快読日記

日々の読書記録

「死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日」萩原朔美

2011年01月02日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《2010/12/22読了 新潮社 2008年刊 【日本のエッセイ】 はぎわら・さくみ(1946~)》

一人息子の目を通して見る萩原葉子はなんだか心細くて頼りない、小さな女の子みたいです。
同じ文士の娘でありながら、例えば室生犀星の娘・朝子さんや森茉莉のように溺愛された経験をほとんど持たず、
それでもほんのわずかに残る思い出を大事に拾い集め、磨きあげ、理想の父親像・男性像として胸に秘めている。

筆者は幼少時からの記憶をたどりながら、娘として母として女としての萩原葉子に静かに思いを馳せます。
母の愛にほとんど触れることなく育った葉子のギクシャクした愛情表現も、振り返れば温かく切ない。
彼にとっては「おばあちゃん」である葉子の母・稲子という人の満開の花のような女っぷりも興味深いものでした。
文章は率直で、すっと入ってくるかんじ。
根本的なところで大事に育てられた人が持つ素直さが、文のあちこちから伝わりました。

子供は親に甘え続けます。
中学生が親に反抗することだって、いい大人が老いた親にイライラすることだって、全部甘えなんですね。
「朔太郎の娘」を母に持つ筆者の「特殊な親子関係」を想像していたら、そこにあったのは思いっきり普遍的な母子の姿でした。

「親は、子供が出来て親になっていく。子供は親が居なくなって、初めて子供を自覚するのである(235p)」

/「死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日」萩原朔美