江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

7)涙の母子鶴

2005年05月12日 | 江利チエミ(初期記事・本編)

テネシーワルツのヒットでスターダムを駆け上がった彼女に、主演映画の話が早々にやってきます。
猛獣使いの少女 ...
♪日本の皆さんこんにちは 海を遥々越えてきた 私は 私は サーカス娘の象つかい... 虎の檻のなかに入って「カモン トニー!」と虎を操る猛獣使いを演じます。

その後も、数本の映画に歌って登場するものの、当初はあまり女優業には乗り気がしなかったようです。
そして、大きな役どころとして「ご存知!三益愛子の母物映画」に主演を果たします。
「母子鶴」 主題歌は近江俊郎さんの湯の町エレジーとひばりさんの越後獅子の唄を足して割ったような雰囲気の♪昨日は東 今日は西 流れ流れの・・・というとても暗い「悲劇的なもの」でした。
戦前隆盛を極めたカードマジックの天才女奇術師の三益愛子扮する母は、早くに親をなくし苦学を続ける大学生の夫の成功を夢見ながら2女と自分の母を含めた生活をささえていた。
しかし、夫の成功もつかのま、戦争・・・二人の仲は引き裂かれ、あろうことか長女の行方も・・・
戦後、すっかり落ちぶれた奇術師は、唄のうまい次女(チエミ)を伴い娘の歌う曲のギター伴奏をつとめながら温泉場を流しとして渡り歩く... ところが偶然に立ち寄った伊豆の別荘地で、長女(若尾文子)をひきとり新しい妻と裕福な暮らしをしている夫に再会...チエミも夫宅にひきとられるものの、母恋しと家を飛び出し、母が舞台にたつ浅草へ...「アタシはやっぱり芸人!お母ちゃんの子」...で【完】

アイドル路線+チエミさんの生い立ちともすこしかぶる「お泪頂戴もの」です。
この主題歌を歌うチエミさんはノリが悪い。
もう1曲劇中歌に「ワンダフル娘」というのがあります。
こっちは ワンダフォーワンダフォー...とノリ良く歌うシーンがあります。
当時のチエミさんにとっては(淡谷のり子さんではないですが)貧乏くさい暗い演歌調の作品は、「歌いたくない!」...と思っていたに違いない!と思うのですが。

後年、ひばり・チエミ初対談となった「週刊平凡・希望対談」でも「芝居」についてこのような会話がされています...
ラジオドラマを演じたチエミの話題で、ひばりが「とってもお上手じゃない!」と感想を述べると、
>こんな声だからなに喋ってるか聞き取りにくいし、お芝居は全くダメ!...ときっぱり答えています。
これは、もちろんその字面通りの部分もあったでしょう。また、一本気な彼女のことですから「唄も芝居もなんてトンデモナイ!」私はジャズシンガーだ!というスタンスもあったと思います。
しかし、そのず----と心の奥底には...
自分の生い立ち云々といった「私的な部分」と「仕事」は、きっちり区別したい!という江利チエミさんの基本スタンスがあったからだと私は思っています。
この公私混同をしないスタンスは生涯彼女の信念だったようにも思えます。

この点が、美空ひばりさんとの 大きな相違点 だと思います。
ひばりさんは自分の生い立ちも不幸も...みなひっくるめて、ある種の公私混同で、すべてを芸の肥やしにして、また自分のデコレーションにしていったと思えるのです。
映画で演じた役どころそのままに主題歌を吹き込む。そしてそのレコードをヒットさせていくというのも美空ひばりの初期のセールス法でもありました。

チエミさんはこういった路線への大きな抵抗があったのでは?と思うのです。
ゆえに「歌で勝負したい」と。彼女の足跡を振り返ったときに、デビュー直後からの出演映画本数はひばりさん・いづみさんに比べて非常に少ないのです。
また、こういった「ヒロイン的」な役どころは「照れ屋さん」だったから嫌いだったのだと思います。

新東宝の総天然色映画第一弾「ハワイ珍道中」でも、喜劇でありながらチエミさんの役どころは父親(花菱アチャコ)と生き別れた娘役で、少女歌手として成功して父の移民したハワイで再会...というもの。
この時のチエミさんも精彩がないのです。
歌も♪なびく柳にリボンが揺れる あの子可愛いや 花売り娘...という「チエミの花売り娘」というもの。どうも「乗れないな----」っていう感じで歌っているように思えます。
「私はジャズ歌手!こんなお泪頂戴みたいな役はいやだよ----!」って叫んでいる気がします。

これが、後に「ジャンケン娘」でコミカルなガラガラっとした役どころ=3枚目のキャラクターに遭遇することから彼女の芸能人生は大きく活躍の場をひろげます。
この役どころの成功は、当時3枚目は脇役、喜劇は一段低いものでアイドルのやるものではない!という概念を打ち砕きます。 生涯の当たり役「サザエさん」が彼女の主演映画としてスタートします。
チエミさんはとても照れ屋さんだったように私のような後発ファンで一度も話もしたことの無い人間でもそんな印象があります。
では なんであのサザエさんが出来たのか??
エ----イ エイ!...って思いっきり弾けてしまった方が ふんぎりがついた のでは?なんて想像するのです。そしてなにより「喜んでくださるお客様へ」というプロ根性があったからだと思います。

ジャンケン娘撮影の頃(昭和29年ころ)...これが女優・江利チエミ開眼の時期と思います。

東宝の創始者・小林一三翁をして「西に天津乙女あり 東に谷崎歳子あり」といわしめた母の血がいかんともなく発揮されていくのです。

のちに「ちいさこべ」では京都市民映画賞助演女優賞を、舞台でもテアトロン賞、ゴールデンアロー賞(第1回グランプリ)、毎日演劇賞、芸術祭奨励賞・優秀賞など数々の栄誉に輝き、歌手が主演する連続テレビドラマのさきがけとなった「チエミの瓦版太平記」「咲子さんちょっと」で高視聴率女優となる江利チエミの初期の女優スタートが「あまり乗り気ではなかった」というのも興味深い部分です。
チエミさんはスクリーンでも目一杯元気をファンに与えることが出来るんだ!...と自己認識したことで、女優という仕事を「歌手の余芸」ではない「本気」で取り組んでいったと想像します。
 
もし、江利チエミがジャズだけを歌っていたらどれだけ凄いシンガーになっていたか・・・これはよく言われることです。私も実は「ボーカリスト」としての江利チエミが一番好きなので同感な部分があります。
しかし、時代が彼女を必要としていた のだということだったのでしょうね。
逆にいえば、ジャズという範疇だけでは江利チエミ人気はあそこまで全国レベルにはなれなかったともいえます。ジャズ歌手だけではとうてい納まりきらないものを確かに江利チエミさんは持っていたのだということがその後の活躍に表れています。
こうしてチエミさんはジャズ歌手からエンターティナー(プロ芸人)へと成長をしていくのです。


この女優としての成功も、のちの「さのさ」の大ヒット、マイフェアレディの主演...チエミさんは最初は本意ではなく、躊躇しながらもしだいにその新しい道に懸命なトライをしていくという場面が多かったように感じます。
 喜んでくださるお客様の為に...
このサービス精神といった薄っぺらな言葉では表現できない、「芸人・江利チエミ」の足跡について、今後のトピックでテーマごとに書いていこうと思います。

情熱のトラムペット(猛獣使いの少女より)
  https://www.youtube.com/watch?v=U20waJmBBRA

チエミの花売り娘(ハワイ珍道中より)
  https://www.youtube.com/watch?v=pipc-6jI0kY




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