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神の国、アメリカの正義<1/3>

2011-05-27 23:01:16 | うらちゅう
先日ビン・ラディン容疑者が、アメリカの特殊部隊によって殺害されたらしいことが報道されました。

一国の作戦による「容疑者」の「殺害」、そして大統領による「正義は遂行された」の発表に歓喜する国民。
と、ちょっと我々日本人の感覚からはピンとこない出来事かと思います。
そもそも日本人は、今現在世界中で起きている戦争、紛争のほとんどが宗教がらみであることも、それら諸宗教が何故対立し合っているのかもよくわからない、という人が大半だと思います。

それは日本人が、世界最大規模にして、西洋文化の背骨となっている宗教と、その経典である「聖書」から縁遠いことにあります。
つまり、日本人は聖書文化としての西洋文化、宗教国家としてのアメリカについて全く無知なのです。

「聖書(ヘブライ語聖書=旧約聖書)」をルーツに持つ3つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者数を合わせると世界人口の半数を超えると言われています。中でも、「世界の警察」たるアメリカではキリスト教が国教であり、国民の7~8割がクリスチャンであると言われています。そんな聖書を軸にした世界情勢と、今後の動向を、聖書抜きに理解することはできません。

別にアメリカだけ、キリスト教だけを悪者呼ばわりするつもりは無いのですが、アメリカ傘下にある日本では一般的に「イスラム教=暴力的で後進的」、なイメージがあり、キリスト教に対しては「まあ、関わるつもりはないけど、悪い宗教でもなさそうだ」というようなイメージが浸透しているかと思われますので(友人も入信してしまった)、あえて、です。

と、いうわけで、アメリカの言う「正義」とは何か?戦争と環境破壊の人類近代史の根底には何があるのか?
世界で一番有名で、日本人が一番知らない世界の真実、「聖書」の世界をほんの少しだけ覗いてみましょう。

====『宗教』を語る前に=============================

ところで、日本語の『宗教』という言葉の中には、実に様々な意味合いが含まれています。
あらゆる宗教の原点でもある「自然界そのものが神である」という宗教でない宗教=「自然宗教」もあれば、それらをルーツに、政治的な要素が絡んで発展、形成されたものや、特定の人物によって開かれた「人工宗教」もあり、そこにはっきりとした線引きはできません。
また、『宗教』には自己を鍛練し、神仏の領域にまで高める、という「修行型宗教」や、自分以外の誰か、あるいは何かを特定の「神」「教祖」とし、信者になることで「救い」の恩恵に与ったり、その教えに従って生きることで安らぎを得る「依存型宗教」もあり、多くの場合はそれらは複合体となっており、そこにもやはり線引きはできません。
特に、入口は「修行」「自己鍛練」であってもいつの間にか「依存」になってしまっている場合が多く、それが大抵の宗教トラブルの原因になっています。

このような多様性から、宗教を話題にするには腰を落ち着けて、「ことの起こり」からゆっくりじっくり話さなくては大変ややこしいことになりますが、その時間ができるのを待っていたらいつになるかわかりませんので、とりあえず今知っておくべきだと思うこと、「聖書」と「キリスト教」について、ほんの少しだけ書いてみようと思います。

尚、それがどんな正論であったとしても、宗教に関わるとロクなことになりません(宗教組織と、信者さんにとって正論かどうかは問題ではない)ので、くれぐれも、ここで見聞きした事は自分の胸の内に秘めて、人に話したり、おおっぴらに批判したりしないようにすることをご忠告しておきます。

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<聖書とは何か>

聖書=ヘブライ語聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界三大一神教が、共通して聖典として認めています。
一神教とは、この宇宙は、唯一絶対の神によって、すべてが創られ、動かされている、と考える宗教で、他の宗教、他の神様の存在は絶対に認めません。
それに対して、世界が様々な神の共同作業によって統治されている、と考えるものは多神教と呼ばれています。
ちなみに、万単位の人類文明史においては、この一神教という考え方は極めて新しいものであり、西洋においても、また世界のどの民族においても、その悠久の歴史の中で自然現象由来の多神教文化でした。
僕らはたまたま一神教文化花ざかりのレアな時代にいるとも考えられます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、多神教=平和的、ではないということです。
多神教文化同士でも、神の解釈や、教義の違いなどによって、争いは絶えず起こっています。

日本で聖書というとキリスト教の経典としてのイメージが強いですが、実際には聖書はもともとユダヤ教の経典です。
キリスト教では、ユダヤ教聖書に、その続編としての「新約聖書」を加え、ひっくるめて「聖書」と呼んでいます。
この新約聖書の「新約」とは、ユダヤ教聖書の時代において交わされていた神との契約が、イエス・キリストによって更新され、新しく約束し直した、という意味の「新約」で、それに対してキリスト教ではユダヤ教聖書のことを旧い約束の「旧約聖書」と呼びます。

ユダヤ教は非常に戒律の厳しい宗教なのですが、それら煩わしいことを一切取り払って、ただ「信じれば救われる」と、シンプルにお手軽に、誰にでも入信しやすく改良することによって、砂漠由来の民族宗教でしかなかったユダヤ教を、一躍世界宗教へと大展開することに成功したのです。
ただ、これはユダヤ教徒にしてみたら、一度交わした神との契約が「更新」されるなんてもっての他!
割礼(男性器の皮を切ること、実際に疫病を防ぐ等の効果がある)はしなくていいし、安息日に遊んでもいいし(6日働いたら、7日目は祈りのために休まなくてはいけない。安息日には大小36にも及ぶ基本的生活の禁止事項がある)、肉も何でも食っていい、それでいて今や本家であるユダヤ教を差し置いて、世界を我が物顔で蹂躙!
さらに、キリスト教とは、イエス・キリストがユダヤ教の司祭や権力者を批判することで生まれた宗教であるために、キリスト教徒から見たユダヤ教信者は憎悪と軽蔑の対象。しかも、ユダヤ人はあろうことかイエス・キリストを裏切って殺した犯人にされてしまった。
これではお互いに憎しみ合うのも無理はありません。あるいは、むしろ憎しみ合うように意図してつくられた、と考える方がよっぽど自然です。

もちろん、イエス・キリストがしたかったのはそんなことではありません。
原初仏教について詳しい人が新約聖書を読むと察しがつくと思うのですが、イエス・キリストはブッダと同じように、神の名を権力の道具として使用し、形式だけになってしまっていた宗教組織を批判し、本来の宗教と神の存在、人の生きるべき道を指し示した覚者であり、自分の宗教を作ろうとしていたわけではなく、むしろ人々の心を宗教から解放しようと活動した人だったと考えられます(歴史的事実として、キリスト教も仏教もイエスとブッダの死後、弟子が作った宗教です)。

このように、イエス・キリストの教えからはかけ離れ、むしろユダヤ教を堕落させ、強力にしただけのキリスト教は、「キリスト教」と言うよりは、「新・ユダヤ教」の呼称こそ相応しい、と僕は思います。
宗教組織を批判したイエス・キリストが、その活動から十字架にかけられ、死後、世界最大最強の宗教組織の教祖に祭り上げられるとはなんという皮肉でしょうか!?

そして、そんな堕落した、でたらめの理論を掲げるキリスト教支配に「俺らには俺らの生き方がある!」と、中東から対抗する形で、「神が子を産むとは何事か!タワごとも大概にせい!」と、ムハンマドが神の啓示を受けて始めたのが「イスラム教」です。
イスラム教は一日5回の礼拝や、一年のうち一か月の断食や、特定の肉食の禁止など、「聖書本来の生活の復活」を掲げた部分があり、別の呼びかたをするなら、「真・ユダヤ教」と言えるかもしれません。

そして、キリスト教もイスラム教も、互いに自分達の神こそ本物である!と、一歩も譲らず、その闘いはどちらかが滅びるまでは永遠に終わることがありません。
まあ、どちらにせよ、本家のユダヤ教からしてみれば後出しジャンケンの「偽物」であり、それでいてどんどん信者を増やしていっているのですから「困った邪教」ということになるでしょう。

以上3つの聖書宗教の経典をまとめると、

ユダヤ教:聖書+タルムード
キリスト教:旧約聖書(=ユダヤ教聖書)+新約聖書
イスラム教:コーラン(クルアーン)+ハディース

という感じになります。
それぞれ『タルムード』はキリスト教が広まるようになってから司祭によってまとめられた「聖書には記されていない、口伝のみで伝えられた神の言葉」という名目の「第二聖典」であり、『新約聖書』は、旧約聖書で予言されていた救世主、イエス・キリストの行動と言葉と弟子たちの活躍をローマ=キリスト教会がまとめたものであり、『ハディース』はムハンマドが受けた神の啓示を信徒がまとめた『コーラン』に対して、ムハンマド自身の言葉や行動をまとめたもので、それぞれ第二聖典は後付けでコロコロ内容が変わりながら形成されていったもので(故に矛盾する記述も多い)、時代と共にオリジナル聖典の教えからは切り離され、第二聖典こそ「真の神の言葉である」ということになっていきます。

なんだか子供のケンカみたいですが、実際これで毎日人が殺し合いをしているのだから笑えない茶番です。

続く…


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