ワールドミュージック的門外漢

音楽やオーディオの門外漢が、そこはかとなしに綴る、
    まことしやかな謬見ときどき真実なブログ。

芸があるやら無いのやら

2017-04-26 00:26:27 | ワールドミュージック
週も相変わらずButlerで聴き続けています。というか私の部屋自身が有意な音響装置のような役割を果たしているので、Butlerを聴くというよりは、音響機器と部屋とが協調して醸し出す固有の音を聴いているということになり、それが好きか嫌いかと言うと非常に好ましいものであるという結論になります。
まあ、あまり凄いとか最高の音とか言うと、どこぞのケーブル屋さんのような誇大妄想じみたホントかよ的な作り話と同一視されかねませんが、あそこまでの虚言を弄する者ではありませんのでどうぞご安心ください。
ということは私もあのケーブル屋さんで一遍は試聴したことがある、と言うことになる訳で、もう大分以前のことになるので具体的にどんな音だったかを説明するほどの記憶もありませんが、Macであの音しか出せないのであればMacユーザーというのは随分可哀そうなものだなあという残念な印象ばかりが残っています。私もメインメモリー8MBとか16MBというPCジュラ紀におけるMacユーザーだったのですが、あのままMacファンを気取っていたら今のようなPCオーディオ好きにはなっていなかったかも知れません。ただし、今のMacで本当のところどこまで良い音が出るものなのか知っている訳ではないのですが…。

さて、今回はPOPSとともにクラシックなども聴いてみました。再生ソフトのBug headはフィルターを噛ますとバイオリンなどの一番おいしい高域部が無くなってのっぺりした味わいになってしまうのでもっぱらNomalモードで聴くことにしています。五島みどりのパガニーニやムッターのツィゴイネルワイゼンなど(いや最近はクラシックのソフトなど滅多に買わないので古くてどうもスイマセーンという感じですが)艶と張りがあっていい感じで鳴っています。欲を言えばもっとか細い感じの音が出れば最高なのですが、自分自身にはどこまでも甘くなれるというのが人の世と政治屋の常ということで、取り敢えずは現行オーディオシステムで合格!ということで納得しています。
さらにリヒターのマタイ受難曲をアリア中心に聴いてみました。歌手とオケの前後関係もよく分かりますが、歌手の音像は結構大きすぎるように感じます。
しかしこの録音を聴くたびに感じるのは、なぜフィッシャーディスカウがこんなところに出張ってくるのかという違和感です。これはまったくミスキャストだろうといつも思うのですが、それはなぜなのかと考えてみると、彼の歌声や歌い振りには宗教的感慨にそぐわないものがあると感じてしまう訳で、端的に言えばそこに真実味が欠けている、俗っぽく言えば彼の歌はどう聴いても色物だろうというのが私の違和感を払拭できない理由です。
と言いますか、それは彼の歌うマーラーやシューベルトにも感じられて、ディスカウの存在感はあるものの、それが必ずしも作曲者の意を汲み取った世界にはなっていないのではないかという気がするのです。あたかも私が歌っているのだからすべてOKとでも言いたげに、どこを切り取ってもディスカウばかりが金太郎飴のように前に出てくるので私などはあまり感心しないのですが、まあ贔屓筋にとっては彼が歌っていることにこそ意義があると考えるのでしょうから、それが上手いのか下手なのかはどうでもいいことなのでしょうね。
ということで、ディスカウは芸達者な歌手であったと言うよりは、常に自分自身の歌い振りに忠実な歌手であった(ずいぶんソフトな言い回しですが)というのが私の考えるディスカウ像でありまして、もちろん門外漢の言うことですから何の権威もないのはみなさま先刻ようくご存知のところです。