トトガメモ

トトガノートのメモです。

オブジェクト指向

2010-10-29 15:30:20 | 日記
数学の教材G教材を先日から始めました。最初はF教材までの復習ということで整数・分数の四則演算があります。足し算・引き算はとっても苦戦しました。これからどんどん大変になるぞ…と心配になりました。

ところが掛け算・割り算が入ってくるとむしろ楽になりました。さらに、G教材で新しく学ぶこととして負の数とか指数とか出てくるわけですが、こういった高級な具材が入ってくるほどむしろ楽になってくる。つまり、頭を使わないような気がする。

掛け算は繰り返しの足し算を瞬時のうちにやってしまうわけですから、足し算よりも難しいという先入観があります。少なくとも、その原理を理解するためには足し算を理解していることが不可欠です。しかし、その操作自体は暗記した九九でやるだけで、足し算を頭の中で繰り返すことはしません。

逆に言うと、足し算の繰り返しをして掛け算をしない限り、掛け算が足し算より頭を使うということはありません。九九という、足し算のプロセスを排除して結果を丸暗記する方法を用いるのが普通なので、掛け算は足し算より簡単なのです。

指数とか対数とか平方根とか微積分とか、最初に習うときは原理的な説明がなされますが、少なくとも私の場合は、それを理解しようとはしましたが、分かったような分かんないような気分のまま、結局それ以上時間をかけることもできず、やり方だけ分かれば受験は何とかなるから…みたいな感じで通り抜けてきました。

今、思います。文明とはそんなものじゃないだろうか…

車の運転をしない大人は珍しいけれど、自分が乗っている車の設計図が書けたりエンジンを調整したりできる人は少ない。パソコンを使っている人は多いけれど、CPUの出力信号を描ける人は少ない。テレビを見ない人はほとんどいないけれど、テレビの回路図を描ける人はほとんどいない。

プログラミングの世界でオブジェクト指向という言葉があります。私もC++とかjavaのプログラミングに挑戦した時期があり、その時に知りました。いわゆる関数をインターフェースの厳格なモジュールとして組むことによって、中味を気にせずに、ひとつの道具としてプログラムのいろんなところで使えるようにするというもの。

細かい所を気にせずに、どんどんモジュールを組み上げて、大きなプログラムが作れるようになるので生産性が上がります。

車に乗る、パソコンを使う、テレビを見る…細かい所を気にしないから、便利な生活ができるのです。

もちろん、そこに首を突っ込まなければいけない事態もあり得ますし、それを仕事にしている人もいます。でも、大抵はそうしなくてもいいから、文明なんじゃないだろうか?

計算ができるだけじゃダメだろう…という批判も間違いではないかもしれないけれど、計算だけにしておかないと計算すらする時間が無くなってしまうのが現実ではないでしょうか?

例えば…あなたは円周率を自分で算出できますか?「パイ」とか「3.14」で済ませておかないと、ひとつも問題が解けませんよね。
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呪い願い祈る

2010-10-23 14:04:42 | 日記
高校受験のとき、直江兼続ゆかりの亀岡文殊堂にお参りしました。その時、気づきました。自分の合格を祈るということは、別の人の不合格を祈ることにはならないか?だとしたら、これは祈りではなく呪いではないか?そんな願いに神仏は加担するだろうか?

自分やその周囲だけの利益のために祈ることは、時として呪いになることがある…

不合格が必ずしも不幸とは限らない。長い目で見れば、その落胆から這い上がるために頑張って結果的にはかえって良かったということもあり得る。だから、他人の不合格を祈ることになったとしても呪うのとは違う…と、その時は納得することにしました。

でも、ならば自分が合格だけを願うのはなぜか?合格でも不合格でもどちらでもいいのではないのか?

それから、私は具体的な内容の実現を祈ることをしなくなりました。

入試のように定員が決まっているものは、自分の合格は他の誰かの不合格につながります。幸と不幸の交換のようなもの。

でも、定員が決まっていないようなことでも、自分のあるひとつの願いがかなうということは、必ず他の場所に何らかの影響はあるはずです。

それは、直接身の周りにいる人や物に対してだけとは限りません。バタフライ効果を考えれば地球全体が自分の影響下にあると言えますし、EPR効果を考えれば地球の中だけに限定することすらできないようです。

自分のことだけを考えた時、願いは強く、しかも願いの方向性もシャープに決まります。ところが、目の前のごちそうを食べたいと思っている人間が他にもいて、その人たちのことも考えるということになると、何等分にしようとか、この前は譲ったから今回は僕に頂戴とか、願いの強さも方向性も弱くぼやけたものになっていきます。

視野をずっと広げていったときに、つまり誰をも呪うことにならない願いを設定しようとしたとき、その方向性はしだいにぼやけていきます。

そんな中での祈りとはなんでしょうか?「神の思し召しのままに」とか「仏の教えが普く広がりますように」とか、全く方向性のない、Let it be のような内容になるかと思います。それは一見、受動に徹する生き方のようにも見えますが、似て非なるものではないかと思います。

そんなわけで結局何を願うと言うこともなく、毎日お経を唱えています。
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人物多様性

2010-10-17 22:13:16 | 日記
COP10というのが開催されるようで、「生物多様性」という言葉がよく聞かるようになりました。

多様性の意義はいろいろあるんでしょうが、現存する遺伝情報にバリエーションがあることの重要性は、今回話題になった「遺伝子資産」という言葉の流布を待たなくとも、認識されておりました。

地球環境の変化というのは必ず起こり得ることですので、いまの環境に適応した遺伝情報だけが生き残ることになると、環境が変化したときに生物が全滅する可能性が出てきます。

遺伝情報のバリエーションを増やす有性生殖の生物の存在意義がここにあります。これを踏まえて人間や思想の多様性も重要であることは以前も書きました

今回は「人物多様性」という言葉を提唱したいと思います。

江戸時代の庶民は長屋暮らしなどをしていましたから、運命共同体としての連携が強かったそうです。特に世界的大都市だった江戸は、なにかちょっとしたことが商売になり、その日暮らしでも食い繋いでいくことができました。(爆笑問題のニッポンの教養#122「落語ぢから」参照

さらには困っている人を助けようという機運が強く、勝海舟の父親のようなとんでもない変わり者でも、他人に助けられて、生きていくことができました。(歴史秘話ヒストリア第53回「大江戸なんだこりゃ!?ハジケて笑える“文化文政時代”」参照)こんな変わり者の息子だからこそ、江戸城無血開城というような当時としては奇想天外なことを実現できたとも言えます。

「生物多様性」が危機にさらされているのと同様、「人物多様性」も危機にさらされているような気がします。変わり者は潰してしまえ!という風潮が感じられるからです。

江戸のように、懐が寒くても、懐の広い、心の暖かい社会が実現できないものでしょうかね…
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昔話は三度くり返す(爆問)

2010-10-08 11:01:33 | 日記
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#123」(10月5日放送分)を見ました。口承文芸学の小澤俊夫先生でした。小澤征爾さんの兄であり、ミュージシャン小沢健二さんの父だそうでビックリしてしまいました。

画面に出てきた絵本は見覚えのある「子どもとよむ日本の昔ばなし」(くもん出版)の絵本うちの教室にもある本だったので、またまたビックリ。

「おざわとしお」って、この人なの!?

面白かったのは「白雪姫」と「シンデレラ」の話。昔話というのは洋の東西を問わず、だいたい3回繰り返しがあるのだそうです。日本の昔話なら「三枚のお札」とかでしょうか。「ももたろう」も動物は3匹。ロシアなら「3びきのくま」、イギリスなら「三びきのこぶた」。「白雪姫」と「シンデレラ」はドイツ(グリム童話)ですね。実は「白雪姫」も「シンデレラ」も3回の繰り返しが本当はあるんだそうです。

白雪姫は妃から3回襲われている。前2回が省略されて、しかも棺がゴトリと揺れた拍子に喉につまった毒リンゴが取れて生き返るのであって、王子様のキスなんていう甘っちょろい話ではない。

シンデレラもきれいに変装してお城に遊びに行くのは3回で、シンデレラを何とかモノにしようとした王子様が3回目に訪れた時に階段にタールを塗っておいた。これにガラスの靴がくっついて取れたのだそうです。前2回の王子がシンデレラに夢中になる過程が省略されている。

人間の欲望とか愚かしさとか残酷さがこの繰り返しの中に折り込まれていて、「人間バカはやるけど、それで幸せになったりもするんだよ」というメッセージが込められている。

この大切なメッセージを削ぎ落としてしまったのがディズニーということです。夢物語に仕立て上げるのもいいけれど、人間のドロドロした部分に触れるリアリティが欠落してしまったようにも思います。

昔話は往々にして残酷だが、それは子どもに有害であるとして、昔話を書きかえる動きが横行しているが、これについてどうか?と太田さん。

昔話の残酷さに触れたり、虫や蛙で残酷な遊びをしたりすることで、子どもは小さいうちに小さな残虐性を満足させる。それをある程度繰り返すと、ある日ふと、こんなことしたらかわいそうだなと思う心が芽生えるのではないか?

この過程を踏まないと、自分の残虐性を抑えるメカニズムを持たないまま大人になる。大きな残虐性が本当の人間に牙をむいた時、それはもうかわいそうでは済まない…

福音館書店の「三びきのこぶた」は原書に忠実なまま、残酷な良書です。

《最初から読む》
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