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海の街『南知多町』花屋兄弟日記♪

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内海生花物語3

2009年04月04日 10時06分24秒 | 内海生花物語
焼夷弾は木造家屋が多い、我が国に甚大の被害と、敵国に対する恐怖や嫌悪をより一層強めていきました。

空襲をうけた内海でも同じ様な感情が渦巻き、中でも食料の少なさは、人々の心を苛立たせる要因になっていました。


疎開してきた者…
口減らしの為に田舎に彷徨に出された者…
親を亡くした者…

に対しての風当たりは特に厳しかったようです。



幸い、内海の多くの田畑は、火災を免れていました。



他人とはいえ子供、飢えに苦しむ姿をほっとけない……そんな思いが内海人に広がり我が家にも数人の子供が出入りしていたようです。

その中の一人が、次女と結婚し家庭を気づいていくのは、また別の話。


貧しく厳しくも地域の暖かさに溢れていた内海……


しかしまだ戦争の恐怖は終わっていません!!



私たちの家族にも、緊張の糸が切れることはありませんでした。


『トクゑ』さんと地域のみなさんで作った仮設(敷地内に穴あけて、寝床にわらを敷き、廃材の屋根だけ)の狭い我が家には…母一人、乳飲み子一人、子供四人で窮屈な思いをするとともに……命の大切さ、地域の皆さんの恩恵について改めて感謝するとともに……『わたしが守らなきゃ』と強く自分自身に誓わせたそうです。


仮説生活が始まり、すぐ…
生まれてこのかた、あまり手の掛からなかった『日出高』にも、みんなの緊張が伝わったのか…何が欲しいでもなく…泣く事が多かったようです




場面は変わり…


その頃、戦地に旅立った『久吉』の入隊している部隊は、シンガポールにて…日々、野戦…激戦を続け、戦局は敗戦の色を濃くするとともに、
『久吉』も足に銃弾を受け、命からがら仲間と駐屯治療所まで帰投、治療を受けていました。


『久吉』が治療を受け始め一週間と経たないうちに

部隊も十数人の負傷兵を残し、壊滅し、一路帰国となりました。


負傷兵帰国の便りが、家族の下に届く前に、

帰国後、祖父は名古屋から電車やバスなどの交通機関を使い杖を突きながら自力で内海(我が家)まで帰ってきたのは、家族が仮説生活をはじめ…二週間とたたない頃でした。


祖母『トクゑ』は、『日出高』が祖父『久吉』の危機を悟り、呼びかけ戦地より連れ戻したのだと…人知れず泣き喜んだそうです。


        つづく

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