バッテン長崎の人

長崎の良いところ発信、植物観察、旅日記、日々感じること、自分での新発見、写真付きで日記や趣味を書く

今日、思うこと。

2015-12-31 00:49:37 | 思い出


東京で卒業して、初めてお正月を迎えたとき、嬉しい思い出がある。

70名ほど入社仲間のうち、4名が仲良くなった、いろんな思い出があるが

2日目の正月、その仲間たちがやってきた。

おせちの重箱とお酒を持って。これは私の生涯忘れえぬものとなった。

嬉しさは例へようもなく、心の中でずっと感謝してきて本日になる。今でもいい仲間に変わりはない。

今は3人は東京にて暮らし私は長崎で住む。

東京からよくわが家に遊びにやって来た。生涯の仲間の関係はまだまだ続く。

今日、年末の30日 昼まで寝てて1人の男がどがどがと、私の枕元にやってきた、山田さんもち持ってきたよと、山口君であった。

つきたての餅を持ってきてくれた。

何十年か前のあの日のことを思い出した。


仲間とはいいものだと、また嬉しい思い出ができた。

この一年、思えば仕事の依頼は一件もなく、国も、私も大変なときであった。

来る年が良き年になるように願う他はない。

やることはしっかり、やり、これからの時代に対処したい。

皆さ様のきたる年が良き年になりますように祈ります。



オーストラリア パースの思い出

2015-12-30 02:47:26 | 思い出


ある日旅の本を読んでいたら、オーストラリア

パースの絵が載っていて、フリーマントルの夕日が綺麗と書いてあった。

前に旅雑誌を読んでいたら、パースが地球上で一番綺麗な町であることが、書いてあった。

その言葉を信じ翌日、パースへ向かうう飛行機の中にいた。シンガポール経由で。

シンガポール空港で12時間も待たされたが、シンガポール空港チャンギはとても

お客を大事にして、いろんなものがあった、PCでも持っていれば何も退屈をしない。

インターネットが日本より進んでいて、空港内は自由に使用していいPCをあちこちに置いていた。

翌日、フリーマントルに向かった。私の泊まっていたホテルから約30分くらい。

日曜日でたくさんの人がいたが、昼はグルメのレストランをさがのに時間を使った。



写真のようにとても綺麗でしたが、写真を見るとわかりますが。

クルージングデナーの船がたくさん出てて、多少興ざめでしたが。

この旅は色々あり、楽しいことが沢山あったが、。

また、花見にまた行くつもり。


私の命

2015-12-29 02:31:01 | 人生


この12月、2015年の終わりに、また私死が挑戦してきた。ある会場で神父様の法悦を聞いていたとき、その話が終わるやいなや目を

開けたまま、気絶してしまった。後は救急病棟のっベッドで手当てを受け、目覚めた。

何故こうなるのか、私には分かっているようでわからない。生活のリズムが不規則がその起因ではと思っているが。



主治医曰 2~~3週間入院必要と、私には4日の入院しか許されなかった、仕事の重大打ち合わせで、退院すると命のほほうはしないと。

でも、仕事を絶たれると明日の小九時ができ無い。自分の命と処ごとの大切さと、もし死となれば人様に迷惑掛けたくはない、と

何度も、病気だからと、仕事をやってると、仕事に走る。



どうしても、あと十年は生きないと、癌と戦っている友人とそう約束してるから。

もう生きるの辞めると、その友人にメール入れたら、絶対生きれとすごい、勢いで怒鳴られてしまった。



もうすぐ2016年がやってくる。

その夜明けにかけて、生きる。



我が人生  初恋

2015-12-20 07:40:05 | 長崎物語




私の育った村には大きな川があり、前は豊かなる海、後ろは又っ自然に育まれた山々に囲まれていた豊かな村でした。

一生涯私の心を癒してくれる村です。何時も私の頭の中にはどこかにこの村へ繋がる不思議な赤い糸が繋がっています。

その村にはまだ水車がコトコトコットンと休まず働いていました。

主食は芋でしたが、今思えば健康な生活をしていたようだ。私はそれが苦手でした。

だが今思えば、楽しいおもいででもある。

おやつにはこと欠かなかった。山いちご、野生の梨、ぐべ、桑の実、川では川エビ、たくまエビ、うなぎ、毛蟹

海は鱚の隠れ日本一の有名なところで、ワタ火でも30cmクラスを20匹位は釣れていた。

もう一つ春の桜、特に八重桜、田んぼには蓮華草、なたねの花、書き出すとキリがないくらい、恵まれていた。





そんな村での私の初恋。私の一人芝居。

その女性は私と日にちを前後してこの世に生を受けた、名前もなにか不思議にに通っていた。

例へば利則、則子のよううな。

小学1年まで一緒ではあったが、私は話したことがあったか、不思議となんの話もしてないようで情けない。

その徐栄は私の家の下にあったのに。なんともおかしな話、その人を思うなら、行動を起こさねば、なんとも情けない男、私であった。



私の親兄弟と別れて、この村に住んでいた。その女性と遊んだ思い出もない。なのに忘れられない女性なのだ。

小学2年で私は両親のもとに帰ることになっていた。その女性に何も言えず私は両親のいる長崎へ帰った。

その後夏休みになると私はその村へ行っていたが、たぶんその女性とはあえなかた。中学2年までは毎年来ていたが会うことはなかった。

その女性の家は真下にあるというのに。がその女性は引越しをしていた。

中学3年の時、高校受験を終えまたこの村へやってきて、育ての親にお礼を言ってフェリーのでてる街に向かった。

その街で船に乗るまで時間があったので昼食をと思い食堂をあがしていると私がいた村の郵便局長に出会った。

局長は親類で私を見ると高校入学祝いをしようと寿司屋さんに連れて行って、なにか電話をしていた。

すると小学時代同級生出会った中村くんがやってきた、しばらくすると、多分5,6年ぶりに会うその女性であった。

郵便局長の計らいで図らずもその女性であった、美しいと思った、こんな女性だったのだと心揺れた。中村君とその女性っ坂本則子さんは

よく話していた同じ高校に合格したとのこと。女性とは顔を合わすこともなくその寿司屋を出てフリー乗り場へ向かった。

誰も見送りはしてくれなかった。私のだらし無さ、一言も話せず生涯を終わろうとしてる。そしてその女性の幸福な人生を思っていた。

さーもう新しい人生の始まりだと叫んだ。












これから先の私の生きて行く場所やいかに

2015-12-19 04:10:35 | 人生



この市場はも誰も商売してない、その昔繁栄した面影もなく、長い長いトンネルがあるだけ
人影もなし。

私がこの近くにいた頃は、私の妻はここの人たちと仲良くなって、よく買い物して帰っていたが、そんな思い出が

私を、寂しくかなしくしてる。妻がこの暗がりの中を歩いてるのを考えると一段と寂しさの中え突入する。



この市場のすぐ裏手に昌弥と言う居酒屋があってそこはかなり繁盛をしていた。

お客は警察、市役所の人達、女性にも人気でそれぞれに楽しんでいた、そこのマスターは腕がよくて

和風料理は天下一品で、長崎にはこの人の右に出る人はいなかったろう。
東京に出ても一流の腕を発揮したろうと思う。繊細で美味しい料理であった。

その彼も一大決心して街に店を移した、エリア的にはいいところであったが、彼は腕を磨いていった。

その結果は、商品が次第に高くなっていった。前の店に来ていた人は皆来ていたが次第に客離れが始まっていった。

彼は腕は日本一だったかもしれないが、経営は中の下であったのか、残念でならない思い出である。



今はもうどこにいるのかわからない。花一輪を手向けて、良き思い出ともお別れだ。

願わくばどこかで頑張っていて欲しい。