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高縄山 高縄寺
高縄山
5年前、平成24(2012)、高縄山に登りました。まだ桜が残る、4月初めのことでした。
→ H24春遍路 伊予路3
高縄山
今回は、5月中旬、新緑が楽しめる時季です。
登り口
昨夜来の雨も上がりました。前回と同じ、院内から登ります。
神社
東頭神社、木山神社、孝霊神社です。「H24春遍路 伊予路3」と重複する説明は避けます。したがって今号は写真が中心になります。
溜め池堤防
杖などは、「Yサークル」が用意してくださったものです。今回、お会いすることができました。
いのしし
イノシシが食べ残しています。しかし道を掘り起こした跡はありません。
そのことをYサークルの人に話すと、足りてるんでしょう、と笑っておられました。山が豊か、ということでしょうか。
道
院内の標高はおよそ90㍍です。986㍍の山頂まで、900㍍ほど上ります。
道
雨上がりですが、道はしっかりしています。けっこうの雨量でしたが、水たまりがありません。山が吸い取っているのです。
下
下界は晴れてきたようですが、山は、まだガスっています。
道
帽子の落とし物です。ゴミが落ちていないのは、見事です。
道
尾根筋に上がります。
下
だいぶ登っていきました。
緑
雨に洗われた緑は、また格別です。
道
この桜は、前回は満開でした。下では散りかかっていたのでしたが。
道
地蔵丁石があります。
道
階段で切った道は疲れますが、多用はされていません。
道
樹相が姿を変えます。
道
幻想的、とでもいいましょうか。
サークル
そんな中、Yサークルの人たちと出会いました。花など、教わりながら登りました。
ブナ
ブナの原生林です。
山頂
山頂部に出ます。車道が通じています。
塔
霧で見えませんが、電波中継塔が立っています。
高縄大権現
電波塔の下に、高縄大権現が祀られています。もちろん中継塔が後ですが。
高縄大権現
晴れていれば、こんな風に見えます。前回に撮った写真です。
しまなみ
この方向にしまなみ海道が見えるはずなのですが、まったく見えません。
とはいえ前回も、見えるには見えましたが春霞で、安いカメラには写し取れませんでした。
霧
電波塔で、Yサークルの人たちと別れました。独りで高縄寺に向かいます。ちょっと不安。
ブナ林
山頂から高縄寺まで、5分あまりでしょうか。
ブナ
たぶん、この山で一番大きなブナの木でしょう。
千手杉
杉の大木は、こちら、千手杉です。
千手杉
高縄寺のご本尊、千手観世音菩薩に因むといいます。
高縄寺境内
千手杉から境内に降り、・・
門
一度、門外に出て、・・
境内
境内に入り直します。
枝垂れ桜
次にまた登るなら、この桜が咲いている時季にしましょうか。
護摩壇
帰途へ
雨のせいでしょうか、お寺は留守のようでした。できればお会いしたかったのですが。
帰途につきます。
猿川へ
猿川へ降ります。
下り
うっかり、七本杉、見返りの杉を見落としてしまいました。せっかく道標をつけてくださったのですが、残念。
下り
下りの道も、まず心配ありません。
下り
すこし晴れてきました。電波中継塔が見えます。
神社
降りてきました。三島神社です。
猿川
神社は、猿川集落の最上部にあります。
参道
無事下山を感謝して、お参りします。
鳥居
鳥居は、天保12(1841)の建立です。
注連柱左 右
安政2(1855)建立の注連柱に、歌が刻まれています。
左は、 千早振 神の五十鈴のかわらずも めぐる月日の 影のさやけさ
右は、 うれしくも 松の梢に立ち寄りて 久しくここに 民を守らむ
黒船来航が嘉永6(1853)、安政の大獄が安政5(1858)。その最中での建立です。・・民を守らむ・・。
奥殿
祭神は、言うまでもなく大山積命。河野氏の神でもありました。
鳥居
帰途につきます。
庵
「庵」だそうです。本尊は不詳。なにかが祀られていると伝えられ、ならば大切にせにゃならんと、代々、手を合わせてきたのでしょう。
明治期、猿川の人たちが中心になって整えた、風早88ヶ所の札所では、本四国13番大日寺に相当するとしています。
猿川
棚田がきれいです。右に名石山(めいし山)が見えます。
さくらんぼ
猿川集落を降りたところで、タクシーに来てもらいました。
国津比古命神社 櫛玉比売神社
鳥居
この両社については、→ H24春遍路 伊予路3 で記しました。
ただ、申し訳なかったのですが、撮影に失敗したため、写真抜きの記事でした。この機会に、今回撮ったものを掲載させていただきますので、ご覧ください。
碑
鳥居右脇の社名碑には、
正面 本朝守護 式内名神
左面 これより野間神社 六里余 とあります。
野間神社は、今治市(当時は野間郡)神宮(かんのみや)に鎮座する神社でしょう。同じく式内名神社です。
・・本朝守護・・、碑の建立は、嘉永7(1854)です。黒船来航の翌年です。
社前
一番手前の注連柱に、猿川三島神社と同じ歌が使われています。建立は、社名碑と同じ、嘉永7(1854)です。
社前
手水舎の前の石碑は、「式内明神両社千年祭之碑」です。延喜式神明帳に両社、すなわち国津比古神命社と櫛玉比売神社の夫婦社が登載されて千年。これをを記念して明治31(1898)、建立されました。書は、伊予の能書家・米山です。
石段
みこし壊しの石段です。
秋祭のしめくくりは、神輿壊しです。今年の神輿を投げ落とし、壊してしまいます。古い神輿を壊し新しい神輿を造る。新たなる一年を呼び込むための神事です。
山門
石段を上がり、鈎の手に左に曲がると、国津比古命神社の山門です。八脚門。県指定の有形文化財。
拝殿
主祭神は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこ・あめのほあかり・くしたま・にぎはやひ命)。短くすると饒速日命。
これに、宇麻志麻治命(うましまじ命) 誉田別命(ほんだわけ命) 物部阿佐利命(物部あさり命)を配祀しています。物部阿佐利命は、伊予国造で、当社の創健者ですが、自らも祀られることになりました。
石額
鳥居に取り付けるため、造られたそうです。しかし、ならば社名が記されなければなりません。ところが、神名を記してしまいました。よって取り外されました。
櫛玉比売神社
神輿壊しの石段を上って奥に進むと、右方向に櫛玉比売神社への石段があります。国津比古命神社に向かい合うような位置になります。
櫛玉比売神社拝殿
主祭神は、天道比売命(あめのみちひめ命)で、脇に御炊屋姫命(みかしきやひめ命)が配されています。
いずれもが饒速日命の妻神様です。前者は饒速日命が天下る前の妻、後者は天下った後の妻、であります。まこと、おおらかであります。
鹿島 鹿島神社
鳥居
額の鹿島神社の文字は、久松定武さんの揮毫になります。久松さんは戦後長く愛媛県知事を勤められた方で、その名からもわかるように、松山藩の久松松平を継ぐ方です。殿様知事でした。
鹿島
「鹿島」については、土佐清水の鹿島神社を過ぎたとき、 →(H27秋 5)で記しました。よろしければご覧ください。
重複はさけ、ここでは北条鹿島の写真を、何枚かご覧いただきたいと思います。
桟橋
桟橋で船を待ちます。
牡蛎
ちょっと危険な気がしないでもありませんが、牡蛎をとっています。
船から
乗船時間はほんの数分。
高縄山
北条の街と高縄山です。船には鹿が乗っています。
鳥居
御神幸の時、神は鳥居を出て、船で御旅所に向かいます。
御旅所
しかし御旅所は、久松さんの鳥居の所ではありません。内港を隔てた対岸にあります。
ご神幸の導線が変わったようです。御旅所の周りは、今は工場です。
拝殿
祭神は、武甕槌命(たけみかづち命)・経津主命(ふつぬし命)・事代主命(ことしろぬし命)です。
武甕槌命-経津主命は武神で、鹿島-香取の神さまです。事代主命は大国主命の子神で、「国譲り」を迫る武甕槌命に、いち早く賛意を示し、父神・大国主命を説得した神さまです。これら諸神の働きで、大国主命の国土は、(建御名方命の反抗はありましたが)滞りなく、天孫・瓊瓊杵尊に伝えられました。
要石
説明板は次のように記しています。・・この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には鎮まっているが目覚めてあばれだすと、地震になって大地が振動すると考えられていた。この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神さまが「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。・・
常陸鹿島神宮の要石
常陸一宮鹿島神宮にも要石があり、この要石が、中央構造線の東端を抑え込んでいる、とされています。
渥美清さん句碑
お遍路が 一列に行く 虹の中 渥美 清
渥美さんの俳人としての評価は高く、私も大好きです。
「花へんろ」の早坂暁さんと交友関係をもつ渥美さんは、たびたび鹿島に来られたのだそうです。この句は鹿島で作ったもので、早坂さんの書になるといいます。
ねこ
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回は「鹿島立ち」をし、菊間に向かいます。浅海からは窓坂-ひろいあげ坂をたどり、遍照院の元所在地を訪ねます。
更新予定は、9月20日です。
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ただでさえ大変なうえに近頃の夏は、暑かったり冷たかったり、大きく振れますからね、困ったものです。
今回も楽しいコメントありがとうございました。
おっしゃるとおり、前に進まない道中記です。次回、ようやく北条を発ちます。毎度のことですが、秋遍路の時季が来ぬうちに、なんとか春の分を終えませんと。
さて、実は半世紀も前、私は3回高縄山に登っているようです。
中学と高校の時の小さな白黒写真が二枚残っていて、高校の分には「高縄山」と、中学の分には、字を知らなかったらしく、「高なわ山」と書いています。前と同じメンバーだった、とメモされているので、その前にも、一度登っているようで、とすると都合、三回になります。
日帰りできる山として、重宝していたのだと思います。当時、石鎚山はケーブルがまだなく、日帰りはできませんでした。小屋に泊まるだけの金などあるはずもなく、なんとかバス代だけ捻出して、登ったのでしょう。
「かわいい」やつらです。
道には、お上が通した道や、人が踏み固めて出来た道などがあります。今では道のほとんどは官道となり、踏み固めた道は、遍路道などの旧道に、かろうじて残っているのみです。
これらを維持・保存するばかりでなく、復元までも試みられている、(私が未だ存じ上げない)、多くの団体や個人には、ただただ感謝申し上げたいと思います。
お上の道は、急ぐための道です。
星野道夫さんの「旅をする木」から引用させていただきます。・・・私たちはここまで速く歩き過ぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった。心がこの場所に追いつくまで、わたしたちはしばらくここで待っているのです。・・
そんなに急いでどこへ行く、は昔、流行った交通標語ですが、・・そこで今回のタイトルは、・・のんびり行こうよ俺たちは・・とします。
大月小学校の子たちの手紙、まさに宝物ですね。
さて、今回主な舞台となった高縄山ですが、「楽しく遍路」さんが特に思い入れのある山だそうで、 『一度目は、子供の頃、今から半世紀以上も前、我が人生が、(’始める’自覚はないままに)、’始まろう’としていた時でした。10代前半のことです。 どこをどう登ったか、何を見たか、まったく憶えていませんが、すでに人生の手仕舞期に入っている今、もう一度』と、登られたのが5年前。 そして、今回で三度目の登山となりました。
多くの日本人にとって、故郷の山や思い出に残る山が、心の中には一つ二つはあるはずです。 この高縄山のように50年過ぎてもしっかり整備され、変わらず登れる山が存在することは有難いことです。 「Yサークル」の方たちや地元の方によって登山道が維持・保存されているからでしょうか? 遠足などで高縄山へ登山する地元の生徒さんもきっと生涯の思い出となる山道となるでしょう。
夏の終わりに、大月小学校の4年生の生徒さんからかわいいお便りが届きました。 ブログの『H27秋 7 少彦名命を祀る~』にコメントしましたように、この春に「大月へんろみち」の「励ましへんろ札」を読んで、大月小学校の生徒さんにお礼の手紙を書いた返事だと思います。 心温まる文面で、これも私の宝物にします。 この「大月へんろ道」も地元の「大月へんろみち保存会」の皆さんの長年の努力の賜物で、生徒さんの学習活動の場となって、ここを歩くお遍路の励ましになって、大きな交流の輪が広がっていきます。
さてさて、タイトルの「♬ ドブに落ちても 根のある奴は いつかは蓮(はちす)の 花と咲く~」 は、映画「男はつらいよ」の寅さんの主題歌2番です。 でも、いくら綺麗に花が咲いても、「🎵奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の 今日も涙の 陽が落ちる 陽が落ちる」のが人生の定めです。
ブログの最後に渥美 清さんの「お遍路が 一列に行く 虹の中 」 が紹介されて、このタイトル名が思いつきました。 それにしても良い句ですね! 雨上がり虹の中を歩くお遍路の情景が目に浮かびます。 もうこの句が作られて2、30年は過ぎていますので、お遍路が一列になって歩くこんな情景もめっきり少なくなりました。 時代と共に遍路の歩き方が変わるのも仕方のないことです。 遍路してわずか10年でも、近頃は変わりゆく激しさを感じております。