アサの四方山話

長靴の国イタリアから、トレンティーノ斯く斯く然々、、、

誕生日にいつも思うこと

2006-02-26 10:00:47 | Weblog
イタリアではというか、私の周りのイタリア人達は、いくつになっても誕生日を祝うのが当たり前になっているらしく、誕生日の日が近づくとかなり落ち着かない様子で、今年はどんな風に友人をもてなすかと、思案を巡らしていることが多い。グレッグもそのうちのひとりである。

従って私のことも当然そうあるべきだと思うらしく、早くから何人かの友人から『えーと誕生日はこの日だったけ?』と電話がかかってくる。(毎年聞かないでほしいが)当然今年はいつ何を計画しているか、という事も含めて聞きたいのだ。

日本にいた頃と違って、こちらでは同じ気分でお祭り騒ぎを楽しんだり、イタリア人と対等に冗談を交わせるほどイタリア語が上達していなかったせいで、誕生会を祝うということをちょっと避けてきた。

でもしばらく長く暮すようになると、やはりはずせない年中行事の一つとなるのであるが、私自身は毎年憂鬱な気分になってしまうのだ。

何年か前のことだが、誕生日の日、いつもの様に出勤した。
いつもの様に仕事は9時から始まり、大抵10時頃から交替で休憩時間をとって、階下の自動販売機の置いてある踊り場へコーヒーを飲みに同僚達と行くはずだった。

突然、私の背後に彼女らが花束を持ってやって来て、『tanti auguri』(ハッピーバースデイ トゥ ユー伊語版) を歌い始めたのだ。同僚にも何も言っていなかったからその日が私の誕生日であることは誰も知らないはずだった。私は他の同僚の様に前もって宣伝していなかったから特に。でも、いつも楽しいことを探しているような、こういう祭り事が大好きな彼女らは事前のチェックは忘れないのだった。
mamma mia! と思わずイタリア語がよぎった。

恥ずかしいやら嬉しいやら、こういう時はどういうリアクションをするべきか、急に日本人らしくなって戸惑ってしまった。もちろんすぐにイタリア式に、そこに来てくれた同僚達ひとりひとりにお礼を言って回った。なんて可愛らしい同僚達なんだ!

花束もプレゼントも気が利いていたが、何よりも嬉しかったのは、同僚達の私を驚かせ喜ばせたいという気持ちだった。それは私のつたないイタリア語で上手くは伝わらなかったかもしれない。

お昼頃近くのパステッチェリアに出向いて、出来るだけ美味しそうなパスタとスーパーで甘口ワインとコカコーラを買い、事務所に戻り、確か金曜日で仕事は皆3時までだったから、帰る時間の少し前に集まってパスタとワインで同僚達と共に誕生日を祝った。

イタリア人の習慣は、誕生日を迎える本人が皆にパスタあるいはケーキをもてなし、一緒に祝ってもらうのだ。私ときたら出来るだけ知らん顔していたかったので、プレゼントを頂くのが先だった。

今年も、メイルで『もし日にちが間違ってなければ誕生日おめでとう』と言ってきた友人にお礼の返事を書きながら、年齢を抜きにして、なぜ毎年憂鬱になるのか、ということを考える。少し心を許して話せる彼女には、多分、イタリアにいる自分が、この年齢でこうありたいという自分とは違うことに対して素直に祝うことができないのだ、とつけ加えておいた。

一方いつになったら、プレゼントを頂くまえに、または催促の電話が来る前に、自分の誕生会を率先して行う気分になるのだろう、自ら誕生日を祝う日が来るのだろうとも思いながら。 

I giorni dell’abbandono  

2006-02-19 06:31:42 | 映画
イ ジョル二 デラアバンドーノ

マルゲリ-タ・ブイ、ルカ・ジンガレッティ主演、エレナ・フェランテ同名の原作のロベルト・ファエンツァ監督2005年公開映画。(www.medusa.it/igiornidellabbandono)近頃DVDレンタルが開始。Le fate ignorante(レ・ファテ・イニョランテ)に出演していたマルゲリ-タ・ブイは、感受性が豊かという印象だった、彼女の声のトーンも低めで好み。

舞台はトリノ、主人公のオルガは子供二人とエンジニアの夫を持ち、郊外の手入れの行き届いた立派な家に犬を飼って住んでいる。ある日突然夫が理由を一言も説明せず家をでていき、その日から彼女は精神的、肉体的な平衡感覚を失っていく。翻訳家で分別も理性もあり母親としても妻としても何も問題はないはずだった大人の女性だが、その日から予想しない衝撃と孤独が彼女を襲う。

イタリア現代映画は撮影した街の様子やその時の時代背景が上手く撮れているので、観ていて楽しく、イタリアの街はどこもフォトジェニックだなと感ずる。ジョッギングや犬の散歩ができる公園があり、街を流れる川、そこに架る橋、ジプシー、そして住んでいる家は石造りの外観は変哲もないけれど、入り口を入ると、鉄の手すりのついた長い階段のある集合住宅、住宅の内装は広くモダンで、趣味の良い絵画や家具が置かれている。

後で地図をみたら、トリノの街はかなり広そう。ヴァレンティーノ公園がポー川沿いにあり、公園の向こうは湖にも見えたくらい、ポー川はかなり大きいと想像できる。モダンなショッピングゾーンもあるようだし、今までフィアット社のある街(工場は郊外にあるらしい)そして今年冬季オリンピックの開催地という程度しか知識がなかったけれど、機械産業が発展しただけのこともあって、活気がありモダンという印象。

いかにも現代らしいのは、日常生活での『電話』との密接な関係。何年か前のイタリア映画は、四六時中相手の状況を無視して生活に介入できる便利な通信機能、携帯電話がよく登場していて、慌しいイタリア社会をさらに騒々しく効果的に表現していたけれど、今回はテレビ電話(家庭用固定型)が登場する。

これはイタリアの電話会社のCMで登場していたのと同じタイプ、もちろん使用する両方で持っていることが原則、相手の顔が見えるという電話で、受話器を持たず画面に向かって話すのだが、こういうのも状況次第で相手が見えないほうがいい場合もある。主人公の母親との会話で自分が打ちひしがれていることをなかなか言い出せず、また酔っ払っていることも全く隠すことができない。受話器を持たず、電話の画面に向かって怒ったり、泣いたり叫んだりする。

それから家の電話がつながらない時に限り、携帯電話は壊れている。確か憤りのあまり、投げつけ、壊したと記憶している。公衆電話で電話会社に連絡をしても、オペレーターが埒のあかないアドバイスをする云々。イタリアではありがちである。そしてその時に限って外部との連絡が必要になる出来事も発生する、、、

この一人の女性の打ちひしがれている様子は、傍からみると時に可笑しい、大人でもこれほど理性を失うものなのかと。また、ひとりになって初めて信頼関係の虚像、既に成熟し自立しているはずの女性のもろさが浮上する、あるいはその渦中で自分では気がつかない。

イタリア現代映画は、どこにでもいそうなイタリア人達を観察することが出来る。こんな時イタリア人はこう怒る、こう悲しみ、喜ぶ、楽しむなど『感情に対して反応する』というところ、なるほどと思う。

日本で公開するのだろうか。映画のなかでイタリア人達の吐く強烈なパロラッチャ(悪口雑言)はどうやって日本語にするのだろうと、観る度に余計な心配してしまう。

トリノ冬季オリンピック開幕

2006-02-13 17:21:59 | Weblog
オリンピックが始まりました。開幕式のスペクタクルな様子は、もちろん会場に居る臨場感には及ばないだろうけれど、テレビ放映でも充分見ごたえがあるものでした。きっと他国でも時差を気にせず生中継を追っていた人も多かったに違いない、その価値は充分ありました。開幕式当日出張していたグレッグの為に録画したので、翌日また見てしまったけれど、再度感動しました。

イタリア人って愛国心があり、イタリア人であることを誇りに思っているんですね、それに団結力がすごい。団結して、自分達をすごく上手く表現する能力に長けている。こんな風に国を上げて世界中の人々に自分の国をアピールする機会があると、その能力を十二分に発揮し、期待を裏切らずに感動させてくれるし、歓迎の仕方に包容力がある、と思ってしまう。

録画をグレッグと一緒に見ていると、大抵『どうだ、イタリアは、すごいだろう、、』なんていう態度でとても満足そうなのだ。実際、納得。

特に冬のスポーツということで、イタリア参加選手の約半分はトレンティーノ・アルトアディジェ特別自治州出身だから、なおさらちょっと誇りに思っているのだ。でもそのほとんどがトレンティーノでなくアルトアディジェ(ボルツァーノ)県出身なのだが、こういう時だけトレンティーノ・アルトアディジェと地元意識が芽生えるのがイタリア人特有。

この開幕式で私が特に気に入ったのは、フトゥリズム(未来派)の演出。ルネッサンスを追いかけすぎた個人の好みもあるが、この攻撃的な流行(過去における)は新しい時代に対するいかにも挑戦的な感じがするのが良い、と近頃思っているので余計気に入ったのだ。20セント硬貨の裏のデザインにもなったボッチョーニの彫刻は躍動感があって、調和のとれた美があるのだが、それを再現して、未来のロボットにも見えるこの巨大な塊を相手に踊る男性ダンサーもしなやかだったし、加わった7名によって構成された巨大なバレリーナたち、彼らの衣装も大胆で、とてもよかった。

ちなみに、このボッチョーニの彫刻は『Forme uniche nella continuità dello spazio』というタイトルがついていて直訳すると『空間の連続性における一対の像』というようなことですが、タイトルもその姿が要約されているし、硬貨や写真で見る限りはあまり気がつかないけれど、巨大になると斬新に彫られているに違いないことも想像できるが、なお一層調和が取れていて、どの角度から見てもエネルギッシュで大胆不敵。

それと日本人としては、ヨーコ・オノの平和へのアピールの出演は大歓迎だった。日本以外で生活していると、『平和』について考えさせられる場面によく出くわすことで、彼女が故ジョン・レノンとともに平和運動に貢献することは、ごく自然な行動だろう。

最後にパバロッティがオペラの一場面を歌って締めくくったとき、イタリア色の濃い開幕式になったということをアナウンサーがコメント、イタリア全ての人が満足したと想像できる。

パバロッティはイタリアが世界に誇る人物のうちのひとり。この言葉の勉強を始めてまもなく、テキストに彼の私生活の記事が紹介されていたほどで、オペラ以外の曲をTV番組などで聴く機会や、それ以外の活動に対しての報道が多く、有名すぎるために今まであえて触れたくなかったオペラ歌手である。でも、実際実力があるのだなぁ、当たり前か。これほど良い気分にさせてくれる上手い歌手なら、これから積極的に彼のオペラ曲を聴いてみようとつい思いました。認められるにはそれなりの理由があるってことでしょう。

こちらでは日本の選手については話題が乏しいために、すっかりイタリア側にまわって応援してしまいそうです。なんたって半分は地元トレンティーノ・アルトアディジェ出身ですから。


再会

2006-02-10 07:47:34 | Weblog
ある日街の図書館へ出掛けると、新書出版発表会のチラシが置かれていて、ふとこの著者の名に目が止まった。覚えがある名前だったからだ。発表会はその翌日で、午後の用事を済ませてやっと間に合うくらいの時間だ。

まさか、と思いながら住所を探してその出版元へ足を運ぶ。迷ったのでもう発表会は終わりかけていたが、でも外から覗いたときに彼女だった。思いきって満席の会場の後ろから、そっと入った。彼女は私に気がついたようだった。ああ、彼女だ。

以前の勤務先の元同僚で、部署は違ったがなんとなく個性的な様子で、外人の私にも割と平気で話しかけてきた。違う州で毎年アジア映画祭が開かれるのだけど、日本や中国、韓国映画も観たことある、それに時々俳優たちもくるし、東洋の映画も面白いなどと、コーヒーの自動販売機の前で会うと二言三言話すうちに、他の同僚たちが来て、機関銃のように喋り始めあっという間に会話を奪ってしまったものだった。

時々彼女が私達の部署に来て、一人の同僚と話しこむこともあったが、日本人としてはあまり話しに割りこまない習性だし、あえて話しの内容も聞き耳を立てる趣味もない。まあ、映画の話しとか休暇の過ごし方とか、他愛のない話のようだったし。

かなりの人数が勤務していた事務所だけれど、特に外人の私に話しかけるということは何かない限り誰もしなかったし、同じ部署の同僚を除いては、引越しをする前に同じビルで働いていた仲間が会えば挨拶を交わす程度、私のほうも、自分が満足にイタリア語が使いこなせないことで、ついコミュニケーションに消極的になってしまうのだった。同じ部署の同僚はそれこそ、ひとりが話し終わる前に、他の同僚が競って話すという具合で、口をはさむ余裕がない程、しかもかなりの早い口調で皆がお喋りするのだ。私が話し始めると、急に会話のテンポが遅くなるのが明らかで、それが自分でも嫌でつい聞き役に回ってしまった。私の消極性もそうだが、他愛のない話にも神経を集中することに少し疲れていたし、誰かと仲良くなろうという目的で、自分から話す機会がなかなかなかったのだ。

まもなく、彼女が同じ階で働く皆のところへ退職の挨拶に来た。彼女も契約職員で、解約期限前だったがローマでコースを取る為だと言っていた。そうこうしているうちに、私も仕事の契約期限が切れ、さまざまな理由で延長する交渉はせず、退職した。

元同僚とは退職後一年位は連絡も取り合っていたが、部署の拡大や人事異動などの理由で、私の勤めていた頃にあった、勤務時間中はおろか休憩も昼食も一緒というような、家族的な団結感は失われ、そのかわり、効率よく仕事をするための配属や雰囲気、リズムができているらしい。皆良い同僚達だったが、私の方からわざわざ連絡するほどの郷愁はないし、彼らもそれほど私に構っている時間もないらしい、ほとんど街で偶然出会わない限りご無沙汰している。

先に退職した彼女とは休暇でローマから実家に戻って来たときなどに、偶然会うこともあった。仕事中は太いふちの眼鏡をかけて髪を後ろにまとめていたので、それほど気がつかなかったが、後日久しぶりに会うと、肩の下まである黒いちぢれ毛をおろし、眉毛もしっかり太く目の色もまつげも濃い、南部出身とも思わせる顔立ちで、実際両親はプーリアの人らしい、わずかな化粧でラテン系の美しさが際立った。意外と綺麗な子なんだ、なんて思ったこともあるので、ローマで劇場の勉強をすると聞いたとき、てっきり舞台に立つ側だろう、と勝手に想像していた。人は意外なことを目指しているものだ、とも。

3年ぶりくらいだろうか、私たちは元同僚になってから。
彼女は今こちらに戻り、劇場について高校で講義をしているらしい。近代文学史を大学で専攻、ローマで劇場史、シナリオ学を学び、今回小説を書いた。本のカバーの後ろには簡単な履歴が掲載されており、年齢も随分若いことがわかった。それで他の同僚より、ちょっと好奇心が強いという印象だったのか。

著者後書きには、今まで誰も書いたことのない題材で小説を書きたかったということや、今まで関わり合いのあった人々、音楽、絵、土地、映画など、生物から、静物まで、小説を書きたいという衝動にかられるきっかけとなった出会いに対して、ありとあらゆる固有名詞を挙げてお礼を述べていた。

こんなふざけた後書きもなかなかお目にかかれない。私がいつも気になって、いつか話したいと思っていた理由が、ようやくわかったような気がする。ちょっと独創的なのだ。それでどこかでちゃんと覚めた、洒落が効いていて、筋の通った彼女だったのだ。

もちろん、小説を読み始めるのはこれから。後書きを読む限りでは、彼女の外観にも似た個性的で洗練された、絵画を観るような文章が楽しみである。

la finestra di fronte ラ・フィネストラ・ディ・フロンテ

2006-02-09 16:47:26 | 映画
近頃にわかに忙しく、ブログも滞りがちである。

以前観た映画の覚書です。最近TV放映された時は見逃してしまった。イタリア映画日本でもボチボチ普及しているようですね、観る機会もあるかもと思い、載せておきます。

監督 Ferzan Ozpetek 
出演 Giovanna Mezzogiorno・Filippo Nigro・Raoul Bova・Massimo Girotti ecc.

<ストーリー>
ローマ郊外に住む子供が2人いる結婚十年を過ぎた若いカップル。 夫は失業後、夜の交替勤務、妻は町工場で働きながら、夜は友達 の経営するパブに手作りのケーキを売っている。実際彼女はかつてケーキ屋 を開くのが夢だったのが、現在は他のことに追われてその夢も遠い生活。ある日ふたりで町を歩きながら、 見知らぬしかも記憶喪失の老人と出会い、この不思議な老人を家に連れて帰り暫く 過ごすうちに2人の人生が根本的に変わるきっかけをつくることになる。少なくとも彼女の人生はこの出会いがきっかけで変わっていく。

<映画の感想>
l'ultimo bacioの時も可愛かったけど、ジョヴァンナ・メッゾジョルノが典型的な現代イタリア人女性っぽくて良かった。ちょっと喜怒哀楽が激しくて、一生懸命で早口。住んでいるアパートの間取り、彼女の勤めている工場、いつも行くピツェリア、友達などの設定がイタリアのどこにでもいそうな30代の若いカップルで、その多くが日常抱えている小さな問題をその環境で知ることができる。

ラオウル・ボヴァはイタリア人としては控えめな印象を受ける、端正でアクがあまりない、実生活でも人も良さそうと思わせるけれど、俳優としては今回の役柄は独身の銀行員役で少し地味で、(だからぴったりなのか)ダンナ役のフィリッポ・二ーグロの方が断然イイ。役柄は冴えないけれど、意志の強そうな目と目鼻立ちの良さが引き立つ形の良い頭(あくまでも好みの問題であるが)。

話しはそれるが、彼は若い俳優で、すっかり髪を剃ってしまっているのに、決して威圧感がなく、その顔立ちは、彼のうちにある活力がにじみ出る力強い美しさがある。そしてほぼ左右対称で美しい。特に頭部の形がやはり東洋人とは違う、後頭部が発達しているので、奥行きのあるおうとつのある美しさである。イタリアには美男美女が多いのは本当だ、Gメッゾジョルノもかなり綺麗なので、などど余計なことも考える。

後半は不思議な老人の過去や現在を追っていく。老人が特別な過去を持つ存在が、ジョヴァンナの人生の転機に影響を及ぼしたのだろうか、幸運にもこの老人に会えた彼女は人生を変えることに成功したのか。あるいは人生で難しい時期にいる時、関わる人々が、誰であれ自分の変わるきっかけの要因の一つになりうる? とすると、自意識が関わる人間関係に影響を及ぼす?