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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

画集 『アンリ・ルソー』 コルネリア スタベノフ (著)

2007年03月20日 | 絵本・写真集・画集

             白い光を反射する道路


画集『アンリ・ルソー』(タッシェンジャパン)を観ました。

ルソーという人は美術の好きな人の間では有名なのだろうし、昨年の暮れにNHKで特集番組も組まれていて私も初めて知りました。

その番組では、ルソーの絵がいかに緻密に計算されているかが解説されていました。内容は私は覚えていませんが、たしかに絵を観ていると、一見人を喰ったような戯画化された絵でありながら、その構図を観るとハッとさせられます。

「ラグビーをする人々」(1908)、「戦争」(1894)、「眠るジプシー女」(1897)、「詩人に霊感を与えるミューズ」(1909)、「蛇使いの女」(1907)、「夢」(1910)、「飢えたライオン」(1905)などを観ると、明らかに構図に計算が行き届いている印象を持ちます。

観ていて気づくのは、普通の遠近感がその絵の中にないこと。物と物との間に遠近がないために、物と物との間の“関係”が、私たちの目に映っているようには描かれず、まるで一つ一つの物が独立に存在しているように描かれています。

それにより、絵の中に一つの世界が存在するのではなく、一つ一つの物が立体として工作物として観る者の目の前に置かれているような印象があります。まるで紙工作を並べられているように。

こうして木も葉っぱも動物も人間も、それらの“間”とは関連せずに独立して存在するため、絵はとても孤独な印象を観る者に与えます。ルソーの絵が孤独さを表現しているのは、「何を」描いているかではなく、「どう」描いたかによっています。彼は、私たちが普通感じているようには絵を描きません。ルソーにとっては、この世界を統一する原理みたいなものの存在は信じることができず、一つ一つの物があくまでただそこに在るものとして感じられていたのかもしれません。そのため彼は物と物の関係をリアルに描くことを拒否したのでしょうか。

それに比べると、初期の「カーニヴァルの夕べ」(1886)、「森の逢い引き」(1889)、「森の散歩」(1886)といった絵群は、私たちの普通の視感覚に近いと思います。後期の絵と同じように正面から構図が設定されているのは同じですが、木や植物のそれぞれがリアルに配置され、観る者が容易に感情移入することができます。私にはそういった絵のほうが、暗い森の寂しさを容易に感じることができて、鑑賞を愉しむことができます。

しかしルソーにとっては、そのような安易な感情移入を観る者に許し、馴れ合った作者と鑑賞者の関係を築くことは、つまらないことに思えたのかもしれません。

ひょっとしたら彼にとっては、私(たち)が世界や自然を見てそこに統一的な印象をもつよりも、一つ一つのものの独立した存在感を表現する方が重要だったのかもしれません。どれは安易な感傷的な絵画表現よりもよほど孤独な印象を観る者に与えます。物と物の“関係”が描かれないということは、私には物に命を吹き込むことを拒否することのように思えるからです。

しかしルソーにとっては、その「命」というような思い込みよりも、たしかに物がそこに存在すること、そのことのほうが重要だったのかもしれません。

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