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朝鮮半島における排外史観は、現代思想としは「主観」に過ぎない。

2017年09月18日 | Weblog

朝鮮半島では、伝統思想である朱子学に内在していた「人類普遍の大道」を導く思考法が誕生しなかった。この断定が誤っていることを祈る。中国では、科挙制度が存在したが、次世代での落第が続くと読書人階級としての社会身分を失う。逆に、科挙に合格しても、官職を求めない真の知識人が郷里社会に影響力を持っていた。そのため、朱子学は官学として尊重されながらも、非朱子学の儒学も社会的に存在した。朝鮮半島では、文字文化が血筋による「両班」階級に排他的に独占されたため、その外側では、民衆は無知のままに放置された。日本の江戸時代は、官職を含め職業世襲身分制の社会であるが、文字文化は仏門を通じ、あらゆる社会階級にも解放されていたので、職業倫理の天職化が進行した。産業型の儒教社会が成立したためである。それで、仏教界も宗派を超えて、三蔵法師の「唯識」を勉強する原理への膨らみに満ちていた。

すなわち、明治維新は、下級武士が主体であったが、「御一新」の必要が、さまざまな職業社会でも理解されていた。だから、朝鮮半島における東学党の乱、義和団の乱に相当する「排外」運動が、日本では、欧米式の近代化の抵抗勢力として排外運動が盛りあがぅて来ることは無かった。体制の違いが有るといえども、朝鮮半島では、「排外」が民族統合の核心となる。それに対置し、日本の知識界では、孔子の「大学」に原理原則を絞り込み、異人と和人との普遍の哲学を探っていった。だから、現代では、朝鮮半島系の血筋を引く人材でも「多様性を大事にして、人として共生する社会」へと共助の手を互いに差し伸べている。日本社会の根気良い進化は、必ず朝鮮半島にも波及する。それは、人としてのコトバを使える日本社会の強みであるからだ。何十年も昔の日本社会の強権の歴史を排外のネタとする半島系の弁護士たちが、排外を正義とする「主観」を重ねることは、真の核心利益になりうるのだろうか?

 

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