鶏肉奥義

ちきんぐのちきん日記

ケルト文化とケルト音楽の成り立ちとの関連

2011年02月28日 | 音楽の話題
現代の音楽において、「ケルト音楽」というジャンルが存在する。現在そう呼ばれているものについてその明確な起源や形態は厳密に定まっていないが、古代ケルトの伝統音楽が伝承され、その結果として様々なジャンルと融合し複合的な音楽となっていったことは窺い知ることができる。
古代ケルトにおいて、その生活と音楽はどのような関わりがあったのか、またそれがどのように現代の音楽に影響を与えているか考察する。
ここでは、現代において「ケルト音楽」と称されているものが概ねアイリッシュな音楽であることを考慮し、アイルランドにおけるケルト人の文化を考えるものとする。


そもそもケルトとは民族の名であり、紀元250年頃にヨーロッパからアイルランドに渡って来た侵略者であった。
その中でも主要な集団がゲール人であり、紀元400年までにはゲール人はアイルランドを全面的にアイルランドを征服し、彼らの文化や言語が、ほぼ1000年にわたりアイルランドの歴史を支配することとなった。
彼らがアイルランドで築いた文化の一面として、今日伝統的なケルト音楽と言われているもの(アイリッシュトラッド)が根付いたと考えられる。
彼らは文字を持っていなかった。そのため、彼らの文化は詩人・法律家・ドゥルイド(ケルト文化における祭司)により口承されてきた。


ゲール人の話したゲール語は歌うようなニュアンスがあり、美しい言語とされている。
そのような特徴を持ち合わせていたことも含め、口承の文化は言語論的にケルト音楽の豊かな発展に寄与したと考えられる。
また、彼らは記譜法を持たなかったため、その音楽文化は当然口承により後世に伝えられた。
従って、その音楽は彼らの日常生活に非常に密着したものであったであろう。そのことは、伝統的なアイリッシュ音楽の構成からも見ることができる。


伝統的なアイリッシュ音楽の構成は歌のある「シャーン・ノス」とインストゥルメンタルの器楽曲「ジグ」「リール」に大別できる。
シャーン・ノスで歌われたのは、古代の英雄譚や伝説、戦いに行った夫や恋人に向けた歌、移民の歌などである。
また、ジグやリールは跳ねるようなメロディラインが特徴の踊るための音楽であった(これは今日においてもRiver Danceのようなアイリッシュ・ダンスとして残っている形態である)。   


ケルト民族は本来は遊牧民族で、自由で個人主義的な家族中心の社会を形成していた。
そのためアイルランドでは中央集権的な統一国家が形成されず、彼らは都市を持たずに田舎に住み、牛の飼育を中心として生活していた。
そのゲール人たちにとって歌い、踊ることはコミュニケーションともなったであろう。音楽は生活の一部としてその文化に深く根付いていたのである。


伝統的なケルト音楽の起源を探るうえでケルト民族の宗教は非常に大きな役割を果たしている。古代ケルト人は自然崇拝者であった。
ケルト音楽によく用いられる楽器フィドルは流れるようなメロディラインを奏で、イーリアンパイプは風が抜けるような枯れた音、ティンホイッスルは哀愁を誘う音色である。自然と大地に深く根差した彼らの信仰心が好んだ音色の形態と言える。
また彼らは輪廻転生を信じており、生命が湧きあがるように渦を巻き、絡まりながら生を紡ぎ、終わることなく繋がっていくとした。
曲が進むにつれそれぞれの楽器が絡み合いながらより速く高揚した曲調になり、終わることなく次の曲に受け継がれていくという特徴はその宗教観を表現したものと言えるだろう。それはアイルランドの遺跡におけるアイルランド渦巻き文様においても見ることができる。


アイルランドでは、家庭で作ったビールを近隣の人に飲ませる習慣があった。
これを起源とし、後にアイリッシュ・パブと呼ばれるケルト音楽において外すことのできない文化が生まれる。
パブは酒場であったが、住民が子供や老人も含め老若男女を問わずに集まり歓談する地域の交流場としての役割があり、どのような小さな通りや寒村にも必ず生活の中心としてパブが存在した。
この環境は歌と踊りを生活の一部とするアイルランドの人々にとってうってつけであり、彼らはパブで歌い、踊り、演奏を楽しんだ。ケルト音楽はアイリッシュ・パブの誕生と共にますます人々の生活に根差したものとなっていくのである。


このようにしてアイルランドで発展し、文化として根付いたケルト音楽はどのようにして今日のワールド・ミュージックにおける一端を担うようになったのであろうか。
19世紀、アイルランドは依然として農業国であった。
特に小さな土地でも収穫率の多いジャガイモの生産が活発に、特に貧農の間で行われており、人口の三割がジャガイモに依存する状態であった。しかし1845年から1849年の4年間にわたりヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が流行し、アイルランド文化は壊滅的な影響を受けた。100万人以上が餓死し、200万人以上が移民したと言われている。この飢饉による移民は、結果的にケルト音楽の輸出となったのである。


一方17世紀から19世紀にかけて、およそ1200万人のアフリカ黒人が奴隷としてアメリカ大陸に渡った。
この歴史的な悲劇は、音楽文化的には大きな転換期となった。アフリカの音楽を新大陸に持ち込んだアフリカ人たちは労働歌を歌い、それがカントリーとなり、ブルースとなった。結果的に、今日におけるジャズを生んだのである。


ケルト音楽もまたアメリカの音楽文化に組み込まれることとなった。
経済的発展を遂げたアメリカの音楽文化もまた同様に急速な発展を遂げ、ケルト音楽はアメリカの音楽文化と融合し今日における様々な形態の音楽を生んだ。
ケルト音楽は現代における音楽全ての起源の一つであるとも言えるのである。


しかし、このようにして融合したケルト音楽の伝統的側面はここで消滅しなかった。
伝統的アイリッシュ音楽は前述のように様々な形態で融合され、多様な音楽を生みだしたと考えられる。
一方、伝統的アイリッシュ音楽そのものに興味を持ったアーティストもいた。ハードロックの王者レッド・ツェッペリンやディープ・パープルはトラッドに強い影響を受け、ケルト音楽的要素を取り入れた。世界的に有名な音楽人たちがケルトに目を向けたことにより、それ自体もまた人の注目するところとなっていったのである。
加えて、近世になってアイルランドを発祥とした伝統的アイリッシュ音楽を演奏するアーティストが現れたということは世界の人々のアイリッシュ音楽への目を引き付けるものとなった。エンヤ、ザ・チーフタンズなどである。彼らの音楽性は、現代における混沌とした音楽文化の中で美しく異彩を放ち、その人気は一躍ワールド・ミュージックひいては伝統的アイリッシュ音楽の地位を押し上げるものとなったのである。


現在、伝統的アイリッシュ音楽はムーブメントを巻き起こしつつある。
テレビなどでも頻繁に流されるようになった。インターネットが普及し得られる情報が増加したことにより、本場のケルト音楽に触れる機会が増加した。当然の流れとして、ケルト音楽を志す人々が増加した。
彼らは伝統的アイリッシュ音楽に触れ、その美しさと魂に根付く深みとに心奪われるのである。
古代よりゲール人たちが語り継いだケルト音楽の魅力は、今なお口承からネットワークへと伝達の手段を変えて人々に語り継がれている。

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