幕末・開国史に於いて、非業の最期を遂げたとされる実在される人物で、
『唐人お吉』として、中傷や罵声を浴びる。
本名『斎藤きち』
1841年12月22日に、南知多町内海(西端村)の船大工『斎藤市兵衛』と妻『きわ』の間に、次女として、生を受ける。
4歳までは、南知多町内海で過ごすも、父の仕事の関係で、一家そろって、
静岡県下田市(伊豆国賀茂郡)へ移るも、早くに父を亡くし、
篤志家に里子に出され 船頭相手の洗濯女・酌婦となる。
7歳の時に、河津城主向井将監の愛妾であった村山せんの養子になり、琴や三味線を習い、
14歳の時に、村山家の没落により家計を救うため 3年の年季で、芸者となり、年季明けには 幼なじみの鶴松と一緒になる予定であった。
その頃から 芸者名『お吉』と名乗る。
子供の頃より、お酒の席についていたり、
琴や三味線も出来る芸達者な『お吉』は瞬く間に下田一の人気芸者となる。
1857年(お吉17歳)、アメリカ総領事館(玉泉寺)、日本初代 駐日総領事ハリス・タウンゼントは、
日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し、床に臥せてしまう。
困ったハリスの通訳『ヘンリー・ヒュスケン』は、日本人看護婦の斡旋を地元役人に依頼する。
しかし、当時の日本人には、看護婦という概念が理解できず、妾の斡旋依頼だと誤解して、
候補にあがったのが、当時、下田一の芸者で
『新内明烏(しんないあけがらす)のお吉』とうたわれるほどの評判と美貌を兼ね備えたお吉である。
※通商条約を迫るアメリカに対し、幕府側の交渉の引き延ばしのために送られたともされている。
下田奉行所の命をうけ、看護婦名目の、ハリスの侍妾となるが、
病気(腫物)のせいで、3夜で解雇されるも、他に適任者がいなかった為、
ハリスが回復するまでの3ヶ月の間、奉公をすることとなる。
当時、大多数の日本人は、外国人に偏見をもっており、
外国人に身を任せるのを、恥とする風潮があった。
もちろん、幼なじみの婚約者もいたお吉も、それに当てはまり 断固として ことわり続けたが、
高給のほか 恋人の鶴松を士分に取り立てるという条件を出され、
鶴松に相談すると『おらぁ お侍になりてぇ』と言われ、
幕府役人の執拗な説得にも折れ、ハリスの下へ赴くこととなった。
当初お吉には、同情的な目が向けられたが、
次第に羽振りのよくなっていくお吉に対し、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けられるようになる。
ハリスに仕え、その後に出来た腫物という事も拍車をかけ、
お金のために、異国人に身を委ねた。。。
などと噂が広まり、
以後『唐人お吉』と差別され、
仕事が立ちゆかなくなる。
この頃から酒色に耽るようになる。
(続)
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