上野裕之の実践ブログ

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放射線に立ち向かった人たち

2009-10-18 05:34:58 | Weblog
教科:道徳
対象:中学生


 レントゲンがX線を発見して以来、放射線の技術は進歩してきた。現在も医療分野を初め、様々な場所で放射線が使われている。
 一方、放射線は人体に害を及ぼす。放射線障害といえば、原爆による被害が有名だが、最初に放射線障害を受けたのは、科学者や放射線科の医師や技師であった。
 キュリー夫人を初め、放射線障害で亡くなった科学者は多い。日本では永井隆博士が有名である。彼らは放射線の害を受けながらも、多くの人たちのため、研究、治療を行った。その結果、放射線により多くの人の命を助かることになったのだ。
我々は先人の命をかけた努力を忘れてはならない。
 また、放射線は害を及ぼすだけでなく、ガン治療などで命をとりとめる人も多い。やみくもに怖がるのではなく、正しい知識を持って活用することが大切であることを教える授業である。

授業サイトが必要な方は、上野裕之(ha_ueno@ybb.ne.jp)までご連絡ください。
(@を大文字にしています)


発問1 放射線の歴史について勉強します。
    1895年 ドイツのレントゲン博士が□線を発見した。
    □に入る言葉は何ですか。
  「X」である。有名なレントゲンの妻の手のX線写真を見せる。

発問2 1896年 ドイツのベクレル博士がウランから□□□が出ているのを
          発見した。
    □に入る言葉は何ですか。
  「放射線」である。

発問3 1898年 放射性物質 ラジウムを取り出すことに成功
          物質が放射線を出す能力を「放射能」と命名
          □□□□夫人
    □に入る言葉は何ですか。
  「キュリー」である。

発問4 最初にX線を活用したのは医療分野です。病院にX線科ができたのは
   X線発見の何年後でしょうか。
   ア 2年後  イ 4年後  ウ 8年後
 2年後である。放射線の歴史を紹介する。

説明1 その後の放射線はガンの治療などにも用いられるようになりました。
   現在も幅広く行われています。 

説明2 3人はノーベル賞を受賞しました。中でも、キュリー夫人は2回も受賞しました。

キュリー一家(妻マリー、夫ピエール、娘イレーヌ、娘婿フレデリック)を紹介する。説明3 キュリー夫妻の一家は4人が放射線を研究し、ノーベル賞を5つも受賞しました。

発問5 しかし、良いことばかりではありません。キュリー夫人と娘イレーヌは白血病にかかり亡くなりました。白血病になった原因は何でしょうか。
 「放射線を浴びたから」という意見は出るはずである。

「放射線障害」について説明する。
説明4 放射線も一定以上受けるとガンなどの病気になってしまいます。

説明5 キュリー夫人や夫のピエールが放射線障害に苦しんだことが当時の記録に残っています。
※伝記などに詳しく載っている。私はピールの手紙「妻はひどく疲れている。特に病気というわけではないようだが」や、ピエールが足が痛み何日もベッドから起き上がれなかったり、手が痛んで字を書くことができないことなどを紹介した。
 当時放射線研究を行っていた科学者の多くが放射線障害に苦しみ、そして亡くなりました。

発問7 なぜ、科学者達は放射線障害に苦しみながらも研究を続けたのでしょうか。
 1 危険を覚悟で研究を続けた。
 2 放射線の危険性がよく分っていなかった。
挙手で確認する。
正解は2番である。

説明6 当時は放射線の危険性がよく分っていませんでした。例えば、現在では放射性物質を扱うときはこのような防護服を着ますが、当時は普段着で実験を行っていました。また、放射性物質をポケットに入れて持ち歩いたり、中には放射性物質を飲んで見せる人もいたそうです。

説明7 ドイツ・ハンブルグには、放射線障害で亡くなった科学者・医療従事者の記念碑があります。

説明8 日本人にも放射線障害で亡くなった人がいます。

永井隆博士の写真を提示
発問6 誰だか分る人?

永井博士について紹介する。
説明9 永井隆博士。長崎の医者です。原爆に被爆、白血病に冒されながらも被爆者の医療活動に力を尽くし、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書で知られる「平和の詩人」です。

発問7 永井博士はなぜ、白血病になったと思いますか。
「原爆で被爆したから」「わからない」等の反応があるだろう。

発問8 被爆したのは、原爆投下の前です。永井博士は放射線科の医者でした。
分った人?
「放射線を浴びた」等の意見が出るだろう。

治療の時に多くの放射線を浴びたのです。
当時はこのような医者がたくさんいました。
 
発問7 なぜ、医者達は放射線障害に苦しみながらも研究を続けたのでしょうか。
 1 危険を覚悟で研究を続けた。
 2 放射線の危険性がよく分っていなかった。
正解は1番である。

説明10 一定量以下なら放射線を浴びても安全であることが分っていました。
「ある一定量以下の放射線を受けるに
過ぎないならば、いくら長く勤めても安全である。その一定量とは、毎日連続で、
一日量0.2レントゲン単位である。」(永井隆「この子を残して」より)
※0.2レントゲンは2ミリシーベルトにあたります。
人が1年間に受ける自然放射線が1.48ミリシーベルトです。


説明11 しかし、当時は戦時中。少ない人数で多くの患者を診ないといけませんでした。
「働いていた時間は毎日10時間。
1日0.2レントゲン単位をずいぶん上回る放射能が私の肉体に打ち込まれていた」

発問8 時代はさかのぼり第一次世界大戦。たくさんの兵士が車の回りに集まっています。この車は何の車でしょうか。
レントゲン車である。

発問9 このレントゲン車により、多くの兵士の命が救われました。レントゲン車を創ったのはこの人です。誰でしょう。
キュリー夫人である。

説明12 現在も多くの人が放射線により命を救われています。しかし、その陰で科学者や医療従事者の尊い犠牲があったことを忘れてはならないのです。