元妻は境界性パーソナリティ障害だったのだろうか

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(60)みことばより

2011年01月19日 | 境界性パーソナリティ障害


~みことばより~

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。
あなたの敵を愛しなさい。
あなたを憎む者に善を行ないなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
ルカ 6:27~28


「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、
私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、
しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、
私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、
霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ヘブル 12:5~11


天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
働く者は労苦して何の益を得よう。
私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者 3:1~11


詩篇119編71~77節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。
どうか私に、悟りを与えてください。
私があなたの仰せを学ぶようにしてください。
あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。
私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、
あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。
どうか、あなたのしもべへのみ言葉のとおりに、
あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。
あなたのみおしえが私の喜びだからです。


神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ 8:28


いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ第一 5:16~18


夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、
あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
エペソ 5:25

2 コメント

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似た状況です。。 (真美奈)
2013-08-27 03:53:59
ありがとうございました。
全てを読みました。

私も似た状況です。
救われる文章を読ませて頂いた事に感謝です。誠実にご家族と向き合っている姿勢に感動しました。

お身体に気をつけて。
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真美奈さま (ぶどうの木)
2013-08-30 09:54:11
聖書の有名なたとえ話で、『迷い出た羊』のたとえというのがあります。イエス・キリストが弟子たちに語ったものです。

『ある人が百匹の羊を持っていたとします。そのうちの一匹が迷い出ていなくなったら、その人はどうするでしょう。ほかの九十九匹はその場に残したまま、いなくなった一匹を捜しに、山へ出かけるでしょう。そして、もし見つけようものなら、何でもなかったほかの九十九匹以上に、この一匹のために大喜びします。同じように、わたしの父も、この小さい者たちの一人でも滅びないようにと願っておられるのです』
マタイ福音書18章12~14節 リビングバイブルより

今から2000年前の話しになりますが、イエスの弟子の中には、かつて税金の取り立てを職業としていたマタイという人物がいました。

当時ローマ帝国はヨーロッパを中心に領土を拡大し、イスラエルもその支配下にありました。ローマ帝国は支配した国民から税金を取り立てる際、ローマ人がするのではなく、その国の言葉や文化に通じている現地の国民を手先にして税金徴収をしました。ローマ帝国はこの徴税業務を営業権という権利にして、現地の住民にその営業権を高額で買い取らせ、徴税業務を行わせていました。この権利を手にした人は、ローマ帝国を後ろ盾に、必要以上に高額な税金を取り私腹を肥やす悪徳業者が多く、彼らはローマ帝国に寝返った裏切り者として同郷の人から嫌われていたようです。イエスの弟子であった取税人マタイは、こうした仕事をしていました。また彼がこのマタイ福音書を記述した人物だと言われています。

イエス様は病人のもとを訪れて、福音を語り病気を癒されるといったことをされました。こうした行動は多くの人々に賞賛されましたが、一方、イエス様はときどき社会の常識に逆らう不思議な行動をされます。人々から嫌われるあの取税人の家に客として入り食事を共にし、取税人を自分の弟子に登用することまでしたのです。こうしたイエスの行動は、当然人々の不信や反感をかいました。私のような凡人は『イエス様、わざわざ取税人を弟子にしなくてもいいじゃないですか。私たちのイメージダウンになります。止めておきましょう』と言いたくなってしまうのですが・・・。

イエスがマタイを弟子とした時の様子が聖書に書かれています。

イエスは・・・途中マタイという取税人が税金取立所に座っていたので、「来なさい。わたしの弟子になりなさい」と声をおかけになると、マタイはすぐ立ち上がり、あとについて来ました。そのあと、イエスと弟子たちは、マタイの家で夕食をなさることになり、取税人仲間や名うての詐欺師たちも大ぜい招かれました。これを見たパリサイ人たちはかんかんになり、弟子たちに、「あんたがたの先生は、どうしてあんなひどい連中とつき合うんだい」と食ってかかりました。「健康な人には医者はいりません。医者が必要なのは病人です。」イエスはこうお答えになり、さらにことばを続けられました。「聖書(旧約)に『わたしが喜ぶのは、いけにえやささげ物ではなく、あなたがたがあわれみ深くなることである』とあります。このほんとうの意味を、もう一度学んできなさい。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」
マタイ福音書9章9~13節 リビングバイブルより

パリサイびとというのは、聖書にもとづき厳格な信仰生活を送る熱心なユダヤ教の人たちのことで、イエス・キリストと激しい対立関係となり、のちにイエスを裁判にかけ十字架処刑となるよう策略し実行しました。しかし、イエス・キリストは三日目に復活されました。十字架の処刑も含めすべてが神さまのご計画だったのです。

当時、マタイがどのような気持ちで取税人として働いていたのか、詳しいことは書かれていませんが、どこか『生きづらさ』に悩んでいたのではないでしょうか?マタイの開いた夕食会に取税人仲間や詐欺師が集まったというのは、人々に嫌われる仕事をしながら生きることの矛盾、社会での生きづらさに、常々悩んでいた人たちだったからだと思うのです。

もし、イエス様の活動が21世紀の日本を舞台にしていたら、社会の偏見を受け生きづらさに悩む、境界性パーソナリティ障害をはじめとする心の病気に苦しむ人や、オレオレ詐欺に手を染めて人生をくるわせてしまった人たちのもとに行き、福音を語り弟子に選んだことでしょう。

迷い出た一匹の羊のたとえ話を記したマタイは、どのような気持ちでこの記事を書いたのだろうか?迷い出た羊に過去の自分の姿を重ねて、感慨深く書いただろうと思うのです。私自身も、あの迷い出た羊に罪深い自分自身の姿を見るところです。

妻はクリスチャンではありませんが、神さまが妻を深く愛しておられるということを聖書は教えます。私が信じる聖書の神は、クリスチャンは愛するけれど、クリスチャンでない人は愛さないというお方ではありません。むしろ神のもとを離れて生きる人のことを、心を痛め探し求めるお方だと聖書は語っています。この神さまが愛する人を、憎むことができるでしょうか?かつては、妻を憎む気持ちがありましたが、憎むことができなくなりました。

聖書は『神さまが喜ぶのは、動物の命をいけにえとして捧げたり、お金を捧げるといった形式的な信仰心ではなく、どんな人に対してもあわれみ深いこころを持つことだ』と教えています。私の主張が100%正しかったとしても、私の心にあわれみが無かったとしたら、神さまの目には正しいとは言えないのです。またイエス様は『自分が正しいと自己主張するような人たちのためにではなく、自分の罪を自覚し悩む人を神に立ち返らせるために来た』と仰っています。自分はどうだろうかと反省させられるのです。

夫婦間に起こった葛藤の結果、離婚をしたり、子どもと別れたり、うつ病になったり、仕事を失ったという方もいらっしゃることでしょう。自分の人生をめちゃくちゃにされたと感じる方にとって『誠実に家族と向き合う』というのは本当に困難なことだと思います。私も何度も涙し、激しい怒りにとらわれていました。

ただ一つ、私がほかの方と違うところがあったとするなら、聖書のみことばに指針を求め、クリスチャンである兄弟姉妹たちの祈りに支えられ、自分の力ではなく神さまが私を導いてくださったことだと思います。一見逆説的に聞こえるかも知れませんが、人間社会の価値観から離れ、神を土台として生きる時、人を愛するということや、社会と深くかかわるという仕事に取り組むことができるのだと思います。私が誠実な人間かどうかは分かりませんが、こうしたことが家族と向き合う力になりました。

知識を得ることに価値を置く現代人は、知識を得ることで、かえって不安や心配のタネを増やしているのではないでしょうか?私は以前、境界性パーソナリティ障害という病気の困難さについて、知れば知るほど底知れない不安に落とされたことがあります。また、日本の離婚、親権に関する裁判の判例を知れば知るほど、自分の立場が不利であることを知らされました。知識を得るということは、必ずしも生きる希望を得るということになりませんでした。『知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである』と聖書にあります。

神さまは、一人ひとりに不思議な計画をお持ちです。私は、細々とではありますが長い間英語の勉強を続けてきました。海外で過ごした時、異文化摩擦の経験をしました。また、英語ではないのですが、かつて通訳をやり、その中で言語、異文化理解、翻訳に関することを学んだことが、今、英語のウエブサイトを理解したり、英語→日本語の翻訳にとても役に立っています。このブログでの翻訳記事も、神さまの尊い働きのために使われるよう祈り、感謝しているところです。

真美奈さんが今までご経験されてきたこと、つらかったできごとも含めて、真美奈さんの今後の尊い働きのため必要だったのではないでしょうか?そのように信じております。真美奈さんに祝福がございますようお祈りいたします。

『お身体に気をつけて』とのお心づかいに感謝いたします。現在、体調を崩していたところなので、ありがたいおことばでした。真美奈さんも、お体にお気をつけください。

真美奈さんに、信頼できるクリスチャンの友人が与えられるようお祈りいたします。

私はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界基督教統一神霊協会)とは関わりのない者です。

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