トトガメモ

トトガノートのメモです。

多数派を追いかけるというポリシー?

2010-09-30 17:52:28 | 日記
先日、ビジネス理論とかマーケット理論とか、精力的に勉強されている青年と議論する機会がありました。彼には、より多くのお客様を獲得できそうな分野への進出を薦められました。完全な商売替えでもないので、ある意味尤もな話だったのですが、自分のポリシーに反するからしないのだということで議論は終わりました。

こういった理論、全部が全部ではないだろうけど、やはり当たり前のことながら多数派のニーズを最も大切にするわけです。大儲けするには、最も需要のある分野をまず考える。

基本的には、それでいいと思うのです。商売を始めても喜んでくれる人がほとんどいないのでは店をたたむしかありません。ただ、お客様の嗜好が間違っている場合もあります。

分かりやすい例で言えば、カウンタで何杯も水割りをお代わりしてどう見てもヤバいお客さん。「もう一杯!」と言われたときに、すぐさま出してあげるか、「そろそろやめといた方がいいですよ。」と言って出さないか。

顧客満足だけを追いかければいいのか?と疑問を抱かざるを得ない場面は必ずあるものです。お客様が間違っていると思った時にきちんと諌めることができるかどうか…そこでポリシーとか信念の有無が問題になってくると思います。

どうして、この仕事をしたいのか。その理由がはっきりしていれば、どのようにその仕事をしたいか、どのようにしなければいけないか、という自分の考えが決まってきます。そうできなければ、自分がこの仕事をする意味がない。そうできないのなら、この仕事なんかできなくてもいい。(これを私は四誓偈的精神と呼んでいます)

お金が儲かりさえすればいい、というのもひとつのポリシーかもしれません。でもそれは「その仕事をしたい」ということではなくて、「金になりそうな仕事がたまたまそれだった」ということです。状況が変われば、別の仕事をしたくなります。それは、顧客に振り回されていると言えなくもない状況です。極端にいえば、顧客が1円でも多く金を出してくれるのなら何でもします!という奴隷に似た状況。

少なくともその商売をすると決めて、いろいろ勉強したのであれば、その知識を使って、間違った客は諌め、教育していくという気概も必要なのではないでしょうか。

現在、最も奴隷的な職業が政治家だと思います。どうして政治家になりたいかが希薄な人が多いのではないでしょうか?とにかく政治家をやっていたい。一票でも多く集まるのであれば、何でもします。ポリシー(政策)なんてどうでもいい。四誓偈とは真逆の精神です。

以前は、大方の世論はなかなか動きませんでした。よって「山」に例えられ、土井さんの党が勝った時には「山が動いた」と言われました。だから、政治家もある程度の期間、同じ主張を続けることができました。

でも今は、山というよりも海。世論は波のように常に動いています。これを追いかけていたのでは、ポリシーも節操もあったものではない。ポリシーが無ければリーダーになどなれるわけがない。

ポリシーの無い政治家って…コーヒーを入れないコーヒーみたいですね。

「デジタル」という革命

2010-09-24 16:02:29 | 日記
教科書のデジタル化について書いてから、ばんやり考え続けていたのですが、「デジタル」という革命がどういうことなのか、現段階で自分なりに整理がついたので書いておこうと思います。

産業革命と比較してみました。産業革命は内燃機関の発明と普及が世の中を変えていきました。汽船、汽車、さらに発展形として自動車。人間はそれまでには考えられない速度で移動し、大量の物資を輸送することができるようになりました。輸送にだけ着目すれば「足」の機能を代替する画期的な手段ができたという革命です。

「江戸に行く」ということは、一歩一歩、ミクロの積み重ねでした。道端の花に目を止めたり、湧水を飲んだり、いろんな宿に泊まったり…「江戸に行く」ということの中には、それによって派生する様々なことが含まれていました。でも、現在では東京出張は日帰りです。ひとつのマクロ処理になってしまいました。東京に行くということで派生する様々なことはほとんど無くなりました。

IT革命はコンピュータの普及が世の中を変えました。コンピュータと言ってもパソコンだけではありません。CPUとかDSPとか、小さいコンピュータがほとんどの工業製品に入っていると言っていい状況だと思います。これは機械の制御信号をデジタル化したことに起因します。デジタル化すれば、電卓をポンポンと叩く要領でいかなる制御信号でも作り出すことができます。

これは「脳」の機能の一部を代替する手段の革命と言えるかと思います。データを探し出したり、並べ替えたり、集計したり、記憶したり…というコツコツとミクロの積み重ねでやらなければいけない作業が、ほとんど自動化できるようになりました。自動化のプログラム(エクセルならばマクロ)さえ作っておけば、かつて膨大な時間を要した作業はほとんど要らず、ただ最初の生データさえ入力すればよくなった。

先の革命は肉体的作業の自動化、今回の革命は知的作業の自動化。自動化することによって、何年もかかっていた大仕事(大プロジェクト)の一部が一足飛びに処理できるようになり、小さな仕事になっていく。それが文明が進むということなのかもしれません。

ただ、古典的な手段が無くなってしまうわけではありません。基礎的な運動能力は健康のためにも必要ですし、スポーツという形で運動能力を競い合い高め合うことは重要です。

モーター・スポーツという言葉には少し違和感を感じます。体をほとんど動かさないのにスポーツなのですから。産業革命を踏まえたスポーツといえるかもしれません。私は弓道部でしたが、「あれは運動部なのか?」とよく言われたものです。でも、体をほとんど動かさないスポーツがあるんですから、体をほとんど動かさない運動部があってもいいわけです。

最近、テレビゲームで競い合う競技大会が海外で盛り上がっているそうで、これもスポーツとみなされているようです。これはIT革命を踏まえたスポーツと言えるかもしれません。

こんなふうに考えていきますと、IT革命を踏まえた教育というのも何となくイメージが湧いてくるような気がします。つまり、読んだり書いたり計算したりという基礎的能力は、やはり必要でしょう。そういうコツコツ作業の要領や意味をしっかりと踏まえた上で、そういった作業群をひとつのマクロとし、複数のマクロを組み上げて大きなプロジェクトを構想し、遂行する能力が新たに求められるようになってくる…ということなのかなと思いました。

原爆は通り魔的凶行!

2010-09-16 18:20:05 | 日記
いつものようにNHKオンデマンドの番組を流しながら事務処理をしようと思いまして、「SONGS心に響く歌2010」というのを何気なく選びました。歌だったら画面見ないで聴くだけだから、ながら仕事にはちょうどいい…と思って。ところが、全然ダメでした。心に響き過ぎたのです。

クミコの「INORI~祈り~」。広島平和記念公園に立つ、折り鶴を掲げた「原爆の子の像」。2歳で被爆、12歳で亡くなった佐々木禎子さんがモデルになっています。

こういう重いテーマはいつも敬遠しているのですが、何気なく聞いてしまっただけにショックでした。

原爆症の薬を毎日飲む。昔、薬は正方形の紙に包まれていました。しかも、対角線に折られている。折り鶴の折り方と同じ。いつしか少女は薬の紙で折り鶴を折り始める。

もう自分は治らないだろうことに気づいている。近いうちに死が訪れることに気づいている。死が刻一刻と近づいてくる恐怖、「生きたい」という内からこみあげてくる悲鳴。しかし、それらを口にしても仕方がないことも少女は知っていた。

ただただ震えながら、毎日増え続ける折り鶴に語りかけた。そして祈りを込めた。千羽になったら…もしかしたら…


そんな光景をイメージして、ただただ私も泣いて泣いて泣いて…悲し過ぎます。

その後に衝撃的な番組を見てしまいました。NHKも憎いことしてくれます。それが「原爆投下を阻止せよ」という番組。

原爆のプロジェクトは秘密裡にバーンズという高官によって進められた。この人は予算集めが上手で、アメリカ史上最大規模の国家予算が「マンハッタン計画」に投入された。代わったばかりのトルーマン大統領に原爆の投下を強硬に勧めたが、その主な理由はどうやら2つ。1つは、当時東欧に勢力を伸ばしていたソ連を牽制するため(これはきちんと記録が残っている)。もう1つは、膨大な税金を投入してしまったために、原爆が不発に終わったのでは格好がつかない。原爆を使う前に日本に降伏されては困るので、日本に提示する降伏の条件から天皇制の維持を認める条項をバーンズは独断で削除している。

つまり、ヒロシマじゃなくても良かった。どこでも良かった。アメリカは、通り魔程度の動機で原爆を投下した…。

実は、この番組の主役はグルーという高官で、この人はバーンズの動きを阻止して原爆投下をやめさせようとしました。アメリカにもまともな人はいたのか…と思おうとしたのですが、グルーはウォール街の人間で、日本に投資した資金が無駄になるのを恐れて原爆投下に反対していたらしい。つまり銭ですね。

やれやれです。神も仏も無いのか…米大統領は聖書に手を置いて就任の誓いをするらしいから、やはりニーチェの時代に神は死んでいたんだなと思ってしまいます。死んで仏になったかもしれないから、やはり仏を拝むしかない…

こんな状況でも私たちは怒ってはいけないのですね。ただただ悲しみ、祈るしかない…

「十二人の怒れる男たち」を見て

2010-09-09 20:21:35 | 日記
仙台で見てきた話は先日書きました。その時に考えたこと…「映画を見た時との違い」そして「怒るということ」。

この映画を見たのはテレビで、確か淀川長治さんが解説していたように思います。二十年くらい前でしょうか。今、この劇を見ると、最初に浮かぶのは裁判員制度です。が、これについて再び考えるのは疲れてしまいました。それよりも、この制度に対する自分の考え方、あるいはアメリカという国に対する考え方がすっかり変わってしまったことに気づいたのでした。

二十年前(もっと前かもしれない)、私の中にはまだアメリカという国への信頼とあこがれがありました。劇中のセリフの中にも、「自由の国」とか「民主主義の国」とか「フェアネス(公正さ)を重んじる国」としてのアメリカを誇っているニュアンスが感じ取れます。それにいちいちうなづいていました。「やはりアメリカはスゴイな」と。陪審員制度なんてあるんだからな…。日本ではそんなこと何年たってもできやしないだろう…。

今、裁判員制度が導入され、賛否はどうあれ、この制度のメリットは何なのか?まだよく分かりません。日本もそういう制度を導入できるようになった(せざるを得なくなった?)けれども、それが良いこととはとても思えない自分がいます。まして、アメリカが自由で公正な民主国家だなんて…。

ただ、このお話、「怒る」ということをなかなかうまく描いています。十二人の男が、それぞれの形で怒っています。貧民階級への偏見から生じる怒り、自分と対立している息子と被告をダブらせての怒り、何で赤の他人のために相談しなくちゃいけないんだという怒り、冷静にあるいは論理的にみんなが議論しないことに対する怒り、フェアネスの国にいてフェアな裁判をしようとしない人たちへの怒り…。

しかし、怒りはどれも、理不尽であり、強引である。やはり、人は「怒り」を原動力にして生きてはならないのだな、と思いました。

教科書もデジタル?

2010-09-02 16:51:04 | 日記
テレビ地上波の次は、学校の教科書がデジタルになるようです…。

情報革命に関するNHKの「大人ドリル」を見ました。デジタル教科書の全面導入を10年後に設定し、文科省が検討に入っているというのは驚きました。うちの娘はギリギリで中学校を卒業するかどうかくらいですから、関係ないと言えば関係ないのですが、その世の中の動きに無関係ではいられません。

公文の塾は続けているでしょうから、どんなふうに対応していくかという問題もあります。

ナンセンスな冗談を笑うためには、常識的なセンスが前提にあります。常識が無ければ非常識は分からない。バーチャルとリアルもそんな関係にあると思います。現実社会(リアル)に充分馴れ親しんでいない小学生が、いきなり仮想社会(バーチャル)に入り込んでしまっていいのか?という不安はどうしてもぬぐえません。仮想空間の中だけで生きていくことはできないですからね…。

しかし、技術の進歩は、仮想空間に全く関わらずに生きていくことをも難しくしています。

お年寄りに言わせれば、パソコンでいろいろなことができるようになることは、むしろ世の中が厄介でややこしいものになるだけのようです。薪でお風呂を沸かすしかない時代の方が、簡単で分かりやすかった…。

新しい技術への対応を考えるときに、いつも思い出すことがあります。会社勤めしていたころに聞いた話ですが、「マシン語が分かる人の方が、高級なプログラミング言語しか知らない人よりも良いプログラミングをする」ということ。私はハードウェアの設計をしていましたから、「トランジスタ・レベルで設計したことがある人の方が、論理回路しか分からない人よりも良い設計をする」というふうに置き換えて、納得していました。

これをヒントに考えれば、現実社会での積み重ねの多い人の方が、仮想社会でも活躍できる可能性があると言えそうです。NHK趣味悠々のパソコン講座を担当されている中谷日出解説委員によれば、高齢の方のブログの方が読み応えがあるとのこと。

しかしながら、回路設計業界がそうであるように、昔の技術ばかりではもうやってられない。トランジスタレベルから人手でLSI設計をしていたら、一生かかっても一つも仕事が終わらないことでしょう。

仮想社会はどんどん膨れ上がり、そこにかかわる時間がどんどん増えていくのがこれからの時代の趨勢であることは間違いありません。

そうなると、やはり教科書もデジタルでなければいけないんでしょうかね…。