東方不敗の幻想

インターネットのジャーナリズムについての覚書

touhou_huhai@gemini.livedoor.com

小倉先生、無駄ですよ

2008-05-09 09:58:44 | Weblog
適法な行為を圧殺する「淘汰圧」に価値はあるのか。
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/05/post_a4ab.html

炎上を淘汰圧とかいってる人間に対して、抽象的に「そりゃおかしいだろ」と言っても無駄です。たとえ話ではダメです。さらに実例をあげて、じゃーてめぇイラク人質事件の自己責任論大合唱もあれも淘汰圧かコラと問い詰めても、「はいそうです」という答えしか返ってきません。自分が被害に遭うか、被害を間近で目にする以外、決して人は被害者に同情しません。

特に、己が「加害者」または「傍観者」の立場にいると無意識に自覚している場合、加害者に非があるなど認めません。不正を看過してる自分を否定するのと同じですからね。

淘汰圧とかいって、匿名で死ねとかコメントをつけてるのは、生きた人間です。顔のない神でも、自然の摂理でもなんでもありません。でも加害者や傍観者には聖なる掟なんですよ。笑っちゃいますね。それが、いじめ、いやリンチの本質です。モグたん狩りは小さな村社会の秩序を守る正当な行為ですよ。

ちなみに実態として、小倉先生の言うように、会社は社長や上司の命令絶対で回ってるところはいっぱいあります。よき従業員である「加害者」や「傍観者」はみんな、それが「正しい」と思って生きてます。小倉先生のように、立場の弱い人間にも不当な要求に抵抗する権利が保障されるべきだなんて、本気で考えてるのはごく少数派ですよ。ネット上で過激なたとえ話をすれば顔をしかめますが、現実には、社内いじめを何とかしようなんて人間はほとんどいません。

【追記】2008/05/09
セクハラやパワハラを犯罪として扱う法案(内閣府傘下の企業統治推進委員会が定義する)とか、まぁ経営者層の反対で実現しないでしょうけど、持ち出されたら小倉先生は多分、心情的に賛成に回ってしまうでしょうね。特に悲惨な実態を見せつけられたら。学校のいじめ防止法案とかなら、私も過去の経験から賛成しそうになります。
言葉による攻撃は準暴力とか、今でも使われてますよねそういう用語。

でも私なら、政府が任意の傾向を持った人間を社会的に抹殺する手段に使われる恐れを、非常に強く持ちます。(先輩社員が後輩に労組への参加を強制するのは社内の地位の優越性を利用したパワハラであり…うんぬん)まず政府が定義するというのに反対。経団連などの民間団体がセクハラ、パワハラの定義を決めるとかいうのもぞっとしませんが…。


ああ、こういうリンチを止める方法として、加害者の1人が法で裁かれれば、多少は効果があります。でも小倉先生は勘違いしている。ほかの加害者や傍観者が恐れ入るのは、今までの加害者より大きな力の持ち主「おかみ」が振るった権力そのものであって、心底、リンチの下劣さ残酷さを認識して反省する訳ではありません。
だから「あいつはやりすぎた」とか思ったり、裁かれた加害者を新たな「被害者」とみて軽蔑し、あざけるだけです。そうです。被害者はいつだって軽蔑とあざけりの対象です。

そういう、お裁きに対する反応は、一面正しい。
小倉先生が、絶対のものと位置づける公権力によるお裁きだって、人間が運用しているものです。リンチの規模を何万倍にも拡大したものにならないという保証はない。
「巨大ないじめのリーダー格」として警察や司法が君臨する可能性があるんですよ。
小倉先生は「そんなのおおげさすぎ」「ありえない」というでしょうが、その反応こそ、いじめの加害者に無批判な「淘汰圧」論者と同じものです。

そうです。私たちの自由で安全な生活を保障してくれるはずの法治国家もまた、自然の摂理どころか、リンチを肯定する村社会と同じ歪んだ怪物なんですよ。
いじめを憎んで国家にフリーハンドを与えれば、国家によるいじめを生み出す恐れはあるんです。それは、もう「おおげさすぎ」な懸念ではないんですよ。


【追記】2008/05/09
被害者の過失が抜けてましたが…。

「小学生がモバゲーで犯罪者に引っかけられて、強姦されたのは、そんなうかつな小学生が悪い」「親が悪い」(加害者側の弁護士は言わざる得ないでしょうが)
「会社でセクハラやパワハラを受けるのは本人に隙があるから、落ち度があるから」みたいな、話はさんざん言われますね。

規制反対派は、すぐそういう自己責任論に飛びつきたくなります。そしてまたリンチが起こる。
どうせリンチするなら、加害者をすればいいのにね。というと、光市事件になる。
そのリンチに弁護士や裁判官まで加わるわけだ。
で、裁判員制度?うはははは。

あと、くどくど書きますけど

CONCORDE 思想信条を刺激するような話題を避けるって現実社会では常識なのですが
http://concorde.air-nifty.com/first/2008/05/post_c44a.html
「日本(日本語文化圏)の世間一般」って、そういう「世間一般」とか「現実社会」だって、かなりおかしいと内心では思ってますよね?え?思ってない?
小倉先生も「現実社会ではこれこれ」みたいなこと言いますが…。奥村徹弁護士も、往来で大人は子供に声をかけられないけどモバゲーなら、みたいに言いますが。

往来で大人が子供に声をかけられないことや、町中で見知らぬ人同士が政治や宗教の話で議論しないのは、別にそれが「正しい」んじゃなくて、問題を避けるために仕方なくそうなってるだけです。人間がみな、子供の強姦とか政治対立による暴力とかにたやすく手を染めるダメな奴だからです。

ネットがそういう世代とか立場とか道徳とか倫理とか国境とか人種とかを超えて、人と人とを結べるのは、本当に涙が出るほどすばらしいことだし、それを否定して「現実社会」とやらに合わせろというなら、ネットの価値は大きく損なわれてしまいます。

ネットを愛した人々がしくじったのは、そういう新しいコミュニケーションだって結局、犯罪や政治的暴力から逃げられなかったこと。やっぱりネチケットだのリタラシーだのがなくては、人間は非道なマネばかりするクズだらけだったということ。
つまりここも「現実社会」の一部で、だからこそ、なにかといえば解決策として昔からある「現実社会」の処世術が持ち出されるようになったということ。

ネットが人間を変えるという幸福な夢からさめたとたん、すべてを無価値どころか、危険や害悪としか見なくなったということです。ばかなことです。

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