第二次世界大戦が勃発後、すぐに今までの身近な幸せ…平和が一変しました
当時の大学にあたる内海女学院に、勉学につとめていた長女は…
学徒としてとなり町の裁縫所、兵器工場に奉仕に殉じるも…過酷な労働、栄養失調のため亡くなりました。
まだ幼子であった長男も…
栄養失調のために亡くなりました。
五女まで女子の生まれだった為、待望の男子を授かり間もない頃の長男の死…
家族の柱でもあった長女の死は、
家族の心を悲しみと失意のどん底に突き落としました。
そして昭和19年、『久吉』にも徴兵の勅命が国より出されました。
一家の要たる祖父を欠いだ家族には、休息の間もないぐらい忙しい日が続きました…
残された四人の幼子を一手に抱えた祖母『トクゑ』は、子供を背負いリアカーにも一人乗せての「切花の買い付け」、「仏花作り」、「販売」、「子守」、「家事」まで一人で担っていたようです。
家業に子守に家事などをする事に関しては、『トクゑ』さんが特別ではなく、地域の各家庭でも同じように過酷な日々が続くとともに、度重なる空襲、自警訓練、いつ終わるか分からない暮らしに地域の人々は勿論…家族一同がみな疲れ果てていました。
※その頃には、曾祖父に曾祖母は亡くなっていました。
そんな混沌とし澱んだ空気を残しつつ時は流れ、昭和20年
…戦争の終わる年に生まれたのが我らが父『日出高』。
※戦争が早く終わり、日の本の国である祖国に平和と反映を願うとともに、戦地に行った主達が無事に早く帰り、地域の幸せを導いてくれる存在…に……と地域の命名者につけられたそうです。
『日出高』が生まれ数ヶ月後、内海は近くに軍事基地があることから空襲にさらされていました。
防空壕内では、爆音に泣きじゃくる幼子の声にも大人達は無関心…無気力…ただ一点を見…外の音に耳をたてていました。
※度重なる空襲警報にみな疲れと諦めにも似た無表情になっていたそうです
爆音が止んだ後は、泣きじゃくる幼子の母親達は、口をふさがせ、聞きしに及ぶ鬼畜…悪魔達に防空壕が見つからぬよう息を潜め籠もっていました。
爆音が止み、安全を伝える鐘が鳴り響いたのは、数十分とも数時間にとも感じられたようです。
防空壕からは、誰が言い出したか自然と、まず年老いたもの達から順に出て行き、安全を確認してから若いもの、子供と這い出しました。
子供達が息苦しさから解放され、声高々にはしゃぎ飛び出ていくも、先に出た大人達はまだ無表情で立ちすくんでいました。
防空壕内で何時間過ごしてたか、みんなわからかりませんでしたが…
空が真っ赤だから夕刻だと子供達は思い、動かない大人達に
『どしたん?』
『お腹空いたぁ』
『はやくおんも帰ろう』
の声をなげかけついました。
子供達も疲れ果て座り込んだり、駆け出す者もいました
子供達に、パチパチ…ズズゥーン…と聞こえてきたのはそんな時でした
赤い空は、夕焼けではなく自分たちの家や町を焼きつくす業火のせえで真っ赤に染まっていたのです。
消火活動もままならないくらいの火の広がりに、大人達は意気消沈としていたのでした……
泣く者もいましたが、ほとんどの大人は、ただただ
我が家の方へ歩いていき
焼き崩れた家を見ていたようです…
我が一家も…足が自然と、我が家へと歩ませ…呆然と燃え崩れていく屋敷を見ていました
この戦災により…
屋敷、店、農具、家畜小屋、備蓄食糧、家財、衣類…そして大切なリアカー…全財産全てを失いました
悪夢のような日から一週間、地域のみんなは、自分たちの家の瓦礫撤去…寝床の確保に時間の多くをついやし、
食料や家屋を失った人々には疲労困憊の色が濃く見られ栄養失調で倒れる方も後を断たなかったようです。
つづく
当時の大学にあたる内海女学院に、勉学につとめていた長女は…
学徒としてとなり町の裁縫所、兵器工場に奉仕に殉じるも…過酷な労働、栄養失調のため亡くなりました。
まだ幼子であった長男も…
栄養失調のために亡くなりました。
五女まで女子の生まれだった為、待望の男子を授かり間もない頃の長男の死…
家族の柱でもあった長女の死は、
家族の心を悲しみと失意のどん底に突き落としました。
そして昭和19年、『久吉』にも徴兵の勅命が国より出されました。
一家の要たる祖父を欠いだ家族には、休息の間もないぐらい忙しい日が続きました…
残された四人の幼子を一手に抱えた祖母『トクゑ』は、子供を背負いリアカーにも一人乗せての「切花の買い付け」、「仏花作り」、「販売」、「子守」、「家事」まで一人で担っていたようです。
家業に子守に家事などをする事に関しては、『トクゑ』さんが特別ではなく、地域の各家庭でも同じように過酷な日々が続くとともに、度重なる空襲、自警訓練、いつ終わるか分からない暮らしに地域の人々は勿論…家族一同がみな疲れ果てていました。
※その頃には、曾祖父に曾祖母は亡くなっていました。
そんな混沌とし澱んだ空気を残しつつ時は流れ、昭和20年
…戦争の終わる年に生まれたのが我らが父『日出高』。
※戦争が早く終わり、日の本の国である祖国に平和と反映を願うとともに、戦地に行った主達が無事に早く帰り、地域の幸せを導いてくれる存在…に……と地域の命名者につけられたそうです。
『日出高』が生まれ数ヶ月後、内海は近くに軍事基地があることから空襲にさらされていました。
防空壕内では、爆音に泣きじゃくる幼子の声にも大人達は無関心…無気力…ただ一点を見…外の音に耳をたてていました。
※度重なる空襲警報にみな疲れと諦めにも似た無表情になっていたそうです
爆音が止んだ後は、泣きじゃくる幼子の母親達は、口をふさがせ、聞きしに及ぶ鬼畜…悪魔達に防空壕が見つからぬよう息を潜め籠もっていました。
爆音が止み、安全を伝える鐘が鳴り響いたのは、数十分とも数時間にとも感じられたようです。
防空壕からは、誰が言い出したか自然と、まず年老いたもの達から順に出て行き、安全を確認してから若いもの、子供と這い出しました。
子供達が息苦しさから解放され、声高々にはしゃぎ飛び出ていくも、先に出た大人達はまだ無表情で立ちすくんでいました。
防空壕内で何時間過ごしてたか、みんなわからかりませんでしたが…
空が真っ赤だから夕刻だと子供達は思い、動かない大人達に
『どしたん?』
『お腹空いたぁ』
『はやくおんも帰ろう』
の声をなげかけついました。
子供達も疲れ果て座り込んだり、駆け出す者もいました
子供達に、パチパチ…ズズゥーン…と聞こえてきたのはそんな時でした
赤い空は、夕焼けではなく自分たちの家や町を焼きつくす業火のせえで真っ赤に染まっていたのです。
消火活動もままならないくらいの火の広がりに、大人達は意気消沈としていたのでした……
泣く者もいましたが、ほとんどの大人は、ただただ
我が家の方へ歩いていき
焼き崩れた家を見ていたようです…
我が一家も…足が自然と、我が家へと歩ませ…呆然と燃え崩れていく屋敷を見ていました
この戦災により…
屋敷、店、農具、家畜小屋、備蓄食糧、家財、衣類…そして大切なリアカー…全財産全てを失いました
悪夢のような日から一週間、地域のみんなは、自分たちの家の瓦礫撤去…寝床の確保に時間の多くをついやし、
食料や家屋を失った人々には疲労困憊の色が濃く見られ栄養失調で倒れる方も後を断たなかったようです。
つづく
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