画集『西洋絵画の巨匠 (2) ゴッホ』を観ました。その名のとおり、ゴッホの画集です。
ゴッホの絵から感じるのは、言いようのない素朴さです。狙って描けるものではないでしょう。彼には自分の見たものがそのままの形で目の前に迫ってきていたのではないでしょうか。
多くの人も感じているように、その太い線と粗い色使いは、観る者にとって痛々しく感じられます。現実の物がそれだけ太い線を持ち目立つ色をしていたということは、ゴッホはつねにその現実を視て痛みを感じていたんじゃないでしょうか。
おそらくゴッホといえども単に感じたままをキャンパスに色を塗っていたわけではなく、彼なりの技術の習練があり、微調整があり、計算があったでしょう。
にもかかわらずその絵に接すると、感じるのは描いている者の心痛です。
彼はずっと苦しみ続けていたのではないでしょうか。現実に馴染みたいと思いながら、彼の別の一部が決して現実世界に順応することを拒否し、現実と内面の世界の追求とに引き裂かれていたのだと思います。
単に現実に順応できるのなら幸せに暮らすことができます。
単に自分の内的世界に引きこもるのなら、それもまた幸せな世界です。
しかしゴッホは(そして狂人と言われる人のすべては)、この二つのどちらか一つを選ぶことができなかったんじゃないでしょうか。現実への憧れを持ちながら、自身は現実に順応できないとき、彼にとって現実は彼を脅かすものであり、また自分には手の届かないものであり、また彼を地獄に突き落とす場所でもあるのです。
現実に対するその愛憎交わる感情を抱えていると、その人が現実とコミュニケイトする方法は、芸術だけだということになる場合があります。ゴッホにとっては、絵を描くことだけが、自分を受け入れず自分を地獄に落とそうとする現実と何とか折り合いをつける方法だったのではないでしょうか。
彼が絵を描いていて癒されるということはなかったのではないかと思います。彼はただ現実に接するときの痛みを絵にしていたのではないでしょうか。
ゴッホの絵から感じるのは、言いようのない素朴さです。狙って描けるものではないでしょう。彼には自分の見たものがそのままの形で目の前に迫ってきていたのではないでしょうか。
多くの人も感じているように、その太い線と粗い色使いは、観る者にとって痛々しく感じられます。現実の物がそれだけ太い線を持ち目立つ色をしていたということは、ゴッホはつねにその現実を視て痛みを感じていたんじゃないでしょうか。
おそらくゴッホといえども単に感じたままをキャンパスに色を塗っていたわけではなく、彼なりの技術の習練があり、微調整があり、計算があったでしょう。
にもかかわらずその絵に接すると、感じるのは描いている者の心痛です。
彼はずっと苦しみ続けていたのではないでしょうか。現実に馴染みたいと思いながら、彼の別の一部が決して現実世界に順応することを拒否し、現実と内面の世界の追求とに引き裂かれていたのだと思います。
単に現実に順応できるのなら幸せに暮らすことができます。
単に自分の内的世界に引きこもるのなら、それもまた幸せな世界です。
しかしゴッホは(そして狂人と言われる人のすべては)、この二つのどちらか一つを選ぶことができなかったんじゃないでしょうか。現実への憧れを持ちながら、自身は現実に順応できないとき、彼にとって現実は彼を脅かすものであり、また自分には手の届かないものであり、また彼を地獄に突き落とす場所でもあるのです。
現実に対するその愛憎交わる感情を抱えていると、その人が現実とコミュニケイトする方法は、芸術だけだということになる場合があります。ゴッホにとっては、絵を描くことだけが、自分を受け入れず自分を地獄に落とそうとする現実と何とか折り合いをつける方法だったのではないでしょうか。
彼が絵を描いていて癒されるということはなかったのではないかと思います。彼はただ現実に接するときの痛みを絵にしていたのではないでしょうか。
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