
この風景は戦前のパリはセーヌ河畔です。冬とはいえパリの中心部なのに人影は皆無です(タイトルクリックで画像拡大)。古い絵葉書の妖しい疑問・・・何故「人」がいないのか・・・当時の絵葉書の製作者は明らかに「人」を避けているフシがあります。逆に「人が沢山写っていたらどうだろうか」と考えてみます。そもそも「知らない人」には本能が緊張します。緊張が緩んでも次は好奇心です。・・・歩いている人は何を着て、それは何時頃の服で、何を持って、どこへ向かうのか・・・「絵葉書の時代背景」が特定されてきます。それは「ある時代の記録」になって、空想が入り込む「余地」は少なくなります。これはこれで探偵団的な楽しみですが、記憶の楽しみとは少し違います。我々が子供時代の昭和29年頃には「外国旅行」は夢のまた夢でした。この絵葉書が作られた80年以上前は更に「夢の夢のまた夢」だった筈です。このように考えると、当時の絵葉書は見る人をいっとき風景の中に取り込んで、好きな物語を想像させる「媒体」だったのかも知れません。「気を使う人はいません。貴方だけの舞台ですよ!さあ、いらっしゃい・・・」なんてメッセージでしょうか。
50年後の今日、誰もが簡単にこの場所に立つことができます。風景は当時と余り変わっていません。本当は第二次世界大戦で殆どの都市は爆撃で破壊されていますが、そこが文化の底力なのか見事に「昔」を再現しています。本来なら子供時代に繰り返し眺めてついに「記憶の一部」になった当時の写真風景の中に実際に立った時、「懐かしいな・・・戻ってきたよ・・・」なんて感慨に浸るところですが、何かが邪魔します。周りの観光客です。特に日本人でも居た日にはガックリきます。相手も同じように感じていることでしょうが、そんな「現実風景」が12年前のマルセイユで発生しました。
夏の午後、マルセイユ港は観光客があまり来ないレストランで食事を楽しんでいました。車(レンタカー)で旅をする最大のメリットです。「風景」にはまってうっとり地酒を味わっている時でした。いきなり爆竹のような乾いた音が響きました。銃声です。地元の人と我々は「ごく自然に」テーブルの下に身を伏せました。ただ一組を除いて・・・。「エッ~!何!」どう紛れたのか日本人のカップルが呆然とイスから立っています。「伏せなよ!」大声で叫んでも意味が通じないようです。幸い銃声はすぐ止みました。ニューヨークと違ってモロッコ系の麻薬売人が「あっさり降伏」したからです。テーブルの下に伏せていた人たちは「やれやれ」と言った感じで元のテーブルに着きます。立ち上がった新婚さんは自分達が呆れられていることに全く気づいていないようです。隣の地元漁師風のおじさんがウインクしながらグラスを少し持ち上げたのが印象的でした。「現実」はかくも「空想」の邪魔をするのでした。
50年後の今日、誰もが簡単にこの場所に立つことができます。風景は当時と余り変わっていません。本当は第二次世界大戦で殆どの都市は爆撃で破壊されていますが、そこが文化の底力なのか見事に「昔」を再現しています。本来なら子供時代に繰り返し眺めてついに「記憶の一部」になった当時の写真風景の中に実際に立った時、「懐かしいな・・・戻ってきたよ・・・」なんて感慨に浸るところですが、何かが邪魔します。周りの観光客です。特に日本人でも居た日にはガックリきます。相手も同じように感じていることでしょうが、そんな「現実風景」が12年前のマルセイユで発生しました。
夏の午後、マルセイユ港は観光客があまり来ないレストランで食事を楽しんでいました。車(レンタカー)で旅をする最大のメリットです。「風景」にはまってうっとり地酒を味わっている時でした。いきなり爆竹のような乾いた音が響きました。銃声です。地元の人と我々は「ごく自然に」テーブルの下に身を伏せました。ただ一組を除いて・・・。「エッ~!何!」どう紛れたのか日本人のカップルが呆然とイスから立っています。「伏せなよ!」大声で叫んでも意味が通じないようです。幸い銃声はすぐ止みました。ニューヨークと違ってモロッコ系の麻薬売人が「あっさり降伏」したからです。テーブルの下に伏せていた人たちは「やれやれ」と言った感じで元のテーブルに着きます。立ち上がった新婚さんは自分達が呆れられていることに全く気づいていないようです。隣の地元漁師風のおじさんがウインクしながらグラスを少し持ち上げたのが印象的でした。「現実」はかくも「空想」の邪魔をするのでした。