋を感じて(1989)
いつの時代にも“受胎”はあり、子を思う母がいた;
★ 「ますいガスはバニラのにおい」と約束せし幼な子眠るや手術前夜を(1988)
★ 吾が泣けば胎の児ひそと静まりて動かず小さき意志持つごとく(1988)
いつの時代でも友達は欲しい;
★ 男でも女でもない友達が欲しい雨降る東京の夜(1990)
しかしかすかな狂気のようなもの;
★ 木から木へ叫びちらして飛ぶ鵯(ひよ)が狂いきれずにわが内に棲む(1989)
★ ジャズの音に切り開かれて次々と取り出されて行くわれの内臓(1989)
★ たましいは透明にして一心に幹をつかめる蝉のぬけ殻(1989)
★ 時計屋のすべての時計狂えりきまひるの静かなる多数決(1989)
つまり、リアルとヴァーチャルとかの主題が露呈するのだろうか;
★ 炸裂するTOKIOの隅の6畳で我は静かに狂いはじめる(1989)
★ 酩酊せん酩酊せん人と人との間に暗き国境あり(1990)
★ 現実を空しいだけの比喩にする、君さえ此処に居れば歌わず(1990)
ならば、リアルは、越境はあるのか;
★ ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原(1990)
★ それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧(1990)
* 引用歌のカッコ内は西暦年、作者名は省略しました。
* それぞれの歌への“リード文”はwarmgunのもので、見田氏の“評価”とは直接関係ありません(見田氏の評価は、見田氏の文章でお読みください)
* この時期は、“泡”とか“泡がはじける-はじけた”というように総括された時期なのでしょうか?
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