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四国遍路のアルバム

H26春 その6 13番大日寺から五ケ所参り 国中寺 気延山 天狗久 井戸寺

2014-08-28 | 四国遍路

 
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この地方に、「五ケ所参り」という巡拝の仕方があったそうです。13番大日寺から17番井戸寺までを1日かけて参り歩いたと言います。
8㌔ほどの道ですが、古代からの歴史を持つ道です。私も1日かけて、たっぷりと楽しみました。朝、7:00前に大日寺近くの宿を出て、井戸寺近くの宿に着いたのは(けっこう急いだのですが) 17:00を過ぎてしまいました。


13番大日寺
「四国遍礼霊場記」(寂本さん)の「大粟山華蔵院大日寺」の項に、(注)がついています。
・・・一之宮ニある故一宮寺ト云 ・・・
大日寺は一の宮に在るので一宮寺と呼ばれている、と書いています。添付されている境内図の題も「一宮寺 図」となっています。
一宮(神社)と大日寺は当時は一体ですから、「一宮寺」の呼称は、83番の例を持ち出すまでもなく、なんの違和感もなく受け入れられたのでしょう。
大日寺の本尊は十一面観音ですが、一宮(神社)の本地仏が神仏分離により大日寺へ移されたものだそうです。それ以前の大日寺の本尊、大日如来は、脇仏となっているそうです。


阿波国一宮 一宮神社
ただし寂本さんは「阿波国一宮」には異論がある、とも書いています。具体的には大麻比古神社も「阿波国一宮」とされているということです。
・・・一の宮の事一本の一の宮記には、大麻彦神板野郡の杜を、当国の一の宮とせり。・・・一の宮に異説ありて、争論に及ぶ事、むかしよりありきときこゆ・・・。


一宮神社
「一宮」という社格は、公式に(例えば神祇官などによって)定められたものではなかったようです。そのため、一つの国で一宮が並立していたり、他に替わるなどのことも起きたようです。
阿波では、後に述べますが、もう一社、天石門別八倉比売神社という神社が一宮の論社として挙がっています。「阿波一宮争論」、極力、整理してみたいと思います。


「一宮城趾」登り口
鳥居を出ると(撮影に失敗したのですが)石の丸橋があって、その先に城山への登り口があります。この位置関係は、寂本さんの「一宮寺図」と同じです。
まず感じるのは、寺-神社、そして城が、きわめて近接している(ほとんど一体化している)ということです。
政治勢力と宗教勢力の人的なつながり、重なり合いが考えられます。

城山に登ってみます。


登り道
案内板によると、この山に最初に城を築いたのは小笠原氏で、延元3(1338)のことだそうです。寂本さんの「一宮寺図」では「小笠原長門守城山」となっています。ただし寂本さんは元禄期17C後半の人ですから、「霊場記」が出版された頃は、一宮城はすでに廃城となっていました。
城主は小笠原氏の後、一宮氏、長宗我部氏、蜂須賀氏と変わり、元和元(1615)、一国一城令により廃城となったようです。


経筒出土 神宮寺跡
明治期、北斜面下の神宮寺跡地を開墾中、12C のものと推定される経筒が出土した、とあります。末法の世を越えて経を残そうとしたのでしょうか。それとも、どなたかを供養したのでしょうか?

築城は14Cですから、すでに神宮寺がある所に、後から城が築かれたことになります。


堀切
築城年は、鎌倉幕府(北条氏)滅亡の5年後に当たります。阿波国の守護であった小笠原氏は強い緊張下にあったのでしょう。城はまぎれもない「戦城」です。
「堀切」とは、尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐため、尾根に大きな切れ込みを入れたものです。ただし築城当初のものかどうかは、わかりません。この城は歴代城主がいろいろに改修の手を加えたようです。


天守石積み
小笠原氏の後、一宮氏が城主となっていますが、(一宮神社略記によると)、小笠原氏が一宮神社宮大司に任じた、とありますから、小笠原氏が「一宮」姓を名乗り始めた、とも考えられます。


天守石積み
一宮氏に次ぐ城主は、ご存じ、土佐の長宗我部氏です。天正10(1582)、阿波は長宗我部氏に平定されました。


天守跡
3年後、天正13(1585)、豊臣秀吉の「四国征伐」により長宗我部勢が去り、蜂須賀家政が阿波に封じられました。
家政は入封直後、一宮城(この城)に入城しましたが、賢くも、時代はすでに「戦城」を必要としないことを識っており、早速にも徳島城の築城にとりかかっています。「城下町」を構えることが必要な時代となっていたのでした。


展望
標高は144㍍ですが、比高は120㍍です。鮎喰川など天然の外堀を持つ、まさに要害であることが知れます。
右の山が眉山です。


徳島城
徳島城の完成で、阿波の中心が眉山の西から、東に移動しました。
青石をふんだんに使っています。


大日寺の新奥の院・国中寺


国中寺
13番大日寺の「奥の院」は建治寺ですが、国中寺は「新奥の院」とのこと。
由緒など、よくわかりませんが、隣、と言うより同じ境内に国中神社があり、「国中神社の歴史」の石碑が建っています。


国中神社
「国中神社の歴史」から、国中寺の様子もまた知ることができます。
・・・神社は平安時代、一宮、下町、入田、広田の、旧4カ村氏子が社殿を造って祀ったことに始まる、と言います。境内は広く、立派な社殿だったそうです。・・・それから4-500年たって一宮城が出来てから、代々の城主は城の守護神として、毎年、例祭には神馬と二十五膳の神饌を奉って崇敬の誠を捧げてきた、・・・とのことです。


国中神社
一宮城の築城年は延元3(1338)でしたから、それから計算すると、神社の創建は10Cから11C前半、平安時代の中期の頃でしょうか。この頃はすでに神仏習合は深化していますから、国中「寺」もまた、たぶん存在していたでしょう。
なお、大日寺は長宗我部の阿波攻めで消失しますが、国中神社は、豊臣秀吉の四国攻めで消失しています。


鮎喰川上流方向
14番常楽寺へ向かいます。一宮橋を渡ります。
橋の上から建治寺が見えました。写真中央が西竜王山で、その中腹に建治寺があります。わかりにくいので赤丸で囲んでみました。


14番常楽寺
徳島新聞によると、・・・文政元(1818)、かんがい用の貯水池を造るため近くの山を切り崩した岩盤の上に移転。岩肌がむき出しになっているのはこのためだ、・・・とのこと。
この岩を「流水岩」というそうです。


「流水」


国分寺
聖武天皇勅願所・15番札所国分寺です。政教一致。仏国土を建設せんと、聖武天皇は国府近くに国分寺(僧寺)と国分尼寺を建てました。
阿波の国府は、(国衙跡は確認されていませんが)、観音寺近くであったろうと言われています。


国分寺
ふり返ると国分寺。私はこの位置から見る国分寺が好きです。


気延山
前方には気延山(きのべやま)が見えます。
前回、忌部山から掘割峠、樋山地へ通じる「麻名尾根古道」に触れましたが、気延山を西に進むと(途中、童学寺トンネルの上を横切り)、「麻名尾根古道」につながります。
吉野川北岸を歩きながら、ずっと眺めていた南岸沿いの山並みが、この山並みです。気延山はその東端に位置しています。


道標
常楽寺、国分寺、八倉比売神社、阿波史跡公園、矢野古墳群、市立考古資料館、気延館・・・、すべて、この道標から一番遠くて1.1キロの範囲内にあります。


市立考古資料館 展示
縦に鮎喰川が流れています。右側(東)が眉山、左(西)が気延山です。


矢野の古墳石室
気延山は古墳の山です。「気延山古墳群」。
古墳群は他にもあります。近辺のものをいくつか挙げると、尼寺古墳群、ひびき古墳群、高良山古墳群、山ノ神古墳群、曽我氏神社古墳群・・・。
「有力な人たち」と「有力ではない人々」で構成される社会が大規模に存在していました。その存在が、やがて大和朝廷の「国府」を、この地に呼び寄せるのです。


復元された弥生時代の邑
竪穴式住居です。八倉比売神社参道から右下に見えてきます。


天石門別八倉比売神社鳥居
天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけ・やくらひめ神社)は、大和一宮・大神神社(おおみわ神社)などにみられる古神道の形態をもつ神社だと言います。気延山南麓(南尾根の小峰)の杉尾山は、その山体が御神体(磐座)とされています。その昔、一説には紀元前378年(あるいはそれ以前)と言いますからずいぶん昔ですが、気延山から大日る女命(おおひるめ命、またの御名は天照大神)が遷り来られ、神陵を築かれた、とのことです。



「杉尾山」の読みは、「すぎお」とふられていることが多いようですが、「杉之小山」という表記がありますから、「すぎのお」の方がいいと思います。土地の人が「すぎのお・さん」と、親しげに呼んでいたような記憶があります。


天石門別八倉比売神社
長い参道です。石段が続きます。


石段
上から見ると、こうなります。日常生活の中でこれを上る気には、ちょっとなりません。


拝殿
境内の案内板によると、
・・・江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する・・・とのこと。
拝殿本殿は、江戸時代、古墳前方部の一部を削って造営されたようです。ようやく「神社」らしい体裁が整ったということでしょうか。「奥の院の神陵」は、大日る女命(天照大神)の陵ということになります。

・・・神格は、正一位 延喜式に記録された式内名神大社である・・・とあります。
(前述のように)その高い神格から、この神社、阿波国一宮の論社とされていますが、その論定を争う相手は(大日寺の側の)一宮神社(引いては上一宮大粟神社)です。


一宮神社
その様子を一宮神社境内の由緒板から見てみましょう。
・・・(当社は)大宣都比売命、天岩戸別八倉比売命を奉祀する・・・。
・・・(当社は)天石門別八倉比売神社に充てられる古社で、一宮大明神と奉称せられ、阿波国一宮八倉比売命を祀る・・・。
つまり、あけすけに言えば、前述の天石門別八倉比売神社は名ばかりで、式内大社の系譜を継いでいるのは当社である、従って当社こそが阿波国一宮である、ということでしょうか。

思うに、いずれが系譜を継いでいるのか、中世の混乱の中で、もう分からなくなっているのが事実に近いのでしょうが・・・。


「祭壇」
八倉比売神社の案内板に戻ります
・・・奥の院は海抜116米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。・・・とのことです。
「柄鏡状」の古墳とは、山の尾根筋を前方部として利用した、上から見ると手鏡のような形をした前方後円墳で、古い形態の古墳です。この古墳の(前方部には拝殿本殿が築かれましたが)、後円部の頂上には、五角形の祭壇が築かれている、という訳です。その上に祀られているのが、(鶴は千年亀は万年の)永遠の生命を象徴する「つるぎ石」です。


後円部への登り
境内で、神社などを「少し勉強している」人に出会いました。
彼は「つるぎ石」については否定しました。「つるぎ石」の祠は、昭和26(1951)以前の写真には写っていないのだそうです。それ以降に作られた、新しいものだと言います。
しかし祭壇は古いもので、「卑弥呼の墓」だと言います。(約めすぎて申し訳ありませんが)、御祭神・大日霊女命(おおひるめのみこと)は“日の巫女”(ひのみこ)つまり”卑弥呼”である、と言うのです。もちろん彼は、阿波=高天原説に立っています。


建治寺
気延山山頂へ向かいました。途中、建治寺が見えました。赤丸です。手前を鮎喰川が流れているわけです。


道標
縦横にコースが作られています。が、迷うことはありません。


山頂
山頂に句碑がありました。
  ひみこ 空海 義経の 足あとなきか 気延山
「ひみこ」と気延山は、前述のような関わりです。「義経」は、山の名の興りに関わっています。義経が屋島への途次、ここで休憩し「気のべ」した(リラックスした?)ことから来るそうです。義経は(弁慶も)「あずったり」、「気のべ」したり、その逐一が地名に残っています。
「空海」は、どこにいらっしても不思議ではありません。右の二体は新しく、弘法大師と役行者です。左の一体は大正期のもので、役行者でしょう。


大麻山
下山途中、大麻山が見えました。大麻比古神社があるお山です。
私がまず思ったのは、「やはり遠い」でした。阿波の中心が国府にあった頃の阿波一宮としては、国府から遠すぎます。国府関連の寺社は、国分寺については既に見ましたが、いずれも次に見るとおり、国府近くに在ります。


国分尼寺跡
気延山山頂から北方向の尾根をたどると国分尼寺に降りてくることができます。
国分寺と国分尼寺は、聖武天皇ご夫妻の仲のよさの表れでしょうか、鐘の音が互いに聞こえる距離に置かれたとか・・・。つまり、近間に在るわけです。


国分尼寺発掘直後
今は埋め戻しています。


久米さん
瓊瓊杵尊の天降りを「久米軍団」が先導したと言われています。石井町には、その子孫たちが多く住んでいる、とされています。たしかに、久米さんは多いようです。


16番観音寺
寺伝では、国分寺・国分尼寺の創建と同年(天平13)、聖武天皇の勅願道場として建立された、とのことです。
その意味で、国分寺・尼寺に並ぶ「官寺」です。前述しましたが、国衙跡(推定地)とほとんど隣接するように建っています。


八幡総社両神社
観音寺境内に八幡総社両神社があります。八幡神社と阿波国総社を合祀した神社です。
総社(惣社)とは、国司巡拝の便を図るため、管内諸神社を国府近くに勧請・合祀した神社です。一宮→二宮→三宮・・・を一括した神社、と言えましょうか。
ですから当然、国府近くに置かれました。境内の由緒碑によると、元は観音寺の南方500メートルほどの所にあったとされています。「総社が原」の地名が現在に伝わっているとも言います。


大御和神社(おおみわ神社)
観音寺の東500㍍ほどの所にあり、元は国府の印鑰神社(いんやく神社)でした。
印鑰神社とは、国司の官印と諸司の鍵が紛失せぬように祈り、また保管した神社を言います。

繰り返しになりますが、国分寺、国分尼寺、阿波総社、印鑰神社がこれほど近間にあるとき、やはり、ひとつ阿波一宮のみが遠く離れていたとは考えにくいと思います。国府に阿波の中心がある時代、阿波一宮は(大麻比古神社ではなく)一宮神社か八倉比売神社か、だったのでしょう。
大麻比古神社が阿波一宮として認知されてくるのは、もっと時代が下がり、阿波の中心が徳島城に移って以降だと思います。


天狗久旧工房
「天狗久」(てんぐひさ)の工房と作品が保存されています。天狗屋久吉、つづめて天狗久は、昭和18(1943)、86才で歿した人形師です。宇野千代さんが昭和17(1942)に出版した「聞書き・人形師天狗屋久吉」によると、「天狗屋」という名の由来のは、・・・
・・・親方の富五郎はんは若松屋と申しておりました。私の別れますについて(独立の際、当時26歳)、親方もやっぱり天狗の面をかいておったことでござりますし、若松屋というよりも天狗屋の方が面白いと思うて、私がつけたのでござります。人が見ますと、何じゃ、あいつは天狗やな、などと言いますけどなア、浄瑠璃を語ったりするもんでも、天狗でないもんはないやろと思います。
・・・へえ?あの、世界一と書いてあるのでござりますか?・・・あれも書くほどのことなら大きい方がええと思うて書きましただけのことで、・・・。


細工場
私が聞いた話では、日本一の親方を超える気概を示したものだとのことでした。
宇野さんの聞書きで天狗久は話しています・・・(親方は、)わざの狂わんようにすることは、日本一でござりました。・・・狂わんように、型通りに几帳面にするという心がかっておりますとなア、どうしても人形も型通りになって・・・。というわけで、「世界一」を宣言することとなったようです。


細工座
・・・こうして、ぐるりのものをおいておきますとなア、もう、坐っておって、何でも自分の手で用が足りますけになア。
久吉・要(かなめ)・治(おさむ)、天狗屋三代の細工座です。


天狗久作
・・・いま思いますと、人形芝居は明治10年から20年がとまりで、それからだんだん下り坂になりました。さようでございます。私の30、40という頃が全盛でござりましたなア。
・・・人形芝居というもんは、今日(昭和17、天狗久85才の頃)が底やと思います。

人形芝居衰退の背景に藍産業の斜陽化があったと言います。「スポンサー」がいなくなったのです。円熟期に入ったにもかかわらず、「食べる」ために(前掲写真の障子の文字通り)、「応御好」(お好みに応じて)、お化け屋敷の面まで作ったと言います。


「神仏像萬人形手遊類」
しかし天狗久の技が荒れることはなかったようです。むしろ、動かない像、すなわち神像仏像の製作に手を広げる中で、天狗久は新しい芸術上の境地を拓いたと言います。


天狗久作
・・・何と申しましても、徳島というところは、蜂須賀様のお触れでな、人形芝居ただ一つで、三里四方、歌舞伎その他の興業物一切ご法度というので、もう何でも彼でも人形芝居一点張りでござりましてな、こういう在所の方にまで、それは毎日のように箱廻しがやって来ておりました。
・・・箱廻しと申しますのは、箱の中に人形を六つくらい入れて、・・・まあ人形の六つもあれば一通りの芝居はこなせるものとしてござります。その箱を自分でに担いで、カチカチと拍子木を叩きながら、門口から這入ってくるのでござります。


天狗久作
この箱廻したちが天狗久の作品を全国に広げたと言います。面が壊れると、年末に里帰りする箱廻したちが阿波に持ち帰り、年が明けると、修理が終わった面を持って散って行ったということです。
・・・徳島から二十里もござりましょうか、昼間町、池田、かも村、中野庄の四ケ村がその箱廻しの本元で、いつでも百人くらいは旅へ出ておりました。

さて、この後に続けて天狗久は、
・・・(しかし)もう今は(昭和10年代)、われから好んで箱廻しに出ようというものはござりません。・・・と時代の変化を語るのですが、その理由を次のような言葉で語ります。ここでは紹介だけにとどめますが、いつかゆっくりと考えてみたいテーマを含んでいます。
・・・いまは箱廻しに出るのを遍路みたいに思うて恥ずかしがるのでござりましょうて・・・。


天狗久の墓
(へんろ道保存協力会の地図で)井戸寺から田蒔病院へ向かう途中、お寺があります。その境内、へんろ道の左手すぐの所に見えます。


天狗久アクセス
井戸寺から田蒔病院へ向かい徳島本線を渡ります。すぐ192号線に出ます。渡った所が写真の地点です。左斜め方向(南東)に古い道が延びています。それを5分も歩かないうちに旧天狗久工房です。
曜日を決めて開館していますから、会館曜日、時間を調べておく必要があります。

 
井戸寺
ついつい天狗久工房での時間が長くなり、5時を少しまわってしまいました。
今日一日の無事と収穫に感謝し、お参りさせていただきました。明朝も、歩き始めにお参りします。


ご覧くださいまして、ありがとうございました。
次回更新予定は9月18日です。行程は、地蔵越え→あずり越え→日峰山(神社)→ 金磯弁財天→恩山寺となります。


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2 コメント

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やるせない気持ちに (天恢)
2014-08-28 11:03:11
 この歳になると月日の流れは早いもので、前回更新からもう3週間も経ったのですね? じっくり読ませていただいて、また感想を述べさせていただきます。
 さて、痛ましい広島の土砂災害被害が連日報じられ、未だ捜索作業が続いている現状に胸が痛みます。 前回ブログでの 《川を挟んだ尾根筋にポツンとある一軒家について、民宿のご主人が「昔はあそこが一等地だったのですよ。川近くのこの宿なんて、増水すればたちまち流されましたしね、日当たりは悪いし、望んで住む人なんていませんでしたよ」 》との言葉が妙に説得力を感じています。
 今週、孫と飯田線の「秘境の駅」間の山道を歩いたのですが、天竜川沿いの高所にある一軒家や小さな集落は傾斜があってもドッシリとした安定感がありました。 人は、より便利さを求めて低地や海岸へ移り住んだのでしょうが、大水や津波の被害からは逃れることはできませんでした。
しかしながら、この高所に点在する集落も過疎化が進み、限界集落と呼ばれているのが現実です。 自給自足の時代と違って消費型社会では「不便さ」は致命傷となるのでしょう。 結果として、ふる里を追われた人たちを待っているものがこの都会の惨状なら泣けてきます。
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歩いてよかった (楽しく遍路)
2014-08-28 17:46:17
天恢さん、早速のコメントありがとうございます。
年が寄ると若いころの何倍も時間を必要とするのですね。今回更新は暑さのせいでしょう、とりわけ作業が進まず、この数日の涼しさの中、ようやくその気になったのでした。
実は今朝も早起きして入力したという始末です。それでも間に合わず、アップロードが10:00になってしまいました。構成が十分でありません。誤りなどありましたら、ご指摘ください。

私は時々思うのですが、犠牲となった方々、被害を受けた方々に、自分が少しでも寄り添うことが出来ているとするなら、その(恥ずかしいですが)「やさしさ」は、遍路歩きからいただいたものかもしれません。
歩き遍路の天恢さんが遍路ブログのコメントに広島の土砂災害を取り上げるのも、たまたまの思い付きではないように思います。歩きながら、人を一人一人の人として見る、そんな視点を、四国の人や遍路同士の出会いのなかで、ほんの少しずつではあっても、戴いているのではないでしょうか。

お孫さんとの飯田線の旅、いいですね。偶然ですが、飯田線沿いの伊那谷は人形芝居が盛んで、今回取り上げた「箱廻し」たちが天狗久の面をたくさん運び込んでいます。お孫さん向けの話ではありませんが、訪ね歩けば、きっと出会えるのでしょう。

またよろしくお願いします。
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