先週の「誰ピカ」では、チエミさんの生母/女優・谷崎歳子さんの経歴に関して「東京女子歌劇団」と放映されてしまいましたが、これは『東京少女歌劇』が正しいと思います。 ウエブ検索でようやく「東京少女歌劇」のことが判りました。
『89歳のホームページ』さん http://homepage1.nifty.com/zpe60314/index.htm
の 「浅草オペラ」
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/eiga9.htm より引用させていただきます。
>伊庭孝(新劇の脚色演出家)と米国帰朝本邦最初のトウ、ダンサーで売り込んだ高木徳子一座が、浅草六区の常盤座で喜歌劇「女軍出征」を1917年(大正六年)の2月に上演した。
これが、いわば浅草オペラの誕生である。
伊庭が考えたのは欧州大戦直後のことであり、男の兵隊が不足して女兵が代わりに出征するという戦争風刺のミュージカル、コメディーで、これが空前のヒットとなり、このバカ当りが浅草オペラの黄金時代の基盤となった。
そして次ぎから次ぎとオペラ歌劇団の旗揚げとなった。
即ち「原信子歌劇団」 石井獏の「東京歌劇座」、鈴木康義の「東京少女歌劇」が、観音劇場、三友館(フランス座)、日本館で清水金太郎(シミキン)、静子夫妻は金龍館で旗揚げした。
「原信子歌劇団」には、原信子、田谷力三、秋月正夫(後に新国劇には入る)が居り、藤原正雄が音楽指揮をとり、3月に観音劇場でスタートした。
「東京少女歌劇」には藤原義江が戸山英二郎の芸名でオペラの初舞台を踏んだ。
藤原義江は父が長崎の元イギリス総領事、母は大阪の芸者で幼児のときに藤原という鐵工所を経営する人の養子として貰われていった。
しかし少年の頃、藤原家を飛び出し、実父の世話で東京の暁星中学に入ったが、手の付けられない悪童で退学処分になった。次ぎに明治学院に入ったがここも退学処分。やっと早稲田実業に入り、どうやら卒業に漕ぎ着け、九州の旭硝子に入社したが、女関係で大阪に逃げここで公演中の新国劇に入った。
ところが宝塚に遊びに行ったとき、音楽教師をしていた竹内平吉から「声も良いし、オペラ歌手になったら」と言われ、上京。「東京少女歌劇」にはいった。
1920年(大正九年)になると、浅草金龍館の経営者は、当時関西を根城にしていた松竹経営の「新星歌劇団」から、歌手・俳優のほとんどを引き抜いて「根岸歌劇団」を組織して、浅草オペラの拠点とした。
当時の演技陣は、清水金太郎、静子夫妻、木村時子、天野喜久代、安藤文子、井上起久子等の帝劇オペラ出身者、田谷力三、柳田貞一等のロイヤル館組、それに二村定一、などがいた。
音楽部には、竹内平吉、奥山定吉、篠原正雄などが、作曲・指揮にあたり、作者陣には、伊庭孝、佐々紅華、内山惣一郎などが活躍していた。
この頃の浅草は、東京最大の歓楽地帯であり、活動写真の封切りは、浅草以外になく(市内封切りは関東大震災後)、新宿も、渋谷も、池袋も宿場に過ぎなかった。
したがって浅草の人気者は、東京の人気者で、ひいては日本の人気者であった。
当時の活動写真は幼稚なもので、野球などのスポーツもそれほど盛んではなく、ラジオもテレビもなく、若い人が熱狂するものなにもない時代だった。
こんな時に、突如として現れたハイカラなオペラ、若い娘が舞台一杯に広がり、乱舞する奔放で新鮮な魅力に、熱狂し、木戸が開くと同時に客がなだれ込み、熱狂し、怒号した。
このような熱狂集団を作り出したのは日本館であり、「女性出征」についで上演された、佐々紅華のオペレッタ「カフェーの夜」は大好評。劇中歌の「コロツケの唄」や「おてくさん」は、瞬く間に東京中を風靡した。
※谷崎歳子さんのことは ここ にも以前調べた情報を掲載しています。
今回の掲示と以前の記事では「藤原義江さんが最初に在籍したオペレッタの一座の名前が異なります。 アサヒ歌劇団 と 東京少女歌劇 がどうもはっきりしないのですが、アサヒ歌劇団=のちの東京少女歌劇...といったことで解釈すればよいのだろう...と思います。
(または アサヒ とともに「少女だけで構成された・東京少女歌劇」も率いていた・・・とも解釈できます。前掲の記事では名古屋に移ってからアサヒが東京少女歌劇を名乗る・・・という資料を掲示しましたが、それはおそらく誤りでしょう。チエミさんの口からも「母は東京少女歌劇っていう宝塚の前身みたいなレビュー・・・水の江滝子先生よりずっと前のレビューの出身です・・・」と語っていましたので。)
※画像は「母さんにさわってみたい」EPジャケット...
この曲のことは ここ です。
『89歳のホームページ』さん http://homepage1.nifty.com/zpe60314/index.htm
の 「浅草オペラ」
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/eiga9.htm より引用させていただきます。
>伊庭孝(新劇の脚色演出家)と米国帰朝本邦最初のトウ、ダンサーで売り込んだ高木徳子一座が、浅草六区の常盤座で喜歌劇「女軍出征」を1917年(大正六年)の2月に上演した。
これが、いわば浅草オペラの誕生である。
伊庭が考えたのは欧州大戦直後のことであり、男の兵隊が不足して女兵が代わりに出征するという戦争風刺のミュージカル、コメディーで、これが空前のヒットとなり、このバカ当りが浅草オペラの黄金時代の基盤となった。
そして次ぎから次ぎとオペラ歌劇団の旗揚げとなった。
即ち「原信子歌劇団」 石井獏の「東京歌劇座」、鈴木康義の「東京少女歌劇」が、観音劇場、三友館(フランス座)、日本館で清水金太郎(シミキン)、静子夫妻は金龍館で旗揚げした。
「原信子歌劇団」には、原信子、田谷力三、秋月正夫(後に新国劇には入る)が居り、藤原正雄が音楽指揮をとり、3月に観音劇場でスタートした。
「東京少女歌劇」には藤原義江が戸山英二郎の芸名でオペラの初舞台を踏んだ。
藤原義江は父が長崎の元イギリス総領事、母は大阪の芸者で幼児のときに藤原という鐵工所を経営する人の養子として貰われていった。
しかし少年の頃、藤原家を飛び出し、実父の世話で東京の暁星中学に入ったが、手の付けられない悪童で退学処分になった。次ぎに明治学院に入ったがここも退学処分。やっと早稲田実業に入り、どうやら卒業に漕ぎ着け、九州の旭硝子に入社したが、女関係で大阪に逃げここで公演中の新国劇に入った。
ところが宝塚に遊びに行ったとき、音楽教師をしていた竹内平吉から「声も良いし、オペラ歌手になったら」と言われ、上京。「東京少女歌劇」にはいった。
1920年(大正九年)になると、浅草金龍館の経営者は、当時関西を根城にしていた松竹経営の「新星歌劇団」から、歌手・俳優のほとんどを引き抜いて「根岸歌劇団」を組織して、浅草オペラの拠点とした。
当時の演技陣は、清水金太郎、静子夫妻、木村時子、天野喜久代、安藤文子、井上起久子等の帝劇オペラ出身者、田谷力三、柳田貞一等のロイヤル館組、それに二村定一、などがいた。
音楽部には、竹内平吉、奥山定吉、篠原正雄などが、作曲・指揮にあたり、作者陣には、伊庭孝、佐々紅華、内山惣一郎などが活躍していた。
この頃の浅草は、東京最大の歓楽地帯であり、活動写真の封切りは、浅草以外になく(市内封切りは関東大震災後)、新宿も、渋谷も、池袋も宿場に過ぎなかった。
したがって浅草の人気者は、東京の人気者で、ひいては日本の人気者であった。
当時の活動写真は幼稚なもので、野球などのスポーツもそれほど盛んではなく、ラジオもテレビもなく、若い人が熱狂するものなにもない時代だった。
こんな時に、突如として現れたハイカラなオペラ、若い娘が舞台一杯に広がり、乱舞する奔放で新鮮な魅力に、熱狂し、木戸が開くと同時に客がなだれ込み、熱狂し、怒号した。
このような熱狂集団を作り出したのは日本館であり、「女性出征」についで上演された、佐々紅華のオペレッタ「カフェーの夜」は大好評。劇中歌の「コロツケの唄」や「おてくさん」は、瞬く間に東京中を風靡した。
※谷崎歳子さんのことは ここ にも以前調べた情報を掲載しています。
今回の掲示と以前の記事では「藤原義江さんが最初に在籍したオペレッタの一座の名前が異なります。 アサヒ歌劇団 と 東京少女歌劇 がどうもはっきりしないのですが、アサヒ歌劇団=のちの東京少女歌劇...といったことで解釈すればよいのだろう...と思います。
(または アサヒ とともに「少女だけで構成された・東京少女歌劇」も率いていた・・・とも解釈できます。前掲の記事では名古屋に移ってからアサヒが東京少女歌劇を名乗る・・・という資料を掲示しましたが、それはおそらく誤りでしょう。チエミさんの口からも「母は東京少女歌劇っていう宝塚の前身みたいなレビュー・・・水の江滝子先生よりずっと前のレビューの出身です・・・」と語っていましたので。)
※画像は「母さんにさわってみたい」EPジャケット...
この曲のことは ここ です。