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神の国、アメリカの正義<3/3>

2011-05-27 23:06:59 | うらちゅう
前回までの記事
神の国、アメリカの正義<1>
神の国、アメリカの正義<2>

<さまよえる善意>

ここでお断りしておかなくてはならないのは、多くの場合、信者さんひとりひとりは善良な市民だということです。
それは別にキリスト教に限らず、宗教の信者さんというのは、それがたとえ世間一般的に危険視されているような宗教であっても、誠実で、思いやりのある「善意の固まり」のような人である場合が多いのです。

平成7年、オウム真理教による地下鉄サリン事件。
当時のマスコミも世間も、オウム信者=狂っている、というイメージのみを狂ったように抱き続けましたが、実はオウム真理教も一般信者さんは危険とは程遠い、虫も殺さないような「善良そのもの」な人が大半でした。
この事件は、その惨劇と、物質主義から距離をおいた信者さんの生き方と、さらに事件に対するあまりに盲目な社会の反応とに、当時中学生だった僕に様々な衝撃を与えました。
そして、この事件が現代人類の抱える重要な「何か」を浮き彫りにしたものであると感じ、後に高校の自由課題授業のときに「ユートピア」という題の論文にまとめました。
だから僕は、ユートピア=理想郷を求める人々の善意が、いかにして殺人を正当化し、世界を破壊するのかということも、終末思想の行く末がどこまで行っても切り立った崖でしかないことも知っています。

ところで、宗教に入る人、というと「心の弱い人」というイメージがあるかもしれませんが、理解されにくい別の側面として、真面目で真撃な人ほど宗教に入りやすい、というものがあります。
戦争や犯罪が繰り返される社会に悲観し、何故悪が存在するのか?正しい人生とは何か?善きものとは何か?人の生きる道とは何なのか?を真剣に考えた人が、何かのきっかけで宗教と出会い入信します。
「あるべき人の道」について、そんな生きる上で最も大切なことを、先生も親も誰も教えてはくれないばかりか、それを教えるべき大人たち自身が道が解らずに迷っているのです。
そんな大人たちを見て育った迷える子羊たちは、「これこそが人の道である!」と、はっきりと言い切ってくれる宗教の指導者のような人に強く惹かれます。重要なのは、それが「正しいかどうかを別として」なところです。
「信じるべき自分(道)を見失った」人の多くは、自分の人生を預けられる「何か」さえあればそれで良いのです。
ところがほんとは「言い切る」人ほど深い考えを持たず、この世界が物であり心であり、本質的に「あいまい」であることを知らない人なのです。

そして、そんな正しきもの、聖なるものを求めてキリスト教に入信した人たちに対して、キリスト教こそが、自分の忌むべきもの、その源流、張本人であるということをはっきりと申し上げておきたいのです。
人類をあるべき「人の道」から遠ざけておいて、人類全体を「盲目」に「迷い子」に「不幸」にしておいて、「罪悪感」を植え付け、「戦争」を起こし、「終わりに向かう世界」を認識させる。そしてそこに聖なる神の、目もくらむような愛の手を差し伸べる。

この聖書宗教による人類に対する巨大な詐欺の仕組みにはまったく見事!としか言いようがありません。
世の名でカルト宗教と呼ばれているものは、この仕組みのほんの縮小形であり、食べ残し、おこぼれに与っているに過ぎないのです。

僕は身近なクリスチャンの友人や、教会で出会った人たちも、お世辞でなく大好きです。
みんな善意の固まりのような人たちです。
だからこそ、皆さんが惹かれているのはイエス・キリストの教えであってキリスト教会の教えではないこと。間違っているものは間違っている、とお伝えしておきたいのです。


<まとめ~聖書の時代を越えて>

このようにして、唯一絶対の神は、世界を信者と非信者に、敵と味方、善と悪、勝者と敗者とに分け隔てます。
そして、人と人、人と自然とを切り離し、人間を本来の生き方から遠ざけます。

人類が、「自然界そのものが神である」という自然宗教に立ち返ることができれば、目に映る全てのもの(=同じ神の肉体)を奪い合うことの愚かしさを知るはずです。
そして、それはきっと新しく生まれてくる子供たちによって、ごく自然に実行されることでしょう。

では最後に、聖書から人類への隠されたメッセージをご紹介しましょう。
聖書冒頭にて語られる、人類の楽園からの追放のエピソード。
これは実は、同時に楽園への帰り道を示しています。

人類は神に逆らって「善悪を知るものとなった」ことが、人類の罪の原点であることが書かれています。
ではいっその事「善悪を知らないもの」になってみたらどうなるでしょうか?
善と悪、信者と非信者、味方と敵、それらの拮抗する要素は、実は片方が無くなればもう片方も無くなってしまう相対的なものであり、実体のないものです。
そこに引かれている境界線は、人が人の心の中引いているものであって、自然界には存在しない架空のものです。
宇宙から見た地球の、どこにも国境線が引かれていないように。

自然界に善悪の概念はありません。
なぜならすべてのものは繋がった「ひとつ」の中の出来事だからです。
どこにも減るものも増えるものもありません。
だれも損も得もしません。
だから、だれも悩んだり悲しんだりすることもありません。

知恵の実を吐き出せば、人は生きながらにして神の国=楽園に還ることができるのです。




「聖書は神聖、宗教はアヘン」カール・マルクス


「イエスは正しかった、だけど弟子たちがバカな凡人だったんだ。」ジョン・レノン 
―1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のインタビューにて


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「仏教は文明が発達して終わりに向かい、退屈した状態から生まれた宗教ですが、キリスト教はいまだに文明にたどり着いていないのです。」p,53より。西洋=キリスト文化をニーチェが歯切れよくぶった斬る!




表紙がアレなので、ただの批判本かと思いきや、キリスト教が科学や哲学や人の価値観にどのように影響を与え、そして停滞、衰退させたかを具体的に解説、キリスト教以前のヨーロッパの文化、宗教観がどのようであったのか、本来の宗教、神の意味、人の生きる道についてまで解説のおよんだ良著でした。現在出版されているものは「キリスト教暗黒の裏面史」に改題され、表紙も変更されています。




この「徹底図解」シリーズは大好きです。オールカラーで見やすく解りやすい!



『ツァイトガイスト(時代の精神)』日本語字幕付き<第1部>
<1-1>http://www.youtube.com/watch?v=-_eLaY-fQgE&feature=player_embedded#at=11
<1-2>http://www.youtube.com/watch?v=slFLPC_Xtt4&feature=player_embedded
<1-3>http://www.youtube.com/watch?v=nyGGjIyE4NQ&feature=related
Peter Josephによる2007年のドイツのドキュメンタリー映画。



Wikisourse:旧約聖書(口語訳)http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8

Wikisourse:新約聖書(口語訳)http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8




「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
イエス・キリスト ―新約聖書マタイ15:14より、ユダヤ教の指導者たちを批判して



(神の国、アメリカの正義 終)



神の国、アメリカの正義<2/3>

2011-05-27 23:03:36 | うらちゅう
前回までの記事
神の国、アメリカの正義<1>

<キリスト教とは何か?>

アメリカでは大事な取り決めをする時、裁判所で証言をする時にも、戦争を始めるときにも聖書に手をあてて神へ誓いを立て、祈りを捧げます。
アメリカ国民のおよそ7~8割はクリスチャンであると言われています。
そんなアメリカにおいてクリスチャンであることは、神を信じる、信じない、という以前の社会人としてのモラルであり、日本人が正月に神社にお参りに行くことや、お墓を購入して骨を納めるのと同じような感覚です。
だから、アメリカで「あなたの宗教は何ですか?」という質問があるときにはそれは宗教の種類ではなく、キリスト教の何の宗派か?という質問であり、「いや、自分は無宗教なんで…」とか答えようものなら人格を疑われますし、ましてや他の宗教の名前を出したりすれば、その後の円滑な会話の進展は望めないでしょう。
そんなアメリカ文化の背骨となっているキリスト教、その経典である「聖書」にはどんなことが書かれているのでしょうか?

では、ここで聖書冒頭部分「創世記」より第1章~第3章までを引用してみようと思います。
少し長いですが、聖書宗教と、それに付随する文化のすべてのルーツとなっている重要な部分ですので、ゆっくりじっくり読んでみて下さい。

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旧約聖書 口語訳 

『創世記』

第1章

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第三日である。
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第四日である。
神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
夕となり、また朝となった。第五日である。
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

第2章

こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

第3章

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。


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さて、このつっこみどころ満載の冒頭部分からは実に様々な意味を見出すことができますが、ここではキリスト教の原点としての創世記について要約して書きます。

聖書によれば、人類とは、かつて天国の楽園にいたものが、神様に逆らって「知恵の実(善悪の実)」を食べたことで地上に「落とされた」存在で、人類の存在そのものが「罪」であり、地上での生活を「罰」だと考えます。
さらに重要なのは、人間は神に似せて造られた生き物で、地上全ての生き物の支配者であり、自然界の上位種であるという考え方です。つまり、この世界は「神→人間→自然界」のピラミッド構造になっているという考え方です。
彼らは小さな頃から、神様とは雲の上にいるもので、つまり、地上には神はいない、と教えられて育ってきました。

そしてキリスト教とは、神の御子であるイエス・キリストが人類の代わりに十字架で磔刑になることで人類の生まれながらの罪(=原罪)が赦されたと考え、イエス・キリストを、神の子であり、救世主であると信じ、教えを守ることによって、自分自身の生まれながらに持つ罪と、生きている間に重ねてきた罪が赦されて、死後に神の支配する楽園、天国に戻ることができる、という考え方の宗教です。

一般的な日本人の感覚からは信じられないかもしれませんが、これはごく一般的なキリスト教信者の基本的な考え方なのです。書店や、ネット上で「キリスト教入門」等の著作物に目を通してみてください。
あの大統領も、世界的に有名なミュージシャンも、映画監督も俳優も、みんな小さい頃からこの様な世界観の中で育ったクリスチャンなのです。

(なぜ、聖書の神さまのような厳格な神様が生まれたかというと、聖書の舞台となっている砂漠において、太陽や自然界がそこで生きるものに「恵み」よりも「試練」を与え、乗り越えるべき存在であったことに由来すると考えられます。)

さて、この「信じるだけで誰もが救われる」という宗教は、一見すると、とても寛容で、素晴らしいように見えますが、この「信じる者は救われる」を確実なものにする為には、そのコインの裏面として「信じない者は救われない」を必要とします。
実際聖書には繰り返し、不信仰者や、他の神さまを信じるものには不幸が訪れ、死後には地獄に行く、と説かれ、教会でもそのように教えられます。

このことが「信者」と「非信者」とを隔てる見えない壁となり、「信者=神に選ばれし者」という選民思想につながり、世界中で今も続いている宗教紛争、戦争の原因となっているわけです。
なぜなら聖書によれば「神が味方につけば必ず勝つ」のであって、これは逆算して勝利こそが「神の民」であることの証明になるからです。

さらに聖書宗教において、極めて重要な要素となっているのが「終末思想」です。
「終末思想」とは、いつか世界に「終わりの時(=審判の時)」が来て、神に選ばれたものだけが生き残り、楽園に住むことができ、それ以外の不信仰者や他の神を信じているものは、この世のありとあらゆる苦しみを受けて死んでゆき、さらに永遠の地獄へと突き落とされる、というもので、こんなはっきり言ってカルト思想以外の何物でもない代物が、新約聖書の「ヨハネの黙示録」などにも堂々と書かれています。

これによって、「終わりの時」を待ちわびる信者と、それをベースに作られたのが西洋近代文化と国家「アメリカ」なのです。
この「終わりの時」という概念は、それがあることによって、繰り返される単調な一日一日の人生が、「聖なる日」へと向かう、意義ある緊張感あるものに豹変するという効果があります。
そして、いつ来るかわからない「終わりの時」への恐れが、組織に対して従順な善き信者を生み出すことは言うまでもありません。

旧約聖書では、先程の引用の後、人類最初の兄弟同士の殺し合いに始まり、我々日本人の感覚からすれば目も当てられないような残酷なエピソードが延々と続きます。
血を分けたもの同士で殺し合い、騙し合い、裏切り合い、他の神を信じるもの=他民族を殺戮、殲滅し、ひたすら土地を奪う。
なるほど、アメリカの歴史がその建国以来絶えず他民族への侵略、戦争の歴史である所以がここにあったわけなのです。
そしてそれらは、単に聖書に書かれていることの再現であり、神の民としての当然の行動なのです。
彼らにとっては、全人類のキリスト化こそが正義であり、救済であり、神から与えられた使命なのです。

参考リンク:アメリカ合衆国の戦争の歴史http://machidaheiwa.fc2web.com/tokushyuu/1war/us-history.html


そしてその「人類がいかに愚かで汚れた、罪深い生き物であるか」を伝える流れは新約聖書へと引き継がれます。
このようにして聖書は、「罪悪感」と「人類の不幸」に苛まれた「神の救い」を必要とする善きキリスト者を生み出します。
イエスの教えは「隣人愛」である、と、対外的には宣伝されていますが、実際新約聖書を読んでみれば、「隣人愛」に関する記述はごくごく一部であり、そして実は、この「隣人愛」も本来ユダヤ教の教えであって、イエス・キリストが(旧約)聖書の言葉から引用したものに過ぎないのです。
残念ながら、キリスト教会の教えの本質は、隣人をキリスト者と、そうでないものとに分かつことにあります。

続く…


神の国、アメリカの正義<1/3>

2011-05-27 23:01:16 | うらちゅう
先日ビン・ラディン容疑者が、アメリカの特殊部隊によって殺害されたらしいことが報道されました。

一国の作戦による「容疑者」の「殺害」、そして大統領による「正義は遂行された」の発表に歓喜する国民。
と、ちょっと我々日本人の感覚からはピンとこない出来事かと思います。
そもそも日本人は、今現在世界中で起きている戦争、紛争のほとんどが宗教がらみであることも、それら諸宗教が何故対立し合っているのかもよくわからない、という人が大半だと思います。

それは日本人が、世界最大規模にして、西洋文化の背骨となっている宗教と、その経典である「聖書」から縁遠いことにあります。
つまり、日本人は聖書文化としての西洋文化、宗教国家としてのアメリカについて全く無知なのです。

「聖書(ヘブライ語聖書=旧約聖書)」をルーツに持つ3つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者数を合わせると世界人口の半数を超えると言われています。中でも、「世界の警察」たるアメリカではキリスト教が国教であり、国民の7~8割がクリスチャンであると言われています。そんな聖書を軸にした世界情勢と、今後の動向を、聖書抜きに理解することはできません。

別にアメリカだけ、キリスト教だけを悪者呼ばわりするつもりは無いのですが、アメリカ傘下にある日本では一般的に「イスラム教=暴力的で後進的」、なイメージがあり、キリスト教に対しては「まあ、関わるつもりはないけど、悪い宗教でもなさそうだ」というようなイメージが浸透しているかと思われますので(友人も入信してしまった)、あえて、です。

と、いうわけで、アメリカの言う「正義」とは何か?戦争と環境破壊の人類近代史の根底には何があるのか?
世界で一番有名で、日本人が一番知らない世界の真実、「聖書」の世界をほんの少しだけ覗いてみましょう。

====『宗教』を語る前に=============================

ところで、日本語の『宗教』という言葉の中には、実に様々な意味合いが含まれています。
あらゆる宗教の原点でもある「自然界そのものが神である」という宗教でない宗教=「自然宗教」もあれば、それらをルーツに、政治的な要素が絡んで発展、形成されたものや、特定の人物によって開かれた「人工宗教」もあり、そこにはっきりとした線引きはできません。
また、『宗教』には自己を鍛練し、神仏の領域にまで高める、という「修行型宗教」や、自分以外の誰か、あるいは何かを特定の「神」「教祖」とし、信者になることで「救い」の恩恵に与ったり、その教えに従って生きることで安らぎを得る「依存型宗教」もあり、多くの場合はそれらは複合体となっており、そこにもやはり線引きはできません。
特に、入口は「修行」「自己鍛練」であってもいつの間にか「依存」になってしまっている場合が多く、それが大抵の宗教トラブルの原因になっています。

このような多様性から、宗教を話題にするには腰を落ち着けて、「ことの起こり」からゆっくりじっくり話さなくては大変ややこしいことになりますが、その時間ができるのを待っていたらいつになるかわかりませんので、とりあえず今知っておくべきだと思うこと、「聖書」と「キリスト教」について、ほんの少しだけ書いてみようと思います。

尚、それがどんな正論であったとしても、宗教に関わるとロクなことになりません(宗教組織と、信者さんにとって正論かどうかは問題ではない)ので、くれぐれも、ここで見聞きした事は自分の胸の内に秘めて、人に話したり、おおっぴらに批判したりしないようにすることをご忠告しておきます。

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<聖書とは何か>

聖書=ヘブライ語聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界三大一神教が、共通して聖典として認めています。
一神教とは、この宇宙は、唯一絶対の神によって、すべてが創られ、動かされている、と考える宗教で、他の宗教、他の神様の存在は絶対に認めません。
それに対して、世界が様々な神の共同作業によって統治されている、と考えるものは多神教と呼ばれています。
ちなみに、万単位の人類文明史においては、この一神教という考え方は極めて新しいものであり、西洋においても、また世界のどの民族においても、その悠久の歴史の中で自然現象由来の多神教文化でした。
僕らはたまたま一神教文化花ざかりのレアな時代にいるとも考えられます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、多神教=平和的、ではないということです。
多神教文化同士でも、神の解釈や、教義の違いなどによって、争いは絶えず起こっています。

日本で聖書というとキリスト教の経典としてのイメージが強いですが、実際には聖書はもともとユダヤ教の経典です。
キリスト教では、ユダヤ教聖書に、その続編としての「新約聖書」を加え、ひっくるめて「聖書」と呼んでいます。
この新約聖書の「新約」とは、ユダヤ教聖書の時代において交わされていた神との契約が、イエス・キリストによって更新され、新しく約束し直した、という意味の「新約」で、それに対してキリスト教ではユダヤ教聖書のことを旧い約束の「旧約聖書」と呼びます。

ユダヤ教は非常に戒律の厳しい宗教なのですが、それら煩わしいことを一切取り払って、ただ「信じれば救われる」と、シンプルにお手軽に、誰にでも入信しやすく改良することによって、砂漠由来の民族宗教でしかなかったユダヤ教を、一躍世界宗教へと大展開することに成功したのです。
ただ、これはユダヤ教徒にしてみたら、一度交わした神との契約が「更新」されるなんてもっての他!
割礼(男性器の皮を切ること、実際に疫病を防ぐ等の効果がある)はしなくていいし、安息日に遊んでもいいし(6日働いたら、7日目は祈りのために休まなくてはいけない。安息日には大小36にも及ぶ基本的生活の禁止事項がある)、肉も何でも食っていい、それでいて今や本家であるユダヤ教を差し置いて、世界を我が物顔で蹂躙!
さらに、キリスト教とは、イエス・キリストがユダヤ教の司祭や権力者を批判することで生まれた宗教であるために、キリスト教徒から見たユダヤ教信者は憎悪と軽蔑の対象。しかも、ユダヤ人はあろうことかイエス・キリストを裏切って殺した犯人にされてしまった。
これではお互いに憎しみ合うのも無理はありません。あるいは、むしろ憎しみ合うように意図してつくられた、と考える方がよっぽど自然です。

もちろん、イエス・キリストがしたかったのはそんなことではありません。
原初仏教について詳しい人が新約聖書を読むと察しがつくと思うのですが、イエス・キリストはブッダと同じように、神の名を権力の道具として使用し、形式だけになってしまっていた宗教組織を批判し、本来の宗教と神の存在、人の生きるべき道を指し示した覚者であり、自分の宗教を作ろうとしていたわけではなく、むしろ人々の心を宗教から解放しようと活動した人だったと考えられます(歴史的事実として、キリスト教も仏教もイエスとブッダの死後、弟子が作った宗教です)。

このように、イエス・キリストの教えからはかけ離れ、むしろユダヤ教を堕落させ、強力にしただけのキリスト教は、「キリスト教」と言うよりは、「新・ユダヤ教」の呼称こそ相応しい、と僕は思います。
宗教組織を批判したイエス・キリストが、その活動から十字架にかけられ、死後、世界最大最強の宗教組織の教祖に祭り上げられるとはなんという皮肉でしょうか!?

そして、そんな堕落した、でたらめの理論を掲げるキリスト教支配に「俺らには俺らの生き方がある!」と、中東から対抗する形で、「神が子を産むとは何事か!タワごとも大概にせい!」と、ムハンマドが神の啓示を受けて始めたのが「イスラム教」です。
イスラム教は一日5回の礼拝や、一年のうち一か月の断食や、特定の肉食の禁止など、「聖書本来の生活の復活」を掲げた部分があり、別の呼びかたをするなら、「真・ユダヤ教」と言えるかもしれません。

そして、キリスト教もイスラム教も、互いに自分達の神こそ本物である!と、一歩も譲らず、その闘いはどちらかが滅びるまでは永遠に終わることがありません。
まあ、どちらにせよ、本家のユダヤ教からしてみれば後出しジャンケンの「偽物」であり、それでいてどんどん信者を増やしていっているのですから「困った邪教」ということになるでしょう。

以上3つの聖書宗教の経典をまとめると、

ユダヤ教:聖書+タルムード
キリスト教:旧約聖書(=ユダヤ教聖書)+新約聖書
イスラム教:コーラン(クルアーン)+ハディース

という感じになります。
それぞれ『タルムード』はキリスト教が広まるようになってから司祭によってまとめられた「聖書には記されていない、口伝のみで伝えられた神の言葉」という名目の「第二聖典」であり、『新約聖書』は、旧約聖書で予言されていた救世主、イエス・キリストの行動と言葉と弟子たちの活躍をローマ=キリスト教会がまとめたものであり、『ハディース』はムハンマドが受けた神の啓示を信徒がまとめた『コーラン』に対して、ムハンマド自身の言葉や行動をまとめたもので、それぞれ第二聖典は後付けでコロコロ内容が変わりながら形成されていったもので(故に矛盾する記述も多い)、時代と共にオリジナル聖典の教えからは切り離され、第二聖典こそ「真の神の言葉である」ということになっていきます。

なんだか子供のケンカみたいですが、実際これで毎日人が殺し合いをしているのだから笑えない茶番です。

続く…


太陽を食べる男 ヒラ・ラタン・マネク氏

2011-04-20 08:34:01 | うらちゅう

僕はある時、自分の内側に広がる世界(心、精神)と、自分の外側に広がる世界(物、現象)が同じものなんだ、ということに気がつきました。

そして、その考え方によれば、果たして人間がわざわざ食べ物を食べる、という行為は何の為にあるのだろう?ひょっとしたらエネルギーそのものを取り込むことができれば、食べなくても生きていけるのではないか?と、思っていたところ、本屋さんで「奇界遺産」という本を見つけ、実際にそれを実践している人がいることを知りました。

以下、「奇界遺産」を出版しているX51.ORGというサイトからの転載です。

引用元サイト:http://x51.org/x/03/06/3049.php

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<太陽を食べる男 NASAが研究へ>



【AFP】8年間、水分と日光だけで生きていると主張するインドのヒラ・ラタン・マネク氏(64・写真)がこの度NASAに招待され、彼がどのようにしてそれを成し遂げているかを紹介することになったとのこと。氏はケララ南部に在住する機械エンジニアで、1992年から断食を開始し、1995年にヒマラヤに巡礼に出かけた帰り道から断食をスタートしたという。彼の妻Vimlaさんは「彼は毎朝必ず太陽をまばたきせずに一時間ほど凝視するの。それが彼の主食なのよ。たまにコーヒー、お茶とか水分を取りながらね。」と話している。そして昨年6月、米科学者らは氏が確かに130日間日光と水分だけで生きていることを確認し、科学者らはこの現象を氏の名前にちなんで"HRM現象"と名づけている。NASAは氏のもつ特異な才能が宇宙探索における食料保存の問題に何かしらヒントを与えるのではと期待しているという。

【追記】日光研究者にしてと機械エンジニアのヒラ・ラタン・マネク氏(66)が411日間に渡る完全な断食を成功させ、科学者らを驚かせている。氏は1995年から96年にかけ、211日間を水のみで過ごし、その後2000年から翌年にかけてはインド医療協会(IMA)の21人の医師らによる24時間監視体制の下で411日間、そして2001年には氏の能力に興味を示したアメリカ航空宇宙局(NASA)からの招聘を受けて米国に赴き、科学者らの前で130日間の断食に成功しているのである。

マネク氏によれば、氏は本来人間が食物から得るべきエネルギーは、全て日光から得ているという。そして現在、氏のこうした能力は科学者らによって"HRM現象"と名づけられ、研究が行われている。

「マネク氏の脳を活性化させた状態でスキャンを行いましたが、脳神経は非常に活発で、通常50歳代の男性に見られるような松果体の収縮が見られませんでした。また通常、その年代の松果体の平均的な大きさは6mm x 6mm程ですが、マネク氏の場合は8mm x 11mm程もあったんです。」氏を研究している科学者はそう語っている。

マネク氏によれば、日光から得られるエネルギーが氏から心身の疾病を遠ざけ、幸福と活力を与えているとし、この方法においては人は決して意識的な断食を行うのではなく、日光エネルギーによって空腹が遠ざけられるため、むしろ結果的に断食を行う形になる、と説明している。

「この方法は人間が本来持っている力を目覚めさせ、脳を快活にさせます。実際、歴史上には多くの不食の人々がいます。また実際に英国の王立医学院は日光が人間に理想的なエネルギーを提供するということを発表したこともあります。また実際の断食に当たっては、ジャイナ教、そしてヒンドゥー教の古い聖典を参考にしています。今日、我々は日光の悪影響ばかりに注目し、それをあたかも敵であるかのように避けようとしています。しかし、実際のところ人間の様々な困難は日光エネルギーの不足によるものが多いんです。太陽からエネルギーを得るのは簡単です。太陽をしっかりと凝視して、そのエネルギーを脳に直接送り込むんです。目はいわばエネルギーを得る口となるわけです。」マネク氏は語った。

そして現在、氏はさらにそうした手法を洗練させ、今では地球に吸収された日光のエネルギーを地面からも得ているという。「裸足で外を歩くことが、目から日光を得ることの助けになります。これはまた体内の諸所の内分泌活動と、特に松果体、言われるところの「第三の目」の活動を助ける役目を果たします。それから日光を見ることは早朝、そして夕方がよろしいでしょう。夜明け、そして夕暮れのそれぞれ一時間前くらいが丁度いいと思いますね。それに日光をただ見るだけでも人間はビタミンAとDを得ることが出来ます。」

マネク氏によれば、現在世界中には3000人程の日光を食べる人々が存在するという。「彼らは世界中にいますが、これはかつて、遠い昔に失われた科学の再生です。食物を必要としない、新たな食事です。本来この手法はかつて精神的な修行の一部として行われていましたが、これは全く科学的な手法なんです。誰にだって行うことが出来るものです。」

そして彼はその言に違うことなく、米国のジェファーソン大学、そしてNASAの科学者らの前で見事にその手法を実践してみせたのである。現在、世界には65億とも言われる人口がひしめき、食料の枯渇は深刻化するばかりである。

「太陽を食べること」 - それは人類を救う究極の手段となりえるのだろうか。

Posted by : X51 | 2003年06月30日 13:47

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同サイトより、関連記事です

何も食べず、何も飲まない人々 - 人は不食で生きられるか
http://x51.org/x/05/01/1506.php

↓こちらはマネクさんのYoutube動画と、その要約だそうです。

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Solar Gazing with HRM; Part1


マネク氏(HRM)の要約です(Sun Gazing Man)
上のYouTubeは英語(それもインド人なまりのクセのある)で語られていますので理解が難しいですね(笑)。 彼の語っていることを以下にまとめてみました。

太陽光線は全ての生物の生命維持エネルギーの元

植物は光合成によって太陽光線をエネルギーに変換して溜め込む

動物は植物を食べることによって太陽エネルギーを間接的に体内に取り込む

結局、生物は直接、間接を別にすれば、太陽エネルギーを食べて生きる

我々は誤解しているが、実際は光合成にはクロロフィル(葉緑素)を必用としない、それが必要なのは植物だけである。 人体は違う媒体を使ってそれをする。 

光合成は太陽エネルギーを使用できるエネルギー形態に変換する。 これで光電子が働き、電気が作られる。 こうやってできた電気によって生命活動は営まれる。

人間と植物とは違うやり方で光合成が可能である。

今日、なぜか太陽の悪影響ばかりが強調されている。 現代人はそれがあたかも敵であるかのように太陽を避けている。 しかし実際のところ人間のさまざまな困難は太陽エネルギーの不足によるものが多い。 よく言われることは、網膜剥離になる、皮膚がんになるというものです。

太陽からエネルギーを得るのは簡単だ。 太陽をしっかりと凝視してそのエネルギーを脳に直接送り込めばよい。 そういう意味で目はエネルギーの取り入れ口。

太陽凝視の方法
太陽を凝視する時間帯が大切です。 日の出から1時間まで、もしくは日没の一時間前。 その時間帯であれば太陽の有害な紫外線などの悪影響を受けることはない。

太陽の凝視は徐々に達成すること:

第一日目 10秒

第二日目 20秒

第三日目 30秒

つまり10日後には1分40秒になり、九ヶ月後には44分になります

太陽の凝視はこの44分をマックスとします

そして、裸足で地面の上を歩きます 

これも約45分ほどをマックスとします

太陽凝視のメリットをまとめてみると以下のようになります:

精神的緊張や心配、恐れがなくなる
   ⇒ うつ病の症状が消える
   ⇒ 死の恐怖がなくなる

健康になる

マイナス思考が消えうせる

何事にも自信をもって行動し始める

失望感、怒り、貪欲、妬みなどが消える

だれもが貴方をすきになり、慈悲深い人間となる

世界平和に貢献するようになる

意識レベルが格段に上がる
 

<日光浴より、太陽を凝視する>
 
実際、歴史上には多くの不食の人々がいます。また実際に英国の王立医学院は日光が人間に理想的なエネルギーを提供するということを発表したこともあります。  また実際の断食に当たっては、ジャイナ教、そしてヒンドゥー教の古い聖典を参考にしています。

太陽からエネルギーを得るのは簡単です。 太陽をしっかりと凝視して、そのエネルギーを脳に直接送り込むんです。

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とのこと、夏場に食欲が無くなるのも理にかなっているのかもしれませんね。

(真偽に関しては個人の判断でお願いします)

うらちゅう

ひっそり師走入り

2011-01-03 16:14:01 | うらちゅう

世間的にはHAPPY NEW YEAR!!なこの時期ですが、僕的には全然年が明けたような気分になれず、実に盛り上がりにかけております。

というのも日本の本来の暦の上では明日が師走入り、やっと12月です。
これから「小寒」「大寒」と、一年で一番寒い季節がやってきて、それを乗り越えたところが本来の日本の年明け。春の訪れです。
今年から畑をやるようになって、季節のリズムを肌で感じるようになって、このタイミングでの年明けの不自然さを痛感しており、少しさみしい気分です。

別に旧暦を公に復活させる必要はないとは思いますが、少しずつ本来の日本の暮らし方を個人レベルで復活させていけたらなと思います。

というわけで、ほとんどの日本人に知られることなく、明日はひっそりと師走入りです。

http://www.lunaworks.jp
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