江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

6)ゴメンナサイ

2005年05月11日 | 江利チエミ(初期記事・本編)

昭和27年1月23日...いち・に--・の---・さん!っていうゴロのいい日にテネシーワルツ/家へおいでよ が発売されました。
それから続々とヒットを飛ばします。
そして翌年の昭和28年3月、招待をうけ江利チエミは初渡米を果たします。
3/26 ロスアンゼルス/日本劇場の4日間公演を皮切りに、4/1にはハリウッド「パレディアム」での白人対象のステージでの公演も勤めます。木琴の平岡養一さん以外には入会が認められていなかったミュージシャン・ユニオンにも入会を許可され7000人の聴衆を前に見事ステージを果たします。伴奏も超一流の「ハリー・ジェームス楽団」で、歌った楽曲は「サイドバイサイド」「カモンナマイハウス」「上海」...全て本場の英語の曲を選曲しています!!(カッコイイ)

そしてなにより1番の功績は...
当時アメリカでも流行していた、進駐軍のGIさんと日本人娘とのラブ・ソング「ゴメンナサイ」と「プリティアイドベイビー」をキャピタルレコードで録音...ラジオのヒットチャートに入るという偉業をなしとげたことです。
この渡米からの帰国語のインタビューが、昭和28年8月のキング誌に掲載されています。
そこから興味深い部分を抜粋します。

レコーディングの事...
>練習は非常に厳格で五・六十回も練習しましたでしょうか...本当にくたくたになるまで只一生懸命歌いぬいたという気持ちでした。吹き込みはテープレコーディングでした。

このとき江利チエミは16歳になったばかり。
彼女の「ともかく一生懸命」は生涯変わることのないスタンスでした。


さてこの「ゴメンナサイ」...リチャード・パワーズ盤が日本では発売されていましたが、チエミ盤は晩年30周年の記念の「NICE TO MEET YOU」に収録されるまでキングレコードから江利チエミ盤は発売されませんでした。
猫なで声でニッポン娘に媚を売る白人GIの曲...独立を果たした日本での発売には「躊躇」があったのかと推察されます。B面の「プリティ・アイド・ベイビー」のみ発売されました。

しかし、このチエミのゴメンナサイ...は、同い年のライバルに大きな影響を与えました。
美空ひばりが「ソバソング」として進駐軍キャンプ内で流行っていた歌を「チャルメラそば屋」と改題してリリースします。
 ♪みなさん オソバはいかが?? お馴染みチャルメラ娘...という曲調はC&Wのものです。
余談ですが、チエミデビューの頃まで(伴奏の影響もあるのですが)ひばりのリズムの取り方は「表打ち」です。ところがジャズブーム・はじめてのライバル江利チエミの登場で俄然リズムの取り方を勉強したのだと...裏打ち の ジャズのり が出来るように進歩します。
※ゆえに流行歌に ウラウチ というリズムの取り方をもってきた日本人のパイオニアも江利チエミといえると思うのです。 笠置さんもジャズを歌いました。池真理子さん、暁テル子さん...この方々もオモテウチに聴こえます。(もちろん本格ジャズのナンシー梅木・笈田敏夫さんはいましたが、ニッポン語ちゃんぽんを前面に押し出して歌ったりはしなかった...ですしレコード的なヒットは果たしていません。)

また、この28年デビューの雪村いづみさんもGIの軍人さんとのデュエット「ママさん」をリリースしていますが、この楽曲も彼女のディスコグラフィーには掲載されていません。

ヤンキーゴーホーム...微妙な時代背景が見え隠れします。

さて、話はチエミ最初の渡米にもどります。
彼女は大ファンだったケイ・スター(チエミのカモンナマイハウスの手本はローズマリー・クルーニーではなくケイ盤です。)、エラ・フィッツジェラルド...数々のスターと対面しています。
キング誌にも 照れ隠し か、はっきりと記載はありませんが、おそらく通訳ナシで会話をされたとおぼしき記述があるのです。
トテモ親切で素敵な人だったと感想を語っています。同じパレディアムのステージにたったフランキー・レインの会場とのやり取りや、会話...克明にレポートをしています。
16歳の少女...恐るべし です。
ケイ・スターと随行した父君の通訳をしている場面もスナップで掲載されています。

そして、西海岸でのスケジュールをこなした後、チエミさんはハワイに1ケ月滞在します...
インターナショナル・シアターなどに出演します。また、ホノルル国際劇場にも出演。松竹オーケストラの伴奏でショーも大好評...先に25年渡布した美空ひばり公演よりも興行成績はよかったとか...
その後チエミさんは、翌29年「ハワイ珍道中」ロケで再渡布。昭和36年、第9回桜まつりの「EAST SHOW」に出演。37年には「咲子さんちょっと」のテレビロケもありました。

そのハワイでは「デルタ・リズムボーイズ」との出会いが待っていました。
なかでもテナーのカール・ジョーンズ氏が彼女を妹のように可愛がり、数々のレッスンを施してくれたとか...生涯「センセー」「Yes,デシチャン」と呼び合う間柄となります。
帰国後の凱旋コンサートはデルタも共演という企画になっていました。
大阪では「オープンカー」でのパレードも行なわれた...ということです。
※この出会いには、日本ではまだ無名に近いデルタを日本で売る...といった興行的な意味合いもあったようです。

この帰朝後...チエミさんはぐんとスキルアップをしています。

この時羽田に迎えたのは、ペギー葉山・松島トモ子 そして想い出のワルツを吹き込んだ、今度はチエミにとってのライバル...雪村いづみが待ち受けていました。
チエミは長兄で付き人的存在だったトオルさんからの電話をハワイでうけます!
「チーちゃん 思い出のワルツをビクターから出す新人が居る...ってよ!」と。
「雪村いづみってどんな娘?」と、内心は穏やかではなかったはず。

裕福な家庭に育ったものの戦後父の自殺(事件に巻き込まれた...米人による他殺説もある)、母の事業の失敗・病気で生活が困窮。名門・駒場高校に合格するも定期券も買えない...将校さんの家のハウスメイドの面接にも「こんなヤセッポチの少女は使えない」と断られ...失意の中「私には1曲英語の歌が歌える」と思いつき、母の友人が支配人をしていたダンスホールを振り出しに、チエミメジャーデビュー後のキャンプ・日劇・・・と短期間にキャリアを重ね、ビクターに入社...といった経歴を持つのが雪村いづみ。
母と弟(のちのロカビリー歌手で転じてボクサー)と妹(のちに歌手)を抱えて一生懸命だった...
羽田出迎えの時にワンピースからシミーズがはみ出ていた...シミチョロ事件がチエミの敵意を消失させたといったことがエピソードとして語られていますが、もっともっと根底のこういった「家族を支えている」部分、そしてなにより「同じジャンルの音楽を愛していた」ことが、生涯の親友として二人を結びつけたのだと思います。
チエミさん・ひばりさん...そしていづみさん。この3人が同じ昭和12年生まれというのは、単なる偶然だったのか...それとも神様のなせる業だったのか...
ひばり・チエミ・いづみの3人娘誕生...は、もうすぐそこまで迫っていました。

米録音のプリティアイドベイビー
  https://www.youtube.com/watch?v=VvyOZ_LNKRo


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