日本の現況と今後について考察

社会で起きている事々について

蒸気機関車:SLを追いメカを探求

2017-04-12 10:39:09 | 日記

◇蒸気機関車(SL)の思い出1:小学生〜大学生の頃

 著者が故郷に住んでいた頃(1945〜60年代)、電車は無くSL全盛の

 頃だった。北海道は山元から石炭を運搬するSL、その石炭を室蘭港

 から船積みする様子をよく見たり、"内地"との行き来にも利用した。

 夜行列車で東京に行った折には、煤で汚れた顔で、上野駅に降りた。

 乗客を運ぶSLはC57(呼称:しごなな)、貨物を運ぶSLはD51(呼称:

 でこいち)だ。どちらも、生活に密着したものだった。

          

◇蒸気機関車(SL)の思い出2:2000年後半の頃

 1)SLのモデル作りに着手・・・仕事に就いた後、SLの事を文献など

  で調べ始めた。当時、秋葉原にあった交通博物館の図書館や国会

  図書館に出向いた。それらの資料からSLのメカニズムを学び、SL

  のモデルをPCの中に組み込む作業に取りかかった。一方2007年、

  鉄道博物館が埼玉県さいたま市にOpen。早速、同館を訪れ、体験

  コーナにあるD51シミュレータに乗り、運転を体験した。運転台

  には実物を使い、前景を映し出す大型スクリーン部分をソフトの

  モデルで模擬した装置により、臨場感ある運転が楽しめた(鉄道博

  物館HPへのリンク➡鉄道博物館)。

 2)SLの実働状態を録画(動画撮影)・・・上述のC57モデルにリアル

  性を持たせるべく、実物が走る磐越西線に遠出し、発車・全速走

  行・停車する過程を動画に撮った。撮影した動画をC57モデルと

  組合せる作業を何とかこなし、それなりのモデルに仕上げた。そ

  の内の一つの動画へリンク ➡ 磐越西線を行くC57-180 。

◇SLの凄さに気付いて:そのメカニズムの凄さには驚くものがある(

 その一端を別頁(蒸気機関車その2)にUpした)。

 


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気象状況:寒い今春と"ミニ氷河期?"

2017-04-12 10:38:09 | 日記

◇日本の気温:2017年3月27日、著者が住む茨城県の気温は低目

 だ。今日の昼頃の水戸市の気温が、なんと3℃台だ。冷たい雨も

 降っている。平均気温データからは、そんなに低くない温度の

 ようだが、体感温度はかなり寒い。一方、今年の桜開花の予想(

 日本気象協会)によると・・・関東地方では今週は2月頃の寒さ

 が続くとある。茨城県水戸市の開花は4月1日になり、昨年比で

 4日遅いとあるが、果たして、どうか? 

            

 一方、日本の海面水温データ(2017年3月25、日本気象協会)で

 は・・・日本海側の平年差はそれ程なく(0〜1度位)、太平洋側

 での平年差はー1度位になっている(詳細:http://www.jma-net

 .go.jp /jsmarine/)。

◇世界の長期的な気候:"ミニ氷河期が来る"?

 英国Northumbria UniversityのZharkova教授らのモデルを使

 った研究結果・・・太陽活動は、2030年代には現在の60%に

 まで低下すると、2015年に発表した。  

         

 過去の例では、1645〜1715年に太陽の黒点の数が減少した。

 当時、英国のテムズ川やオランダの運河が凍りつく一方、我が

 国では寛永の大飢饉などが起きた時期でもある。

◇著者の付記:これらの状況に一喜一憂する事なく、現象につき

 合理性を持って判断し、慎重に見極めて行きたい。


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北海道の歴史:先住民と開拓

2017-04-12 10:29:05 | 日記

◇北海道の先住民(アイヌ民族)と"和人"の移住:

 アイヌ文化が興ったのは13世紀頃だったとされる。狩猟を中心に

 した生活を営み、樺太(サハリン)や千島列島などと交易していた。

 独自の言葉で話すが、文字は持っていない。当方が住んでいた市

 はアイヌの方々が多く住む"白老"に近く、日常的に会う身近な人

 たちだ。

   北海道にある街の地名にはアイヌ語から派生したものが多く、彼

 らとの親近感に繋がっている。例えば、長万部は"オシャマンペ(

 カレイの居る所)"から、札幌は"サットポロ(乾燥した広大な地)"か

 ら、室蘭は"モエルラン(緩やかな下り坂)"からなど・・・。 

        

  明治時代になって大勢の農民などが集団で内地から移住し、北海

 道各地を開拓して行った。当方の祖父は福井県(推定)から日高地方

 に入植、父親は北海道庁(建設土木)に勤め、道内各地の建設に励ん

 だ。

◇札幌の街づくりと大学での人材育成:明治初期、当時の判官が札幌

 の広野を眺め、京都を参考にして構想を練ったとされる。結果、東

 西南北に碁盤の目の如く分割した道路をつくって行った。当方が大

 学生で札幌に住んだ折、その利便性を大いに感じたものだ。

 人材育成面では、札幌農学校が明治9年にスタート。米国のマサチ

 ューセッツ農科大学学長のクラーク博士(William Smith Clark)が

 教頭に招かれた。8ヶ月の滞在だったが、農学校の基礎づくりに貢

          

 献した。離任の時、学生たちに向って"Boys Be Ambitious"の言葉

 を残した。北海道大学のキャンパスには彼の銅像が、言葉を刻んだ

 石碑の上に立っている。一方、クラーク博士の提言で"演武場"を造

 り、農学校の学生の兵式訓練などに使った。それが後に札幌市時計

 台となり、国の重要文化財に指定。当方は学生時代、時計台に在る

 図書館に通ったものだ。今は変わり、音楽会や結婚式などに利用さ

 れている。


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国家資格:技術士への挑戦

2017-04-12 10:28:17 | 日記

自身の事で恐縮なれど、若い方々に向けて当方の体験を綴ってみる;

◇技術士とは?:技術士法の骨子を要約すると・・科学技術に関する高等

 の専門的応用能力を必要とする計画、研究、設計、分析、試験、評価、

 または指導の業務を行う者。電気電子、機械、建設などの分野で仕事を

 する人たちに向けた資格だ。企業内で技術の仕事に生かしたり、独立し

 た技術コンサルタントとして生かす事もできる。他国の例として、米国

 のPE(Professional Engineer)と云う資格があり、同国では権威ある資

 格として扱われている。

◇受験に向けた準備:合格率10%台(電気電子部門)に挑む・・。

 準備を始めた頃(50歳位)、当方は仕事で忙しく(残業も含め)、止むな

 く休日を割いて取り組んだ。出題の傾向は、過去の出題集にて把握し

 た。筆記試験と面接試験とがあり、前者は"何々について述べよ"方式

 のもの。出題テーマを予測し、それらを文献などで調べ、要点をノー

 トに記述した。試験時のように予想問題に対する回答をフルに記述。

 試験当日の1989年8月が来た。都内にある大学の教室で、午前と午

 後に亘る長時間、暑い中、"無心"で対応した。終了後、九州出張と重

 った日で夜行列車に乗った。

◇試験の結果:幸い、筆記試験合格の通知を頂いた。次の面接試験の

 準備を始め、過去問はないので質問を想定したりして要点をノート

 に記述・・。最終結果の速報は、都内にある技術士会館に掲示され

 るので、ドキドキしながら見に行った。技術士登録の手続きを済ま

 せ、翌年3月に技術士登録証が発行された。


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仲間と集う:また楽しからずや

2017-04-12 10:14:14 | 日記

◇ドイツ風居酒屋に集う:同期会

 2017年3月20日、電気工学科卒の仲間が、東京にある居酒屋に集まった。

 そこは、有楽町駅から徒歩3分の高架下にある。その日は120席が、ほぼ

 埋まる位の賑わいだった(若い女性の方々も多かった)。

 本場のビール(HB:ホッフブロイ)で飲み始め、German PotatoやBoiled

 Sausage、当店オリジナルのワイン(赤と白)を味わった。80歳を目の前

 にした者たちだが、世の中で今、起きている事々も話題になった。丁度、

 大相撲の終盤の時間となり、稀勢の里や高安が9連勝した結果をスマホ

 で知り、喜んだりした。

              

 料理の方では、今回初めてのパン(プレッツル)を頂いた。小麦粉とイー

 ストをベースにした物、少しの塩味が効き、美味しいと皆んなが口を揃

 えて云っていた。茨城県に住む当方には遠路ではあるが、comfortable

 な雰囲気に引かれて再び、行きたくなる感じだ。

 ◇集まり・楽しむ:女性が活発

 学校の同期や職場の同僚などの知合いと会い・会食し・語る。現役を退

 いた段階では、その機会が増える。よく見ると、男性と女性との間には

 多少違いがあり、当方の周りでは女性がより活発なのを見聞きする。

                                  

 例えば、ある気功の会で集まり、その後に食事し、おしゃべりを楽しむ

 。仲間でリンゴ狩り、ぶどう狩りなどもする。複数のグループに参加し

 て付き合うので、出かける回数が増える。地方なので、いずれの場合で

 も足となる車が必須だが・・・。高齢になると心身ともに健康である事

 が第一なので男女を問わず、かかる集まりは欠かせないと思う。 

 


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海外での経験6:異文化の中

2017-04-11 16:16:38 | 日記

◇街中での体験:電力事情 

 1980年代の頃、仕事で印度に出向き、首都New Delhiに滞在した。 

 あるオフィッスを訪ねた折、その部屋の片隅に電源装置が置いてあ

 った。訪ねたところ、電圧を自動調整する設備であり、電力需要が

 供給を上回り、電圧が下がり過ぎる事があるので、この設備で防護

 するのだと云う。かかる設備を設けねばならない電力事情があるよ

 うだ。電力会社は発電所建設に励んでいた。発電所用制御設備の設

 計を担当する当方、彼らの建設の一端でお役に立てればと思った。   

          

◇多言語社会:独自の英語訛り

 印度では、州毎に言語が異なる程の多言語の社会だ。しかし、連邦

 政府が定める公用語はヒンディー語と英語の2言語に絞られている。

 英国の"影響下"で英語が普及し始め、当初は上層の人たちがそれを

 促進し、後にビジネスで幅広く使い出した。

                   

 印度を訪問して苦戦する事は、彼らが話す英語だった。Intonation

   が独特で、聞き分けるの大変。推定するに、英語が普及する過程で

 英国人が居なく、彼ら同士の間で会話する時代が流れ、この訛りが

 出来上がって行ったのだろう。

   別のシーンでは、Bombay(今のMumbai)に滞在した時、英国と印

 度のEngineersと会食した席で・・印度の方が話す英語を英国の人

 でも聞き取れない時があり、Excuse meと云って聞き直していた。


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故郷は遠くにありて:著者体験

2017-04-11 16:06:09 | 日記

◇故郷の人口:北海道から本州へ & あるエピソード

 1930年代後半に北海道で生まれ育ち、1961年に茨城県に移動し

 た。北海道には就職先が少なく、地元大学を出た同期の90%近く

 が本州方面に出て行った。それは今も変わらず、札幌一極で人口

 移動が続いているようだ。当方はメーカーに就職し、Engineerと

 しての職を得た。北海道との縁は続いている。現役の頃は仕事で

 行き来し、親類が住んでおり法事や見舞いなどでも訪れる。

 あるエピソード・・・2000年代に入ってからの頃だった。亡く

 なっていた父親が日高地方に所有した土地の話しが持ち上がった。

 その土地が河川工事に関わって来た為、手放すよう役所から要請

 がきた。申し出の土地価格が予想外に低い額と思われたので当方

 は、現地で確認したり、役所と交渉するべく対応した。そこは、

 田畑・山林などが広がる地域。法務局で登記状態などを調べ、町

   役場で土地地価などを調べた。周辺の土地価格はさほど高くない

 状況も知った。

          

 一方、公共の河川工事とは云え、相手都合で私有地を売らねばな

 らぬ我々側の事情もある。このような場合、他ではどのように対

 処しているのか? 裁判所による判例はどうか? Netで調べた。

 その後、役所の方々と会い、交渉した。暫く経って、それなりの

 価格が提示された。この旅は報われ、貰ったお金は、記念品(親父

 さんからのPresent)と思い、常時身につけるものに当てた。

◇故郷で宿泊するホテル:行動の便宜を優先

 当方が故郷で泊まる宿は大体、苫小牧市にあるGrand Hotel New

   Ojiとしている。このホテルは、地元の王子製紙グループ傘下にあ

 り、高さ80m 16階建てからの眺望も楽しめる(駅から徒歩約5分)。

   千歳空港に降りた後、当方は室蘭などに行き、苫小牧に戻って泊

 まる事が多い。上述の時にも、このホテルを拠点にして行動した。

 ビジネス客や観光・ゴルフ客も、ここを拠点に動いているようだ。

 付記:今年4月には法事で出かけるが、今回は行事時間の都合で

 札幌市内に宿泊する。そこは札幌の有名ホテルだが、2名ツイン

 1部屋で1万円程度とReasonableだ。

 


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海外での経験5:健闘するホテル

2017-04-11 16:04:19 | 日記

◇地方のホテル:健闘するホテルと著者の経験

 2017年3月16日の全国紙にホテルルートイン(ROUTE INN Hotels)

 新規Openの広告が大きく出ていた(茨城県鹿嶋市)。同社は全国に

 ビジネスタイプ(Business Type)のチェーン店を展開。250以上の

 店舗を展開するまで成長。当方が住む市や水戸市にもある。立地は

 ホテル名が示す如く大きな道路(Route)沿いで、主に観光やビジネ

 スで車で来る人たちをTargetにしている。

          

  当方、2010年前後に福島県郡山市にあるRoute Innを利用した事

 が 。その時は会津地方に出向き、磐越西線を走るSL (C57-1

 80型)の動画を撮る事に熱中していた(目的:運転シミュレータの

 動画に利用)。帰路に就く時、宿探しの中で同ホテルを見つけ予約。

 車で高速道を行き、郡山ICで降りて夕方着。夕食時にはビールなど

 で疲れを癒し、朝食時にはバイキング料理を味わった。料金は6,0

 00円台〜とReasonable。一般のBusiness Hotelsとは異なり、グ

 ルメも楽しめるなどで人気となっているのだろう。

◇海外のホテル:異なる文化を経験

 1980〜90年代、当方が宿泊したホテル中心に記憶を辿ってみる;

 1)地方のホテルで:仕事で米国各地を旅行した。その時は、全国

  展開のHotel Chainにつき深く知らなかった。縁あり、体験した

  ホテル・・・Ramada、Holiday Inn、and Sheraton。この内

  、オクラホマ州のSheraton Hotelに宿泊した。空港でCowboy

    Hatを付けた人たちを見かけた。カウボーイの本場だった。その

  Hotelは1階建て、広い庭とプールなどを有し、同行した仲間は

  仕事から帰っ後、泳いでいた。宿泊以外にも客に楽しんで貰う

  気配りがあった。

   2)都会のホテルで:米国西部のSeattleに滞在していた知人を訪ね

  た時、Four Seasonsと云うDeluxe Hotelに泊まる機会に恵ま

  れた。当方には初めての豪華ホテル。戸惑いもあったが、割り

  切って過ごした。3〜4月にかけたseasonで彼が学ぶ大学を見

        

  学、キャンパスの桜も見た。イチローがSeattle Marinersで活躍

  していた時でもあり、球場(Safeco  Field)を見て回った。印象

  に残った点・・・球場の観戦席に特別個室が数多くあり会社の顧

  客を接待するのに利用。球場の屋根は開閉式で雨天時に閉める構

  造になっていた。

  付記:ヒヤリ体験・・・上述のホテルをChekOutする日は夏時間

  に切り替る日だった。その意識が不足、危うく出発便に乗り遅れ

  るところだった。部屋の机上に置かれた1枚のメッセージに助けら

  れた。自分の時計を1時間分セットし直し、目覚ましを早い時刻

  に設定するなどして"難を逃れる"事ができた。


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海外での経験4:Cashless

2017-04-11 16:01:56 | 日記

◇旅行時のCashless:Traveler's checkのトラブルと教訓

 1970年代頃からビジネス海外旅行を始めた。旅行業者など

 から、現金は持ち歩かず、代わりにTraveler's Check利用

 を奨められた。ホテルでの支払い、ショッピングによく使

 った(現金は最小限に)。盗難防止の上では理にかなった方法

 と云えるが、落とし穴もある。米国・西海岸のホテルで・・

 中年の女性(2人)がノック、緊急で電話を借りたいと云う。

 部屋には出張仲間たちが集まっていた。一人の女は電話を

 かけ、他の女はワードローブドアの陰に居て我々から見えず

 。女たちは部屋を出て行った直後、ワードローブの中を調べ

 たら、Traveler's Checkが紛失していた。警察に発行して貰

 った盗難証明を持ち、帰国後に業者と交渉したが戻って来な

 かった。しかし、得たものもある。"油断が大敵" ・ ・ ・  。

◇旅行時のCashless:Cardのトラブルと対応策? 

 その後、旅行ではCredit Cardを利用するようになった。家族

 とカナダ旅行をしていた時、観光地を歩き回りホテルに帰って

 来て、Credit Cardが紛失している事に気付いた。当方には初

 めての経験。一刻も早く届けねば・・。Card会社の電話番号

 を調べるなどに手間取りながら、ようやく無効手続きできた(

   幸い他の人にCardを使われずに済んだ)。                         

         

 上述のトラブルを契機に当方の行き方を変えて行った。完全

 な方策はないだいろうが・・。Credit Cardは一枚に、極力持ち

 歩かない、利用限度額を低目に設定、主にNet Shoppingに使用

 。他にも気を配っている事・・例:高齢者向けJR旅行クラブ会員

 カードには「ジパング倶楽部」を使うようにし、Credit Card機

 能付きの「大人の休日倶楽部」は遠慮している。JRのSuicaカー

 ドは大いに利用している。Charge額を低目にし、紛失した時の

 損失を最小限にしている。


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海外での経験3:豪州での経験

2017-04-11 16:00:09 | 日記

◇豪州クインズランド(Queensland):異なる文化があった

 1980年代頃だった。著者は仕事で初めて豪州のクイーンズランドを

 訪れた。豪州の北東部に位置、東方に澄んだ海岸線(Gold Coast)や

 グレートバリアリーフ(Great Barrier Reef)があり、北方に亜熱帯

 の森林地帯が広がる。飛行機で成田からブリスベン(Brisbane)まで9

 時間、時差は1時間。夜に成田を出ると早朝にはブリスベンに着くの

 で、仕事を午前から始められる好条件だった。ホテルは円筒型で小高

 い丘に建ち、最上階のレストランでは夜景や地元のビールなどで疲れ

 を癒した。

          

 当時、著者が勤めていた会社が同州の電力会社から石炭焚き火力発電

 所(複数)を受注した。当方は制御設備を設計、ブリスベン(Brisbane)

 を何回か訪れ、電力会社のEngineersと仕様の打合せをした。

 "豪州は資源国"だと実感したエピソード・・週末には商店街が全て休

 みになる。宗教の教えからか?歴史的な制度だろう。Engineersには

 週3日の休日を執れる制度があった(実際:未確認)。Middle Classの

   人たちの中には自宅にプールを持つなどしてEnjoy your Life !を実践

 していると聞き、その考え方に共感しつつ帰国した。

 付記:帰国する空港で・・・日本からの観光客や航空会社職員たちが

 手に重たそうな包を抱え、搭乗口に向うのを見た。その中身は牛肉だ

 った。牛肉の本場、安く買える。関税ゼロの制限量いっぱいを持って

 、日本への土産にするようだ。

◇豪州からの来訪者:Energeticな行動

 上述の火力発電所用制御設備が出来上がり、立会試験のため電力会社

 のEngineersが工場にやって来た(真夏の季節)。工場は、茨城県北部

 の太平洋海岸に沿って建っている。昼休みの時、彼らの内の一部の人

 たちが、海岸に降りて泳ぎ始めた。工場には、日本各地から電力会社

 の技術者の方々が多く訪れたが、かかる状景を目にした事はなかった。

           

 一方、数日の夏休み期間には、彼らの一部の人たちは富士山に登る計

 画を立てていた様で、これを実行した。頂上まで登りきったようだ。

 富士山は豪州の人たちに知られているようで、日本一の山に登ったと

 云う土産話を胸に、彼らは帰国した。

 


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英語その2:習得と実践

2017-04-11 15:57:40 | 日記

◇英語への挑戦:著者の経験

  当方が英語習得に向け本格始動したのは、仕事上の必要に迫られてから

  だった。仕事で初めて渡米した時(1970年代)だけは、通訳の方の世話に

  なった。その頃から英検上級を目指す一方、洋書も読み出した。Native

  Speakersの会話が入ったCDを通勤時に聞くようにし、耳を慣らした。

 自分が開発した製品を英文技術誌に投稿する一方、海外の学会で発表す

 る機会にも恵まれた。実践の場では、例えば、2週間程に亘る米国のビ

 ジネス旅行が終り、帰国する時にはHearingとSpeakingは結構、上達

 している自分に気付いた。そんな折、顧客と共に渡米し、米国の火力発

 電所 数箇所を調査して回った事があった。発電所のEngineersと質疑

 応答の場で、流暢な英語ではなかったが、何とか対応できたと思う。

          

◇英語の環境に身を置く:知人の場合

 彼は大学卒業後に1年程、米国に語学留学。その後、日本企業に就職

 。北米駐在に派遣された時、仕事を通して英語をbrush upして行った

 ようだ。何年か後、帰国し、元の仕事に復帰した。働きながら、米西

 海岸にある大学でMBA資格を取るべく受験準備をしたようだ(TOEFL

 やTOEICも受験)。幸い、Pass、2年間でMBA資格取得。日本にある

 外資系企業に再就職、英語ベースの仕事に明け暮れているようだ。当

 方は、彼が働いたり、大学で学んでいた時、彼に会いに行き状況を見

 聞した。現場に身を置く事で海外の人たちと仕事をしたり、学んだり

 実践する手法が、英語マスターへの"王道"なのかも知れない。

 


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英語その1:我が国の状況

2017-04-11 15:56:12 | 日記

◇我が国での英語普及:遅れ気味では?

 訪日外国人の増加率には目を見張るものがある。2016年の外国人は

 2,403万9,000人に上り、過去最高を記録した。政府の目標は、202

   0年に4,000万人に置いているが、現実味が出て来た。

 日本人が外国人と接触する機会がどんどん増えているが、我々の方の

 対応はどうなっているか? 訪日客の声を聞くと・・日本を旅行して

 困る事では公衆無線LAN(無料)の不足がトップで、Communication

 や交通情報入手が困難と続いている。 

            

◇英語利用の一つの教訓:空港でのエピソード(Episode)

 1990年代か、それ以前だったかも知れぬが、ある空港で入国手続

 きする所に「Alien」と表示していた(Alienの意味は省略)。日本人

 と外国人を分けて入国手続きするための標識だが、来日した外国

 人には"異様"に映ったのではないか?(外国人にはForeigner、自国

 民にはDomesticと表示するのが一般的)。事前に本場の人のチェッ

 クを受けたり、本場での実用語を調べたりする事で防げると思う。

 これは、今日にも通ずる課題であろう。

 ◇我が国の英語利用の今:"カタカナ英語"や英語のみで表現

 1)報道や仕事の場面などで"カタカナ英語"を多く目にする。例えば、

 コンセンサス、コミットメント、サスティナビリティ、・ ・ 。

 必ずしも規定がある訳ではない。英語をカタカナへ機械的に置き換

 え皮相的でなじみ難い。対応策として、原語を主体にする所が出て

 きた。例えば、当方が住む市にある大型商業施設では原語の店名を

 付けて、カタカナを小文字で併記する所が増えて来た。例 ・・・

 BELLUNA ベルーナ、GRAN SAC'S グランサックスなど。

 2)製造業などで、会社の目指す方針を英語のみで表す所が増えて来

  た。例・・Inspire the Next、Drive Your Dreams、・・・ 。 

  こうゆう方式が、どんどん増えて行く事を期待したい。


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東日本大震災:茨城県での体験

2017-04-11 15:50:37 | 日記

◇帰宅難民:路上で苦闘

 14時46分のその時、著者は茨城県の水戸市内に居た。建物の外に飛び出

 した。そこにはビルの窓ガラスが割れるなどの異常状態に戸惑う人たち。

 自家用車に乗り、我が家に向った。いつもの通る那珂川の大橋に行った

 が、通行止め。他の国道や高速道も交通規制。停電で信号機もアウト。

 ラジオ放送が地震情報を流し始めたが、東北や福島方面のニュースが主

 で、情報は僅かしか得られず。妻と二人、道路上の車中に、"拘束状態”。

           

 夜になったが、辺りは停電の為、真っ暗闇。飲み物を求めコンビニ、スー

 パーを探したが、全て閉店。水戸市内の脇道などをうろつき、帰宅できた

 のは深夜の1時頃だった。

◇避難生活:停電・断水、放射性物質の飛来

 当方の住む地域(水戸市近郊)では、停電は3日続き、断水は1〜2週間続

 いた。真っ暗な我が家で明かりはローソクを灯し、少し蓄えていたペット

 ボトルの水や冷たい食べ物でしのぐ。トイレの水には、近くの沼からバケ

 ツで運んだ(後に近所の井戸水の供給を受け、助けられた)。

 何日か経って、約70kmの所にあるつくば市のマンション(親族が住む)へ

 、一時的に避難した。そこでは、電気や水道が使える状態にあった。

 福島原発から飛散した放射性物質量について県内の自治体がネットで知ら

 せるようになり、シーベルト(Sv)の数値を日常的にチェックした。

◇いざの時の避難は?:茨城県は原発を有し、その30km圏内に約100万人

 が住む。いざと云う時に、どの避難させるか? 茨城県は避難計画に取り

 組んでいる。2016年3月、他県(千葉、埼玉、群馬、栃木、福島)への避難

 先案(含む:各県への人数)を纏めた。避難通路には、常磐道や国道などを

 提示している。

 100万人もの人々が大移動する時、色んな事々が待ち受けている。道路の

 陥没、交通渋滞、停電、断水、津波による浸水などを想定せねばならない

 だろう。これらに、どう対応するのか? 課題は多い。


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海外での経験2:異文化の中

2017-04-11 15:40:42 | 日記

◇海外で触れた異文化3:In England

   1)著者が現役の1970年代頃、英国に初めて出張した。Heathrow

  空港からロンドンへ行く沿道には、壁にレンガを使った住宅が軒

  を並べて建っていた。タクシー運転手は、それらの住宅は100〜

  200年位は経っているだろうと云っていた。日本の住宅耐用年数

  が30年位の時代だったので、興味をもって眺めた。彼らの住宅に

  対する考え方に"長く使うと云う伝統"が底流にあり、歴史に根ざ

  している。我々の考え方が一朝一夕に変るものではない。最近の

  注文住宅では50年以上はもつと宣伝している物件もある。いずれ

  の国でも耐用年数は住む人が保守にどれだけ費用と手間をかける

  かで決まるのだろう。当方の場合、自宅を建てたのが1975年だ

  が、途中何度かのリフォーム(屋根瓦の葺き替えなど)、補修(壁の

  吹替など)、耐震補強を各所に加えるなどして、築42年位になる。

            

 2)上述の出張での目的の一つに、英国の火力発電所を訪れて技術面

  で"見聞"を広げる事にあった。現地はロンドンから列車で2時間位

  のYorkshireと云う町がある。炭鉱で栄えた所で、山元に石炭焚

  き火力発電所が建設されていた。仕事の後、発電所の関係の方々

  が町のパブ(Pub)に案内してくれた。そこは昔風の造りで歴史が

  あるPubで、古きイギリスにTime Slipした感があった。知り合

  い同士が集まって話し・飲む憩いの場となっている。所謂、その

  地域のコミュニティーの役割を担っている風でもあった。この頃

  は、Pubと云う概念が我が国にそれ程、広まっていなかったと思

  う。その後、広がりPub風の居酒屋が増えて来たが、英国での印

  象が残っている著者にはPub風の居酒屋は懐かしく、よく行く。

  


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海外での経験1:米国・カナダ

2017-04-11 15:38:28 | 日記

◇初めて触れた異文化1:In New York

 著者が現役の1970年代頃、初めて海外に出張した。まず、New

 YorkのマンハッタンにあるTudor Hotel New Yorkに宿泊(国連

 ビル近くにある。ゴシック様式の建物)。心を動かされた事はレ

 ストランの雰囲気だった。夕食時は広く、ChicなStyleのレスト

 ランで本場の肉料理などを楽しみ、朝食時は快適な立て構えの

 レストランで本場のAmerican Breakfastを楽しむ。ライ麦風

 のパンはコクがあり、当時好まれたAmerican Coffeeに本物の

 milkをmix。How about more coffee ? と促され、Pleaseと

 云い受け、味わった。食事を楽しむ彼らの習慣に触れ、帰国後

 もその雰囲気で楽しむよう心がけている。

            

                                  出典:Tudor HotelのHP 

◇初めて触れた異文化2:In Montreal

 上述のNew YorkからCanada Montrealに行った。仕事をした

 後、Partner企業の人々と夕食を共にした。ホテルにあるレス

 トランは大広間の豪華な立て構え、本格的なFull Courseを味

 わった。例えば、ワゴンに載せた何種類ものデザートから選ん

 だりした。当時、若輩な当方には何事も目新しく世界は広い !

 と感じたものだ。

 オフィスビル内を行き来した折、エレベーター内ではニッコリ

 と笑みで挨拶する人が多いが、相手を安心させるているのだと

 思った。一方、廊下では各所にドアがあり、先に歩いて行った

 人がドアを開いたまま待っていてくれ、当方はThank Youと云

 って通った。帰国した後、真似てみたが、長続きはしなかった

 。当方がドアを持ったまま待っていたが、相手は何事も云わず

 に通り過ぎたり、当方の目の前でドアから手を離してしまう目

 にも会った。しかし、後ろから来る人が居る時には当方、ドア

 を持ったままで待つように今でも心がけている。


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