朝鮮半島初の稲作「再検証」~五千年前から稲作していたことを認めさせる作業開始

2008年04月13日 | 支那朝鮮関連
【韓国】 朝鮮半島初の稲作「再検証」~五千年前から稲作していたことを認めさせる作業開始[04/11]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1208011694/l50

http://www.gimpo.com/news/photo/15382-2-9137.jpg
イム・ヒョゼ教授・ユ・ジマン前文化院長共同の調査研究

金浦地域で今から「5千年前の朝鮮半島で初めて稲を栽培したという事実」を対外的に公式認証させるための基礎作業に取り掛かった。11日、イム・ヒョゼソウル大学名誉教授とユ・ジマン前金浦市文化院長が佳ヒョン2里コムル大川支流一帯で古代泥炭層採取作業に乗り出した。

イム・ヒョゼ教授は80年代ソウル大博物館館長に在任した当時、金浦佳ヒョン里泥炭層で炭化米を初めて見つけてここから出土した種もみが放射性炭素年代測定の結果、五千年前に生産された米であることを立証した張本人だ。ユ前金浦市文化院長は、文化院長在職当時の2000年、イム教授とともに佳ヒョン里炭化米に関連した学術大会を開催して国際的な注目を集めた事がある。しかし、調査範囲の規模が小さかったし、出土した炭化米が10余個しかなかったため、公式的な認証を受けられなかった。
(中略)
この日、着手作業で出土した泥炭は分析作業を通じて古代金浦市に生存した先祖の生活ぶりを把握する重要な資料として活用される。泥炭に混じっている過去の植物群や昆虫など生物群、廃棄物などを 分析して過去の気候条件や農耕生活方式などを調査して行く計画で、この日の作業では下層部に属する8層と9層で何回も種子と推定される物質が発見された。

この日出土した泥炭層は発掘調査チームによって1次分析された後、2次で植物学者などに依頼する計画だ。このような下調べ作業である泥炭出土作業は、本格的な農事の季節以前までずっと進行される予定で秋の収穫後、調査範囲を拡大して行く計画だ。

イム教授らは国際学術大会発表を目標にした今回の作業の最終仕上げまでは、最小2年余りの調査分析期間が必要となると見込んでいる。イム教授は去る1970年代、自分が直接発掘調査した驪州(ヨジュ)欣岩(フンアム)里で出土した紀元前10世紀頃の炭化米が公式の記録として認められているが、金浦地域で発見された炭化米はこれよりずっと先に進んでいると推定され、毎年金浦を訪問して泥炭層分析を実施している。

ユ・ジマン前文化院長は「日本の場合200余りの場所で泥炭層と農耕文化に対する研究が広範囲に進行しているが、我が国はあくびばかりしている状態」と言いながら無念さを 示した。「通津(トンジン)佳ヒョン里一帯の今から5千年ほど前の種もみは今まで韓半島で稲栽培が始まった時期として知られた千年をずっと上回っており、幅広い研究を続けなければならないだろう。」と述べた。

ソース:未来新聞(韓国語)韓半島初の稲作「再検証」受けて佳ヒョン里など
http://www.gimpo.com/news/read.php?idxno=15382&rsec=S1N2





岡山・6000年前の貝塚
縄文前期に本格稲作?
稲の化石大量出土

 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。

 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000?3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30?60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。

 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。

(2005年02月19日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm



日本人はるかな旅展 国立科学博物館
稲の道

稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれます。その後、稲作は、この地域から北上して黄河流域まで一部伝わり、さらに東進して朝鮮半島には約4000年前ころに伝わりました。日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の研究から有力です。ただし、最近では、稲のDNAの研究によって、中国中南部から直接渡来したという考えが提唱されています。なお、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつあります。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えられています。

(佐藤洋一郎「稲のきた道」より改編)

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-25.html




韓国人が食べる米の真実

日本に稲作が伝来した次期や経路は、不明確です。中国経由、沖縄経由、韓国経由など、諸説があります。
しかし、韓国人は、明確な証拠も無いまま「韓国人が日本人に、稲作を教えた。」と主張しています。
資料:「韓国が日本に稲作を伝え、弥生文化に大きな貢献をした。」
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?i=244847&v=46  (韓国語)

相変わらず、起源を主張することによって、日本文化の宗主国になりたがるのです。だが、そんな起源主張は、無駄なことです。証拠も無い起源妄想よりも、もっと厳然たる、歴史的事実があるのです。
即ち、現在、韓国人が食べている米は、朝鮮固有の米ではなく、日帝時代、日本人が人工交配で品種改良した日本米であるという事実です

日韓併合前の、朝鮮の米には、赤米(古代米)や石が多く混入していたため、日本では「人間の食べるものでは無い。」と忌み嫌われていました。
併合後、朝鮮に移住した日本人の地主達は、日本の米を導入し、日本の技術で生産を始めました。
日本米の生産が増加するに従い、朝鮮で生産された日本米の評判が徐々に上昇し、日本への輸出量が増えた結果、益々、日本米の生産量が増加していったのです。
その結果、朝鮮固有の米の生産は、淘汰されてしまったのです。

朝鮮で、最初に奨励された日本米は、「亀の尾」(kameno-o)という品種でした。現在、日本で一番有名なブランド米「コシヒカリ」の先祖の米で、1893年、阿部亀治が選抜した、寒さに強い米でした。
「亀の尾」で作った純米酒 マンガ「夏子の酒」のモデルとしても有名になった

その後、「交配」という品種改良技術が日本で開発され、「亀の尾」(kameno-o)と他の品種を交配させた結果、1921年、「陸羽132号」(rikuu132gou)が誕生します。詩人として有名な宮沢賢治(miyazawa kenji)が普及に努めた品種です。
資料:「陸羽132号の開発と、宮沢賢治」
http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/inasaku/jittai/syuryotokei.html

この美味しくて、病気に強い「陸羽132号」(rikuu132gou)が、朝鮮でも大々的に生産されるようになったのです。

【資料】 平安北道における、日本米の普及率の変化

1914年   0.1%
1920年   39.2%      「亀の尾」(kameno-o)
1930年   71.7%      「亀の尾」(kameno-o)
1940年   96.7%「陸羽132号」(rikuu132gou)

出典:『朝鮮総督府の米穀検査制度』著者:飯沼二郎 出版社:未来社  1993年発行 

日本の米の普及に加えて、日本の灌漑技術、肥料、耕作方法(正条植え)なども導入されました。即ち、独立直後の韓国では、日本の米を、日本の技術で作っていたのです。
日韓が分離した後、日本では、益々、米の品種改良が発達し、1949年、「亀の尾」の4代目の子孫となる「コシヒカリ」が開発されました。(現在、日本で一番生産されている、人気ブランド)

資料:「日本の人気ブランド米 ランキング」
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/brand_kome.htm

「コシヒカリ」の美味しさは、韓国でも人気が高く、現在、京畿地域に限って栽培が認められています。
?2006年1月、コシヒカリの人気を悪用し、「日本産コシヒカリ」という名称で販売されていた米の85%が、偽物であることが判明する事件が、韓国で発生しました。

(日本語)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/01/31/20060131000002.html
(韓国語)
http://www.chosun.com/national/news/200601/200601300285.html

現在、韓国人が食べている米は、朝鮮古来の米ではなく、日本人が導入し、日本人が技術指導した米なのです。米、焼酎、武道・・・・現在の韓国人の生活の多くの分野において、日帝時代、日本人から学んだ影響を無視、否定することは、不可能なのです。

【参考資料】
「韓国焼酎の真実」
(日本語)
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=33010&st=writer_id&sw=jion
(韓国語)
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=33010&st=writer_id&sw=jion

「韓国の国技・テコンドーの真実」
(日本語)
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=70061&st=writer_id&sw=jion
(韓国語)
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=70061&st=writer_id&sw=jion

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=33382


日本、支那、朝鮮の稲(遺跡出土品含む)のDNA型分類
http://inoues.net/study/japonica1.html
国家の出現に関連する日本と朝鮮の青銅器祭礼具の違いについての記述
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/goto.html






「7000年前の植物の根から発芽」と大騒ぎだったのに

7000年前の新石器時代の地層から出土された後、青い芽が出たとした話題となっていた品種不明の球根は、50年前の植物だったことが、9日に確認された。

 問題の根は、江原道襄陽郡(カンウォンド・ヤンヤングン)道路開設敷地から発掘調査中に出土した。全国の37の文化財発掘調査専門機関の一つで、主に江原道地域で発掘作業をしている(財)イェメク文化財研究院は今年4月4日「地下4?5メートルにある厚さ1メートルの青灰色砂泥層から6000~8000年前の新石器時代の土器などと一緒に出てきた」とし「よく保存された新石器地層から出土したもので、その時代のものであることに間違いない」と発表した。

 球根は、3つが茎でつながっており、うち2つから芽が出ていた。しかし9日、ソウル大基礎科学ユン・ミニョン教授は「イェメク文化財研究院の依頼を受けて、死んだ根1つに対し、炭素の放射性同位元素・C14の含量を分析したところ、年代が1957年±5年に確認された。これは、該当植物が50年前に死んだという意味になる」と述べた。

 測定に使われた機器は、韓国内に1台しかない最先端の加速器質量分析装置(AMS、Accelerator Mass Spectrometer)。一方、根を培養中の農村振興庁・作物科学院のパク・テシック博士は、この日「湿地に見られるカヤツリグサ科の多年生草本に判明した」と明らかにした。

趙顕旭(チョ・ヒョンウク)記者 2007.07.10 16:29:46
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=89165&servcode=400§code=410

韓国産清酒『百花寿福』~「日本酒は韓半島から伝来した酒」






【コラム】代案教科書に学界が反応しないワケ

 歴史とは時として無責任なまでに観念的だ。マイケル・グルーバーの最近の著作『わが骨を動かす者へ』(原題:The Book of Air and Shadows)に、次のような一節がある。「彼(教授)は、歴史には三つの種類がある、と言った。一つは実際に起こった真実で、これは永遠に分からない。もう一つは大方の人が真実だと思っていることで、粘り強い努力で復旧することができる。最後の一つは、権力を持った人物が後世をして真実だと信じさせようとすることで、本に載っている歴史の90%がそれだ」

 少し前、『代案教科書 韓国近・現代史』が出版された。執筆者代表の李栄薫(イ・ヨンフン)教授(ソウル大)は、現行の教科書がこの「90%」の歴史で満たされているとし、代案を送り出したわけだ。過去3年間、「復旧」の努力を続けてきたという「教科書フォーラム」の学者たちは、大韓民国の建国史に特に大きな自負心を持つ。そして、日帝強占期を抑圧(収奪)と闘争(抵抗)といった二分法だけでとらえるようなこともしない。さらにこの本は、20世紀前半期が「韓半島(朝鮮半島)で近代文明を学習し実践することを通じ、近代国民国家をつくり得る社会的能力が厚く蓄積された時期」(78ページ)だったとしている。

 すると、ある読者は「あなた方はそんなことをしてよいのか」と、胸ぐらをつかまんばかりの勢いで新聞に意見を送った。さらに教授の弟子の一人は、「(李教授に対し)あなたはもうわたしの師匠ではない」と叫び、電話を切ってしまったという。

 「代案教科書」に腹を立てる声は多い。ところで問題は、昨日今日教授を批判する学者にしても、また教授を応援する陣営の学者にしても、公式の声明は明らかにしていない、という点だ。なぜそれほどまでに静かなのか。こういうときはいったん「よく分かりません」と言い、盾の陰に隠れるのが世渡りというものだからか。さもなくば、朝が来るたびにその日の催しが変わる「総選挙マダンノリ(広場で行われる民俗遊び)2008年バージョン」に心を売ったためか。

より根本的には、韓国の学界と文化界に、果たしてこうした論争を受けて立つだけの体力があるのか、という疑問も浮かぶ。憲法上に「民族主義情緒法」を戴いている韓国の社会は、こうした論争を長く続けられるだけのルールを備えているのか。

 詩人のキム・ジョンファンは最近、ある季刊誌に「1998年、そしてその後10年の日記」という一文を寄せた。「…記者の数に比して紙面があまりにも多いメディア、俳優や作家に比べあまりに多いテレビドラマ、番組に比べあまりに多い放送チャンネル、読者に比べあまりに多い作家、特に詩人と随筆家、そして児童文学家、展望力に比べあまりに多い政治家…」

 学界も同様だ。コンテンツを満たしていく力量に比べ、器ばかり大きくし、それに固執している状態ではないのか。「90%」の歴史がつくられている間、基礎体力は落ちていき、ポーズばかり取るようになった側面もある。現場確認、韓国語への翻訳作業、資料調査といった基礎固めに比べ、机上の空論にばかりたけている人物も極めて多い。

 メディアが学界より上だというわけではない。言論人ニコラス・レモンは言う。「記者が取材し報道することの99%は、世の中で実際に起こったことの1%にすぎない」。告白するにわれわれは、1920年代に生まれた、日帝末期を分別ある大人として生きた人々の話すら、しっかりと受け止め記すことができなかった。「歴史的事実を正面から見つめるためには」基礎体力が必須だということを、十分に理解していなかったと反省する。

 もちろん、学者は慎重でなければならない。そうはいっても、「90%」の歴史が青少年に教育され続けているとしたら、これに対して何か声を上げなければならない責任が彼らにはある。これには、「代案」に対してまた異なる「代案」が出ることもあり得る、ということも含む。今こそ始まりだ。「実際に起こった真実」は分からないとしても、「大方の人が真実だと考えていること」を探すためならば、その道がどれほど遠いとしても、今すぐ踏み出さねばならないのではなかろうか。

キム・グァンイル文化部長
http://www.chosunonline.com/article/20080410000057

主要事件を見る「代案教科書」の視点
http://www.chosunonline.com/article/20080410000052







【韓国】日本の文化は全部、我が国が伝授したもの。シンガポールのリー・クアンユー元首相も同じ意見だ ★4 [04/13]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1208091860/-100

■<特別寄稿> 「60年間の歪曲記述、歴史教科書を変えよう」

もう政権も変わった。新しい雰囲気で新しい時代を開くと言う。そうであれば何よりもまず、我が国民に矜持と自負心を与えるのにとどまらず、60年間も歪曲されて嘘が記述された歴史教科書を新しく変えなければならない。<中略>

隣国である日本の歴史には、古代にまで遡るほど、すべての部分にわたって我が民族の歴史が現れる。その理由は、我が民族が日本を作ったからでもあるが、日本のすべての文化が我が方から伝授されたものであるからだ。

シンガポールのリー・クァンユー元首相の自叙伝には、「日本は全アジアを手中にして、日本化することに成功した。しかし唯一、一番たくさん苦しめて植民地政策に努力したKorea だけは失敗した。韓国の人々の名前までも日本名に変えて激しい苦痛を与えたにもかかわらず失敗したのだが、その理由はとても簡単だ。『水が上から下へ流れるのが道理であるように』、韓国のすべての文化を受け継いだ日本が文化伝授国の韓国を統治しようとしても水が下から上へ流れられないのと同じ道理で、失敗するほか無かった」と書かれている。韓国と日本の歴史と文化をどれほど正確に把握していたか、この一言によって私たちは知ることができる。

日本が様々な手段と方法をすべて動員して、韓国人同士がお互いに信頼できないようにしてきた後遺症が今でも残っているとしたら、それは朝鮮総督府が試みた「朝鮮史編修会」による国史歪曲の結果だ。このような歴史歪曲は、中学・高校・大学の国語と歴史の教科書にそのまま収録されて教えられてきたため、国民精神が曇って人間性が荒涼とするほかなかったのだ。<中略>

光復後60年を経て国土は回復したが、精神はいまだに植民地史観を脱せず歴史歪曲が教科書全体に堂々と記録されているせいで、相互不信の風潮ばかりか互いを陰湿に攻撃する水準に至ったのだ。

また、自虐的で卑屈になる姿勢も見えている。「葉銭根性」(訳注:「葉銭」は「因循姑息な朝鮮人」の意)、「いとこが田を買えば腹が痛い」(訳注:他人が自分より良くなるのを見ると気分が悪い、の意)といった植民地統治用の用語は、既成世代が責任を持って無くさねばならない。我々の子孫たちがより良い条件で正しい国史を学べるようにしてあげねばならないし、絶対に偽りの歴史を学ばせてはならない。幸いなことに最近の若い人たちは進取的・論理的で、学問を深く研究しているから、国家の将来に希望が
見える。

我が国の憲法にも書かれているように悠久の歴史と伝統を持つ文化民族なのだということを、教科書に記載して正しく教えるだけで、国民の矜持と自負心が自然に生ずるで
あろう。<後略>
【姜ドンミン/韓民族文化研究院理事長】

▽ソース:ブレイクニュース(韓国語)(2008/04/13 10:17)
http://www.breaknews.com/new/sub_read.html?uid=80024§ion=section14



リー・クアンユー - Wikipedia

人種差別への反対とジェンダー・フリーを唱える傍ら、自らの保身と自国の経済的発展を何よりも優先し、国内における報道や発言の自由を規制したほか、早期選抜や、大卒女性の出産を推奨するなどの優生思想に基づく選別的な教育制度を実践した。 なお、天安門事件における中国政府の武力制圧を「私でも同じことをしたであろう」と支持した。

・ 1923年 イギリス植民地下のシンガポールの英語を話す客家系華人の家に生まれる
・ 1950年 シンガポールに帰国、弁護士活動開始。
・ 1952年 労働組合運動指導者となる
・ 1994年にイグノーベル賞心理学賞を授与した。



日本の繁栄に驚愕する朝鮮痛心士の記録

朝鮮通信使、金仁謙(Kim In Kyeom)の著書『日東壮遊歌』
http://enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=99169
日東壮遊歌以外の朝鮮通信使の記録に見る日本の繁栄の様子
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=69833
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