『久吉』が負傷兵として戦地より帰国し、数ヶ月後…日本の敗戦を報せる放送が日本各地に伝えられました…みな一様に涙しました…
衝撃の放送より、まもなくして『久吉』に、役場から連絡が入りました。
それは、国から負傷兵手当が生存中毎年支払われるとの連絡でした。
…しかし『久吉』は、
久吉『今お国が大事を迎え、一刻も早い復興、親や親族を失った家庭にこそ使っていただきたい』
久吉『私はまだ生きています。日本人としての正義によって殺め、傷ついたこの足は誇りではなく…戒めだ』
と役場からの再三の申請を断りました。
その決断が、今までもこれからも地域への感謝を忘れずに、花屋を続けれる根塊になっているのだと祖母は後に語りました。
辛い戦時中、貧しい戦後も変わらず、
先人達への感謝、尊敬、報告、戦地の家族の無事を祈る…(略)…
を兼ね行う日本人の心ともいえるお墓参り…
大切なお墓参りに添える、
仏花の需要は、なくなる事はありませんでした。
※当時花屋は知多半島内には数店しかなく、南知多町内美浜町内には、うちしかありませんでした。
数年後、家族が一人増え、末っ子だった『日出高』に弟ができました。
『久吉』さん『トクゑ』さんの忙しい日々はあっと言う間に流れ、
昭和37年、『久吉』『日出高』と弟の3人のみで小さいながらも店舗を作り、店売り・お祝いの花束、アレンジメント・ご葬儀に出す御供花、も始め。
遠くは武豊町から買いにきて下さるお客様も多く、大変繁盛したようです。
数年後
家業が安定し、
整備がままならない道路を桜印(内海生花の社印)を付けた青のスカイラインで爆走する『日出高』の姿がありました。
美浜町布土に住んでいた元ミス美浜『茂子』に出会ったのはそんな時です!。
『茂子』は、みかん狩りでも有名な百姓の育ちの5人兄弟の3女(男二人、女三人)でとなり町の某製薬会社で働き、会社が休みの時は、みかん狩りの客引きとして数人の親戚や地元の方達と路上に立ち、家業を手伝っていました。
当時スカイラインは、このあたりで乗っている人も少なく…『日出高』がのっている車は、海のような鮮やかな青に、大きなピンクの桜のマーク…地元でも有名になっており…派手好きの『茂子』もよく派手な車が走ってるなぁ~(羨望)と見てたそうです。
二人が運命の出会いをするのは、母が23歳の頃……
お互いの親戚が知人同士で二人とも初めてのお見合いだった為か、初々しさが際立ち好印象のまま、その日を終えました。
『茂子』が驚いたのは翌週土日、いつものようにみかん狩りの客引きをやっていると…またいつもの様に派手なスカイラインが…通り過ぎ……
ようとした時、お互いがお互いの存在に気づき、運命を感じたみたいです。
『日出高』は、『茂子』の実家に通い続け、家族にも気にいられ結婚となりました。
二人の間には、私『高久』次兄『忠彦』姉『久江』と生まれ、
昭和54年…祖父『久吉』が亡くなり、最後に私の弟が生まれ、浩宮様の『浩』と『久吉』さんの『久』をとり『浩久』が誕生しました。
地域の皆様にも育まれ、健やかに育ち、あっと言う間の
2002年4月24日内海生花の豊浜店でもある『お花大好き花大』をオープンさせて頂きました。
今現在、長男でもある私が店長、バイトと弟『浩久』の3人で交代で店に入っています。
豊浜に店を出させて頂いて、より強く感じる事は、
祖父や祖母の事を今でも覚えているお客様がみえる事
地域を心から大切にされる方に、溢れている事
豊浜で生業をもてた事を素晴らしくも誇りにも思います。
今回この内海生花物語を書くに至ったのは、3月31日に、祖母の七回忌を迎えたからで……生前に聞いていた話を形に残せれないかと思い立ったからであります。
『トクゑ』さんは小柄だったので、私たち兄弟が人並みに大きく、丈夫で元気なことを心より喜び私たちを大切に大切に育んでくれました。
そんな祖母が亡くなり、早六年…
生きていれば百歳になっていたそうです。
嫁いでから80年、今もあなたの思いは残っています…
あなたの愛した地域は、今も変わらず優しい思いに溢れています…
あなたが育んでくれた孫は、あなたの事を今でも大好きです…
『お花大好き花大』は…
花屋+大岩からではなく、
祖母や祖父が愛したこの仕事を、この町を、いつまでも大好きで居続けるとの思いからもつけられました。
あなた達が幸せな国で常しえに憩われますように
(*^o^)人
日々、皆様の期待に応えれますよう学び『笑顔・元気・素直・誠意・感謝の心』を社標に、地域に愛され続ける花屋・先人達の夢見てた花屋を目指しスタッフ一同、精一杯勤めます。これからも宜しくお願い致します。
衝撃の放送より、まもなくして『久吉』に、役場から連絡が入りました。
それは、国から負傷兵手当が生存中毎年支払われるとの連絡でした。
…しかし『久吉』は、
久吉『今お国が大事を迎え、一刻も早い復興、親や親族を失った家庭にこそ使っていただきたい』
久吉『私はまだ生きています。日本人としての正義によって殺め、傷ついたこの足は誇りではなく…戒めだ』
と役場からの再三の申請を断りました。
その決断が、今までもこれからも地域への感謝を忘れずに、花屋を続けれる根塊になっているのだと祖母は後に語りました。
辛い戦時中、貧しい戦後も変わらず、
先人達への感謝、尊敬、報告、戦地の家族の無事を祈る…(略)…
を兼ね行う日本人の心ともいえるお墓参り…
大切なお墓参りに添える、
仏花の需要は、なくなる事はありませんでした。
※当時花屋は知多半島内には数店しかなく、南知多町内美浜町内には、うちしかありませんでした。
数年後、家族が一人増え、末っ子だった『日出高』に弟ができました。
『久吉』さん『トクゑ』さんの忙しい日々はあっと言う間に流れ、
昭和37年、『久吉』『日出高』と弟の3人のみで小さいながらも店舗を作り、店売り・お祝いの花束、アレンジメント・ご葬儀に出す御供花、も始め。
遠くは武豊町から買いにきて下さるお客様も多く、大変繁盛したようです。
数年後
家業が安定し、
整備がままならない道路を桜印(内海生花の社印)を付けた青のスカイラインで爆走する『日出高』の姿がありました。
美浜町布土に住んでいた元ミス美浜『茂子』に出会ったのはそんな時です!。
『茂子』は、みかん狩りでも有名な百姓の育ちの5人兄弟の3女(男二人、女三人)でとなり町の某製薬会社で働き、会社が休みの時は、みかん狩りの客引きとして数人の親戚や地元の方達と路上に立ち、家業を手伝っていました。
当時スカイラインは、このあたりで乗っている人も少なく…『日出高』がのっている車は、海のような鮮やかな青に、大きなピンクの桜のマーク…地元でも有名になっており…派手好きの『茂子』もよく派手な車が走ってるなぁ~(羨望)と見てたそうです。
二人が運命の出会いをするのは、母が23歳の頃……
お互いの親戚が知人同士で二人とも初めてのお見合いだった為か、初々しさが際立ち好印象のまま、その日を終えました。
『茂子』が驚いたのは翌週土日、いつものようにみかん狩りの客引きをやっていると…またいつもの様に派手なスカイラインが…通り過ぎ……
ようとした時、お互いがお互いの存在に気づき、運命を感じたみたいです。
『日出高』は、『茂子』の実家に通い続け、家族にも気にいられ結婚となりました。
二人の間には、私『高久』次兄『忠彦』姉『久江』と生まれ、
昭和54年…祖父『久吉』が亡くなり、最後に私の弟が生まれ、浩宮様の『浩』と『久吉』さんの『久』をとり『浩久』が誕生しました。
地域の皆様にも育まれ、健やかに育ち、あっと言う間の
2002年4月24日内海生花の豊浜店でもある『お花大好き花大』をオープンさせて頂きました。
今現在、長男でもある私が店長、バイトと弟『浩久』の3人で交代で店に入っています。
豊浜に店を出させて頂いて、より強く感じる事は、
祖父や祖母の事を今でも覚えているお客様がみえる事
地域を心から大切にされる方に、溢れている事
豊浜で生業をもてた事を素晴らしくも誇りにも思います。
今回この内海生花物語を書くに至ったのは、3月31日に、祖母の七回忌を迎えたからで……生前に聞いていた話を形に残せれないかと思い立ったからであります。
『トクゑ』さんは小柄だったので、私たち兄弟が人並みに大きく、丈夫で元気なことを心より喜び私たちを大切に大切に育んでくれました。
そんな祖母が亡くなり、早六年…
生きていれば百歳になっていたそうです。
嫁いでから80年、今もあなたの思いは残っています…
あなたの愛した地域は、今も変わらず優しい思いに溢れています…
あなたが育んでくれた孫は、あなたの事を今でも大好きです…
『お花大好き花大』は…
花屋+大岩からではなく、
祖母や祖父が愛したこの仕事を、この町を、いつまでも大好きで居続けるとの思いからもつけられました。
あなた達が幸せな国で常しえに憩われますように
(*^o^)人
日々、皆様の期待に応えれますよう学び『笑顔・元気・素直・誠意・感謝の心』を社標に、地域に愛され続ける花屋・先人達の夢見てた花屋を目指しスタッフ一同、精一杯勤めます。これからも宜しくお願い致します。
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