すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

被承認願望

2019-05-09 12:50:39 | 無いアタマを絞る
 一昨日、「ブログは自己顕示や被承認願望だ」と書いた。これに違和感や反感を持った人がいるかもしれないので、補足しておきたい。
 ぼくは、「だからやめた方がいい」とは書いていない。現にぼくもやめていない。「自己顕示や被承認願望はよくないことだ」とも書いていない。
 (一般には、「承認願望」というようだが、ぼくは「被」をつけておきたい。)
 ついでに断っておくと、池田晶子がぼくの引用した著書「14歳の君へ」で、「ブログが現代ふう自己顕示の典型だ」書いているのは、「個性」について考える中で、「自分らしさ、自分の個性というものは、他人に認められることによって見つけられるものではない」という文脈で書いているのだ。
 被承認願望はそれ自体、人間が生きていくうえで無くてはならないもので、他者との関わりのほとんどあらゆる局面に含まれている。ただし、それが強い人は、日常生活でも他者との軋轢を生んだり、他者に敬遠されたりすることはありうるだろう。また、それがなぜなのか理解できずに悩むことはあるだろう。だから、自分の言動には実はそれが含まれているんだ、ということは知っておいた方が良いと、ぼくは思う。
 とくに、ネット上の事柄についてはそうだ。これが、本人はそうと意識しないまま暴走してしまうのが、たとえば、冷蔵庫に入ってみたり商品のハンバーガーに唾をつけてみたりする映像をネット上に流す行為だ。
 被承認願望と自己顕示欲はどう違うか? 赤ちゃんが親の優しい声掛けを必要とするのは、無意識の被承認願望ではあるが、自己顕示ではない。自己顕示は、被承認願望を満たすためのひとつの手段だと考えている。多かれ少なかれ、攻撃的で強い手段。
 考えてみれば、芸術的表現行為ではほとんどの場合、被承認願望がかなり強く発揮される。演劇、歌、などステージで行われるものがその典型だ。拍手が、ブラボーが、「良かったよ」という言葉が、表現者を幸福にするのは、そのためだ。
 もちろん、表現者は、自分のパフォーマンスがその時点で納得のできるものであった、というところでも幸福感を得る。ただしそれが自己満足ではなく確かに一つの達成であったことを確認するには、人々の声を必要とすることが多い。
 稀に、画家が絵を誰にも見せることなく描き続けていて、亡くなった後で親族や知人や画商などが、「彼はいったいどんな絵をかいていたのだろう」と思ってアトリエを訪ねると、素晴らしい作品群を発見する、ということはあり得る。この場合、画家は被承認願望ではなく、内的動機だけで描き続けていたということは明らかだ。
 彼は一人黙々と描いていて、それで満足だったかもしれない。ただしそれが、ひとりの芸術家として幸福な生涯だったかどうかはわからない。孤独に描き続けるのではなく、周囲の人たちの理解や共感(つまり承認)を感じながら描けた方が、より幸せだっただろう。
 だから、被承認願望自体は、悪いものではない。表現者は、過度にならない程度に、拍手や称賛を求めて良い。それを求める気持ちの中に、被承認願望が含まれていることを知ってさえいれば。
 ちなみに、上記の本の中で池田晶子は、「止したがいいのは『自分探し』だ」と書いている。ぼくの最初のブログのタイトルは、「自分探しのブログ」だった。
 お恥ずかしい限りだ。
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