東方不敗の幻想

インターネットのジャーナリズムについての覚書

touhou_huhai@gemini.livedoor.com

デマゴーグの道具となるブログ

2007-06-22 13:13:05 | Weblog
■「はてブ」と社会系個人ニュースサイトのレベルの低さ
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20070622/p1

この記事では、ブログのあり方について批判しているほか、「はてなブックマーク」(はてブ)という、自分の「お気に入り」をコメントつきで公開して意見交換するツールについて問題点を述べている。ネットオタク向けの非常に閉じた話題だが、重要な意味を含んでいると思う。記事にはおおむね同意する。

当然ながら、図星を刺された「はてブ」ユーザーがモゴモゴと文句を言う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20070622/p1
こっけいな連中だ。思春期の少年のような態度だ。だが正直いって、つい先日まで私も同じことをやっていたのだ。ひどく楽しかった。安全で、無責任で、下劣な楽しみだ。今も同じかもしれない。

本題に戻ろう。
最初に引用した記事を書いたtukinohaという人は、信奉者を多く抱える有力ブログのひとつ「痛いニュース(ノ∀`)」について勇気ある批判をしているが、残念ながら幾つか的を外している。

まず第一に、

普段マスコミ批判をしている人たちが結局はマスコミの意見を鵜呑みにして、昼のワイドショーに出てくるコメンテイタ以下の寸評を添えて、マスコミの意見を拡大再生産する程度の見識しか持ち合わせていない


(↑色づけは私がした)
これは違う。「痛いニュース(ノ∀`)」は以前から、
マスコミの報道に疑わしい意見が含まれている場合でも、
十分承知のうえで拡大再生産している。

自分の主義主張に都合のよいマスコミの報道は、うさんくさくても利用し、
都合の悪いものは正確であってもねじまげて、非難する。
引用元2ちゃんねるのレスの流れさえ、取捨選択して、ゆがめる。
見識がないどころか、優秀でおそるべき確信犯だ。
その洗練されたマスコミ的な印象操作の手法は大成功を収めているし、これからも収め続けるだろう。

「痛いニュース(ノ∀`)」のようなブログにとってはだから、「マスコミ批判」は目的ではなく手段だ。
都合のいいときにマスコミを批判し、あるいはマスコミの尻馬にのって、特定の意見を醸成することを目指している。
今回の場合は、安田弁護士らを攻撃したいから、マスコミの尻馬に乗る方を意識的に選択したのだ。

当然、自らがマスコミ的であることに対してなんの心のとがめも感じないだろう。

さて、そこで「痛いニュース(ノ∀`)」を批判した最初の記事のコメント欄にある、


マスコミというのは制度ではなく、普遍的な欲望であるということです。

についても間違っていると言わざるを得ない。

確かにマスコミを支えているのは、我々人間の欲望が大きい。
安全なところで「みんな」といっしょになって誰かを叩き、一体感を味わいたいとか、そういう需要がビジネスとしてテレビや週刊誌などを成り立たせている面もあるだろう。

しかし、だからといって、欲望そのものが自然にマスコミを動かしているという訳ではない。
人の無意識に誰かを憎みたい、おとしめたい、という心が隠れていたとしても、絶えず表に出て、猛り狂っているわけではない。

むしろマスコミ自体が、影響力を高め、保つために、
常に憎しみのきっかけとなる獲物を見つけ、読者を煽り立て、憎しみの快楽に麻薬のように依存させるようとする。
「痛いニュース(ノ∀`)」や、マスコミのような媒体はそのためのノウハウ、技術を持っている。

それは「人は誰しも情報を都合よくゆがめて伝える」といったレベルではない。
素人が木の棒を振り回すのと、熟練の剣士が切れ味の鋭い刀で一閃するのが違うように、まったく違うのだ。

それは「多数派の意見に乗っかるだけ」ではない。
「多数派の意見が、自分の主義主張に都合のよいときにそれを膨らませる」、もっといえば「多数派の意見を作り出している」のだ。

それは羊の群れの愚かさとは対極にあるもの、牧羊犬の賢さだ。

インターネット上の媒体においてはいまだ、羊と牧羊犬は同じように見えるかもしれない。
同じように盲目的な感情に突き動かされているように見えるかもしれない。

しかし、そうではない。それを、かなたの羊飼いはよく知っていると思う。

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