元妻は境界性パーソナリティ障害だったのだろうか

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(90)聖書と翻訳-1

2011年01月16日 | 聖書と翻訳


~聖書読~

クリスチャンであれば、聖書を毎日読むことは当然のこと!? 今まで何回かは聖書を『痛読』しましたが、はっきりと言えるのは2回くらいでしょうか?自分にとって掛けがえのない人が語るメッセージであれば、真剣に耳を傾けるものです。しかし毎日聖書を読むことが楽しい時ばかりではないのです。一番の悩みは、聖書を読んでも意味がよく分からないことです。私の理解力が弱いせいもありますが。


~聖書頒布数とクリスチャンの数~

聖書の頒布数 2006年と2011年の比較

2012年度日本聖書協会年報より引用
http://www.bible.or.jp/contents/soc/pdf/vol113.pdf

上の表で、2006年度と2011年度の聖書の頒布数を比較しました。世界の各地域で聖書頒布数が順調に伸びているのに対し、逆に、日本では56%まで減っています。


クリスチャン人口比が高い国



クリスチャン人口比が低い国(ビリケツ順位)

Operation Worldより引用
http://www.operationworld.org/hidden/highest-christian-population


クリスチャン人口比が高い国は、ニカラグア共和国、ルーマニア、マルタ共和国の順です。反対にクリスチャン人口比が低い順位は、アフガニスタン・イスラム共和国、イエメン共和国、モロッコ王国です。日本は下から18位で、17位の朝鮮民主主義人民共和国、19位のイラク共和国の間に挟まれています。北朝鮮は、国家がクリスチャンを弾圧している国なので、信徒数が少ないというのは理解できますが、日本は信仰の自由が保障されていながら、北朝鮮と同程度だというのは何とも不思議に感じます。


~教会の敷居の高さ~

友人を教会に連れて行っても『教会は敷居が高くて・・・』と言って、教会に来なくなることがあります。敷居の高さと言われるものに、いくつか思い当たるところがあります。教会で歌われる讃美歌や聖歌は、文語調の歌詞が少なくありません。現代の一般的日本人にとって文語体で書かれた文は、非日常的なことばです。『・・・来たりたまう』という文を読む時は『・・・来たりたもう』と言い換えが必要です。文語体で書かれた讃美歌は格調高い雰囲気を感じさせますが、一方で、文語体に馴れてない人にとっては、周りの人についていけない恥ずかしさや劣等感、孤独を感じさせるのかも知れません。

次に、聖書の難解さがあると思います。聖書を理解するには、歴史的背景、ユダヤ人の文化的背景、ギリシャ人の文化的背景の理解も必要なので、こうした特殊な背景による難解さがあります。しかしこうした特殊性に起因するのではなく、翻訳文として構成された日本語の表現が不適切であるため、難解になっている。そのようなことがあると思うのです。聖書は誤りなき神のことばであると信じていますが、それは原典においてということでしょう。注意を払い翻訳されたとしても、原典から別の言語に翻訳される時、人間がやることですから、そこにエラーが入る可能性は否定できないと思うのです。人間の能力の限界を認め、ステップ・アップに努めるということは、神と人の前に謙虚になることだと思います。では、どういったエラーがあるのかということについて、具体的に『聖書と翻訳-2』の記事から載せていこうと思います。

以前はよく、ポケットサイズで日本語と英語の両方が書かれた、日英対訳聖書を持ち歩いていました。日本語を読んで意味が分からない時、隣のページの英文を読んでみると、よく理解できたということがありました。聖書が語らんとする内容が難しいのではなく、日本語の翻訳に問題があるということを感じるようになりました。

翻訳だけの問題だとは思いませんが、先の統計が示すように、日本では聖書の頒布数が極端に減っているということですから、聖書の出版、翻訳にかかわる方々においては、翻訳のあり方についても再度検討いただきたいところです。

付け加えなくてはなりませんが、教会に新しい人が根付かないということには、私自身の祈りのなさ、思いやりや、謙虚さの不足もあります。ここに悔い改めるものです。


~聖書を市販するということの意義~

翻訳を終えた聖書が本屋さんの棚に並べられるということは、まだ聖書を読んだことがない多くの人が手に取り中身を見るということです。日本ではクリスチャンが15%しかいないということは、ノンクリスチャンが985%もいるということです。『聖書ってどんな本なのかな』と興味を持って手にする人はたくさんいると思います。

営業マンは第一印象を大切にします。お客さんと出会って1分で成否が決まるとも言われますし、ビジネスでのプレゼンテーション.も、最初の1分が命とも言われます。初めて手にした聖書の印象が、その人と聖書の関わりを決めるということもあるかもしれません。折角聖書を手にした人が『難しくて分からないや』と読む気を損ない本棚に返されたのでは、余りにも残念なことだと思うのです。聖書の売り上げを伸ばす最大の武器は、一般の人にも理解できる言葉で訳文を作ることだと思います。

翻訳者の中には『聖書の翻訳に難解さがあったとしても、それは仕方のないこと。教会には牧師がいるのだから、分からないことは牧師に聞けばいいのだ』という方もいるようですが、それは随分と冷たい言い方ではないかなと思うのです。もし、小学校の担任の先生に『私の授業に子どもたちが付いてこれなくても仕方ないと思います。街には塾があるのですから、授業についてこれない子どもは、塾に行けばいいのです。私は指導要領にのっとって仕事をするだけです』このようなことを言われたら、親御さんはどのように感じるでしょうか。自分の仕事に責任感のない人、無責任な開き直りに感じると思います。

翻訳に限ったことではありませんが、自分が支持する理論、信条に熱心になるあまり、理論と現実に乖離が生じるということはしばしば起こるものです。大学での講義や研究室の中での話であれば、自分が支持する理論に没頭してもさしさわりないのでしょうが、聖書を翻訳し世に送り出す場合、翻訳理論だけにこだわるのではなく、総合的なものの見方なり、考え方が必要だと思うのです。町の書店に並べられる聖書は、学者や牧師だけのものでしょうか?また、クリスチャンだけのものであってはならいと思います。むしろ985%の日本人に読まれることに、みことばの意義、福音の意義があると思うのです。

また、聖書のことばを一般的なことば、平易な言葉で書くことは、礼拝などの典礼で使われるのにふさわしくないという意見もありますが、個人的には、典礼であっても一般的な現代語で何も問題はないと思います。学校の勉強についていけなかったと、コンプレックスを感じている人もいます。教会は敷居が高いと感じて離れるていく場合もあるのですから、そこに配慮があってもいいと思います。社会の中で弱さを感じている人たちが、教会に集まり礼拝を捧げることこそ、神さまが望んでおられることだと思います。

神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
第一コリント1:27 新改訳

現代の一般的な日本人が読んで理解できる日本語訳聖書というのは、現代人の好みに迎合するよう、ドラマチックな構成にしたり、飾りたてたことばを使ったり、耳の痛いことばを消すことではありません。聖書そのものが持つメッセージには、どんな人をも引き付ける力があると思いますし、そのメッセージを現代の一般的な日本語で表記することは、より深く日本人の心を突き通すことができると思うのです。


~コイネー・ギリシャ語~

ある牧師が、クリスマスのメッセージの中で『神は、イエス・キリストを世に送るにあたり、すべての人を救うため三つの民族を用いられた』と語りました(クリスマス物語 その1)。イスラエル民族、ギリシャ民族、ローマ民族の三つの民族です。その中でギリシャ民族がどのように使われたかというと、紀元前4世紀、アレクサンドロス大王は世界を征服した時、世界の共通言語としてコイネー・ギリシャ語を作りました。このコイネー・ギリシャ語は、70人訳聖書(※)の翻訳言語として使われ、その後、イエス・キリストの生涯を記述した福音書や使徒の手紙の記録言語として使われました。聖書の原典を研究するにあたり、コイネー・ギリシャ語は欠かせない言語となったのです。

※紀元前3~1世紀、ヘブライ語で書かれた旧約聖書が、コイネー・ギリシャ語に翻訳されたもの。貴重な原典資料として現在も残る。

また、コイネー化(共通化)された言語というのは、文法、語形変化が簡素化するという特徴があるので、後世の人にとっても学習しやすく、翻訳しやすいという特徴も備えているといえます。コイネー・ギリシャ語は、現代ギリシャ語と違いもありますが、形を変えながらも今日まで生き延びてきたことは、原典の研究に大きく貢献しています。私の思いも及ばないところで働く神さまの知恵と力に、ハレルヤ!と主をたたえます。









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