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海の街『南知多町』花屋兄弟日記♪

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南知多町 篠島 と 徳川家康 ~天下御免の睡眠~

2011年02月04日 11時01分57秒 | 南知多町 地域に伝わる逸話

むかしむかし、

篠島の寺『古城山妙見斎』に等膳(とうぜん)というお坊さんがいました。

若い頃に諸国を巡業して、学問・道徳ともに優れた立派なお坊さんであります。


島に帰ってから、寂れていた妙見斎を立派に建て直し、そこの住職となり島民からは、『仙麟和尚』の名で慕われていました。

等膳の父『吾郎右衛門尉』が、

島の医徳院に薬師堂を建てることを願い、資金集めの旅にで、岡崎を経て島に帰ると、

すぐその足で等膳を訪ね、こう言いました、

父『おい、お前がよく知っとる岡崎の若殿様が、今川氏の人質にとられとるぞ。帰りたがっとられるそうだ。』


この若殿とは、等膳が若い頃、駿河の増善寺で会って以来、心の通じ合った間柄で、

名を、竹千代といいます。(後の徳川家康)

等膳は父と相談し、救出を試みることにしました。


荷物を載せた貨物船を仕立て清水港に入港、

そして密かに駿河の今川氏のもとに侵入するや、

竹千代を葛籠に入れて背負い、清水港に引き返すと、船に乗せ 篠島へと連れて帰りました。


そして 70日ほど 妙見斎にかくまった後、岡崎に送り届けたのであります。

故郷に帰りたい 一念であった竹千代にとって、これはどんなに嬉しかった事であろうか。

その後、竹千代は元服し 幾たび名を改めたのち、

今川氏滅亡後、家康と名を改め岡崎の地で一国一城の主として旗揚げをしました。


浜松に移ってからも、等膳に会いたいという手紙を 何度も送ったが、

偉い人におべっかを使うことの嫌いな等膳は、なかなか篠島から腰を上げようとしませんでした。


しかし 家康からあまりにも度々 誘いがあるので、

とうとう断りきれなくなり、ある日のこと、家康の前へ現れました。


家康『等膳会いたかったぞ。ずいぶん待たせたじゃないか』

二人は膝を抱えて、昔の思い出話に花を咲かせました。

ところが、そのうち 等膳は、旅の疲れが出てきたのか、

家康と話している 最中に座ったまま、こっくりこっくりと居眠りをはじめてしまいました。

それに気付いた家康配下の武士達は、互いに目配せしあって その無礼を止めに立とうとしましたが、

家康はそれを制し、

家康『よいよい、そっとしといてやれ。この人は、わしの昔からの友人であり、命の恩人でもある方だ。遠くからこられて疲れておいでだ。』

『和尚 我を見ること 愛子の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚眠るべし。』

そういって、にこにこ笑いながら、眠りの覚めるのを待ち、目を覚ますと、

家康『等膳殿、よく眠られますな。いま貴殿によい号を思いついたゆえ、さし上げよう。』

等膳『いや、これは失礼。して、その号とは…』

家康『かすい。可睡はどうかな。よい号であろうが。今後は いかなる時でも、いかなるところでも、睡眠は勝手にとっていいぞ。』

等膳『可睡……、天下御免の睡眠か。なるほど、これは一本やられました。』

二人『ワッハッハッハッハ』

二人は顔を見合わせて大いに笑いあった。

家康の家来の侍たちは、家康の いつにないはしゃぎように驚かされたとのこと。

家康『のう等膳、わしがこうして今日あるのも貴殿のおかげであるぞ。
お礼を申す。ところで、貴殿のために何か恩返しをしたいと思うが、
望むところがあればなんなりとも聞き届けよう。どんな位でも授けようぞ。』

もともと地位や名誉などというものに関心のなかった等膳は、

家康の申し出を断りました。

等膳『とんでもないことでございます。小さな島で寺を守るのに 位などじゃまでござる。』

家康『ハッハッハ。そういうと思っとったわい。』

家康は愉快そうに笑いながら言った。

家康『わしは、お前さんと時々こうして会いたいのじゃよ。』


その後、家康は、等膳に、

わしが若い頃 命を助けられた地域に 朽ち果てようとしている お寺がある。

仏教を重んじるわしには、心苦しくてならん。何とかして再興してくれまいか。とお願いをし


そこの住職として10万石以上の大名の格式をもって『遠州』と号する寺を建て、迎えようとしました。

しかしながら、等膳は、10万石を断り、自分の力で切り開き、復興を果たすのでありまして。

この寺は、70余の下寺をもち、江戸幕府の庇護のもと 大いに栄えたということだ。(遠州三山)


天正18年(1590年)5月21日
可睡斎 等膳は、ついに永遠の眠りにつきました。

そして、
時の天皇より『鳳山禅師』の称号を贈られました。

等膳が建て直した妙見斎は今はなく、篠島小学校の裏に墓地のみ残されています。

そして、そのお寺を引き継いだのが、

同じく篠島にある知多四国88霊場でお馴染みの『正法寺』(しょうぼうじ)であります。


時は戻り、若侍で、戦があまり上手でなかった家康が負けて篠島へ逃げてきた事がありました。

命からがら 島に上陸してきた家康の後ろからは、追っ手の者もやってくる様子。

家康の哀れな姿を見かけた島の人が、とっさに、海岸にあった大きな『どうまん』の中に家康をかくまって知らん顔しとった。

追っ手の者もいろいろ探し回ったが、ついに見つけ出すことができず、すごすご帰っていきました。

危ないところを助けられた家康は、自分をどうまんの中へ入れてくれた人に褒美として、『石橋』の姓を与えたといいます。


この石橋姓を与えられた漁師が、等膳 だそうです。


等膳は、和尚をしながら、畑はもとより、漁までするパワフルな和尚であったようです。

危ない川を安全な石の橋で渡し、窮地を救ってくれた感謝の意を込めたものだろう。いまの篠島にある『石橋』姓は、その子孫だということです。

幼少の頃の助け、青年時代の助けもあり、等膳には、大変な恩義を感じていたようであります。



その他にも 篠島にはこういう昔話も残されています。

腹が減って死にそうになっていた家康を、いわしの浜料理を食べさせ助けた人がいます。

それは『板谷金兵衛』という篠島の漁師で、

船を出し、家康を本国まで送っていったという。

駿府に城を築いて城主となってからも、

そのときの味が忘れられず、城に金兵衛を呼んで、こう言ったそうな。


家康『あの時のいわしは美味かったぞ。今も感謝しとる。何でもほしいものがあったら申してみろ。褒美をとらすぞ。』

金兵衛は、狭い島の狭い島の漁業権ではなく、もっと広い伊良湖崎の片浜13里と西の浜の利権を申し出た。

家康『なんだそんなことか、よいよい。』

と筆をとってさらさらと書き付け、家康の署面をしたお墨付を与えたそうな。

おかげで金兵衛は、片浜13里と西の浜の漁業をとりしきって、島一番の大網元となったということだ。

片浜や西の浜の漁師たちが、盆・暮れには

『金兵衛親方、金兵衛親方』

と挨拶にくるようになり、

その接待費の方が両浜の運上金より高くつくようになり、金兵衛家の家計は、火の車だったという。

それで、金兵衛が死んだときに、家康からもらったお墨付きも骨壺の中に入れて埋めてしまったという事だ。


敵に敗れ、篠島まで逃れてきたのも、
金兵衛を城に呼んだのも、

等膳に会うためのように思いました。

家康も人の子、困った時は親友を訪ねたのだと思いました(^-^)

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