切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

わたしの「姫君」~武田百合子と歌舞伎。

2005-12-08 06:58:17 | かぶき讃(トピックス)
映画の話ばっかり出てくる武田百合子の『日日雑記』という本の中に、武田百合子が片岡孝夫(現仁左衛門)・玉三郎の「櫻姫東文章」を観に行った話が出てくるんだけど、ここではいかにも彼女らしい切り口で、歌舞伎それ自体の魅力や歌舞伎ファンの心情が描かれていてはっとさせられる。

>おばさんたちは、舞台のまん中で、キンキラキンの装束の武士二人が大立回りを演じ、何べんも見得を切ってみせてくれていても、そんなものは見ない。いましがた、反り身になって権助(孝夫)が歩き去ってしまった花道の揚幕の方に顔をねじ向けて、もしかしたら戻ってくるかもしれないと、酔ったように待っている。

なんて言い方は、歌舞伎ファンの求めているものを見事に活写しているし、それより何より、以下の書きっぷりはこの芝居の魅力を超えて、歌舞伎自体の魅力や武田百合子自身の魅力さえ表しているように思える。

>権助は自分の子供でも全くきらい。櫻姫も自分の子供以外の子供はきらい。二人とも体が丈夫で屈託がない。他人のことなんかかまわない。無駄口を叩かない。述懐しない。櫻姫は大名のお姫様なのに、悪党権助を好きになれば男と同じ彫り物を腕に入れ、その好きな男に売りとばされれば、さっさと宿場女郎の売れっ妓となり、むやみに身の上を嘆きもせず、お化けなんかでてきても…中略、うっとうしいねえ、と叱りとばし、(中略)いままでのことはけろりと忘れてしまったかのごとく、ひとり晴れやかなお姫様に戻るのである。櫻姫こそがお姫様中のお姫様、極め付のお姫様…

そして、こんな注釈も忘れない、

>一番ワリが合わず、ひどい目に遭ったのは、必死になってお姫様に仏道を説き、いつもやることなすこと、わが身を深く反省して悩んでばかりいる阿闍梨清玄だ。阿闍梨というからには相当の修行も学識も学んだ高僧なのだろうが、その修行と学識は何の役にも立たず、浮浪者となって、しまいにはお化けとなってしまうのだから。

加えて、こんな駄目押しも!

>それにしても坊様のお化けというのは、なんともいえない妙な気味のわるさがある。二度死んでるみたい、だからだろうか。

そんなわけで、分別なんかを超えたところに歌舞伎の魅力ってあるし、それを見事に表現できる武田百合子って、わたしにとっては櫻姫同様の「極め付の姫君」!

だから、芝居の帰りのわたしは、ワクワクしながら早足で銀座の街を突っ切っていく。つまんない感傷なんか振り切って!櫻姫や武田百合子みたいになりたいななんて思いながら…。

<わたしの「作家と歌舞伎」シリーズ。>
森茉莉と歌舞伎
春 千本桜 谷崎潤一郎

日日雑記

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