袋井の偉人「鳥居信平」 エコ先駆け『奇跡』のダム 再評価され台湾から胸像

2009年06月28日 | news
袋井の偉人「鳥居信平」  エコ先駆け『奇跡』のダム
2009年6月28日

再評価され台湾から胸像
鳥居信平

 6月上旬、袋井市役所に突然、台湾から厳重に梱包(こんぽう)された荷が届いたと聞き込んだ。袋井出身で、大正時代に台湾の水利に尽力した鳥居信平(のぶへい)の胸像という。ん? 台湾当局などが日本統治時代の日本人2技師の技術を生かし、海岸緑化に成功した-という5日付本紙夕刊の記事にあったあの人か!

   ◇  ◇

 早速、市役所を訪ねると、日台交流に努める市議の山本貴史さん(39)を紹介された。「僕も最近まで信平氏について全く知らなかったんだけど」と、山本さんは「水の奇跡を呼んだ男」(産経新聞出版)を取り出した。台湾に詳しいジャーナリスト平野久美子さんが信平を初めて紹介したという新刊本だ。

 信平は1883年、周智郡山梨村(現在の袋井市上山梨)に生まれた。金沢の旧制4高、東京帝大農科大学で学び「台湾製糖」に入社。1914年、サトウキビ栽培拡大の命を受け日本統治下の台湾に渡った。

 最南端の屏東(へいとう)県で21~23年、急流の川床にせきを埋め、苦難の末に伏流水を利用した地下ダムを造った。ダムは周辺の環境を大きく変えることなく農業用水と飲料水を安定供給し、広大な荒れ地を豊かな大地にしたという。

 彼が生まれ育った袋井市上山梨へ向かう。緑の映える水田に囲まれた地で、横井村主さん(71)に会った。「南極越冬隊長を務めた地元ゆかりの英雄で、昨年亡くなった鳥居鉄也さんを知ってますか」と、意外な質問。2人とも探求心に満ち、同じ姓。もしかして…。「そう、信平氏は鉄也さんの父親。私も今回初めて知った」

 信平が日本で没したのは46年。今ごろになっての胸像の寄贈は関係者にも、降ってわいたような話だったらしい。胸像を受け取ってほしい、と台湾側から連絡があり、よく分からぬまま昨年11月、山本さんや横井さんら地元有志8人で現地を訪れた。
 一行を待っていたのは“熱烈歓迎”。李登輝元総統や、台湾経済界の重鎮許文龍氏、屏東県長(知事)と、どこに行っても信平の偉業に称賛が続く。台湾では養魚場が急増した80年代から地盤沈下が深刻化し、伏流水を使った信平のダムは環境への優しさが注目を集めた。ダムは土木遺産に指定され、現地の学校の副教材にも登場。彼の情熱や功績をあらためてたたえる機運が盛り上がり、現地から古里への感謝の印が胸像だった。

 一行はダムにも足を運んだ。緑の山並みから流れ出る清らかな川、整備された用水路、そして下流域一面に広がるバナナやマンゴー園…。「信平氏は遠い故郷の風景を重ね合わせていたのかも」。昔から周囲の田畑を潤してきた太田川の流れる上山梨の風景にどこか似ていたという。

 穏やかなまなざしで遠くを見つめる胸像は2つ作られ、現地のダムと上山梨に置かれる。7月12日に披露され、80年の時を超えた袋井と台湾の交流が新たに語り継がれるはずだ。 (袋井通信部・夏目貴史)

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20090628/CK2009062802000165.html




邦人2技師の発想応用 台湾の海岸緑化に成功
2009年6月14日 朝刊

 【台北=栗田秀之】日本統治時代の台湾で水利事業に尽力した日本人2技師の技術を生かし台湾経済部(経済省)水利署と甘俊二台湾大名誉教授(71)が海岸の緑化に成功した。甘教授は「深刻な地球温暖化が進む中、80年前の発想が未来を開きそうだ」と、大きな期待を寄せている。

 2人の技師は、金沢市出身で台南県に烏山頭ダムを建設した八田與一(よいち)氏(1886~1942年)と、静岡県袋井市出身で、南部の屏東県に地下ダムを築いた鳥居信平(のぶへい)氏(1883~1946年)。2人が1920~30年代に手がけたダムは、広大な荒れ地を豊かな大地に変えた実績がある。

 豊富な伏流水を農業用水の水源として貯水する地下ダムと、堤防の中核部にだけコンクリートを使い周りを不浸透性の高い粘土で固める烏山頭ダムは、当時としては最先端の工法で造られた。
2つのダムの原理を応用して緑化された砂浜(後方)を指さす甘俊二台湾大名誉教授=台湾苗栗県で(栗田秀之撮影)

 沿岸部の緑化に取り組んでいる甘氏は、烏山頭ダム技術の応用で海岸内陸の水田から流れてくる伏流水をためれば緑化に役立つと判断。台湾北西部の海岸で昨年5月、粘土を主体とした高さ2メートルの“地下ダム”を砂浜に埋め込み植樹した。

 水やりはしなかったが成長の早い樹木は、60センチほどだったのが1年後には2メートル近くに成長した。甘氏は「台湾をはぐくんだ日本人の知恵が、砂丘や砂漠の緑化など地球規模で広がるのも夢ではない」と話している。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009061402000155.html








胸が痛い日本への愛憎 『台湾人生』
2009年6月23日
 台湾が日本統治下だった時代に青春期を過ごした、5人の「日本語世代」の今を追うドキュメンタリー。彼らの口から語られる、日本に対する愛憎に胸が痛い。
 貧しさから中学退学を考えていたという宋定國さんは、5円札をくれた日本人教師が今も忘れられないという。その一方で、ビルマ戦線で戦った台湾人日本兵・蕭錦文さんのように「私たちは日本に捨てられた」と抑えきれぬ感情を吐露する人もいる。
 旧日本国籍者に対する戦後補償は今も両国にまたがる問題だ。酒井監督は「日本語世代の存在は、台湾だけでなく日本の歴史の一部として記憶されるべき」とカメラを回したという。
 筆者も取材で台湾を訪れた時、中年男性に日本について尋ねてみたことがある。彼は幼少期、両親が日本語を話していたこともあり親しみがあるが、統治下時代の話はあまり聞かされてないという。日本語世代が高齢となった今、これは台湾にとっても貴重な記録となりそうだ。★★★★★(中山治美・筆)

 【データ】
監督:酒井充子
撮影:松根広隆
音楽:廣木光一
6月27日(土)より全国順次公開
(共同通信)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146252-storytopic-137.html




台湾人生 公式サイト
制作:協映 支援:文化庁 配給・宣伝:太秦
http://www.taiwan-jinsei.com/


【イントロダクション/解説】

台湾が日本だったころ・・・
 台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの51年間、日本の統治下にあった。日本は欧米への対抗意識もあり、台湾のインフラ整備や教育の普及、治安の維持に力を注いだ。また、同化政策により、台湾での学校教育は日本語で行われたため、この時代に学校教育を受けた世代は日本語を話すことができる。いわゆる「日本語世代」と呼ばれる人々である。本作の出演者たちも、日本統治時代最末期に日本語教育を受け、日本人として生きていた。第二次世界大戦の戦況が厳しくなると、台湾でも志願兵制度に続き徴兵制度が布かれた。台湾の軍人・軍属は約21万人を数え、そのうち約3万人が死亡。また、台湾の主要都市もアメリカ軍の空爆の標的となり、市民の死傷者・行方不明者は1万5千人にのぼった。やがて日本は敗戦、大陸から来た蒋介石の中国国民党が台湾統治をはじめたが、二二八事件や白色テロなど、激しい台湾人弾圧が行われた。さらに台湾語、日本語の使用が禁じられ、日本語世代は長い間口を閉ざさざるを得なかった。1972年、日中友好条約の一方で日台の国交は断絶したが、民間レベルの交流は今なお強固なままである。その根幹は日本語世代の担うところが大きかったが、時の流れとともに世代交代が進んでいる。
 激動の歴史に翻弄されながらも、人生を力強く歩んできた5人の日本語世代たちの日々の暮らしの様子を交え、日本統治時代、戦後の国民党独裁時代を経て現在に至るまでの人生をインタビューで振り返る。台湾の最も波乱に満ちた時代を生きた日本語世代が、自らの人生を振り返るときに語る言葉とは?。
 本作品は酒井充子監督の初監督作品である。新聞記者を経て2000年からドキュメンタリー映画の制作および劇映画の制作、宣伝に関わりつつ、本作品の構想を練ってきた。台湾との出会いは1998年、1本の台湾映画に触発され、台湾を訪れた時に始まる。このときの、いわゆる日本語世代の老人との出会いが、のちの映画制作の原点となった。本格的に取材を始めたのは2002年から。足かけ7年におよぶ取材活動中に、病に倒れたり、鬼籍に入った人もいる。映画を通じて台湾のことを広く知ってほしいという強い思いが、限られた時間の中で再三訪台し、カメラを回す原動力となった。新聞記者時代に培った機動力と深い洞察力で、台湾と日本の忘れてはいけない歴史を浮き彫りにする。

【ストーリー】
 台湾が日本統治下にあった時代に青春期を送った5人の台湾人のいまを追う。霧に包まれた茶畑で茶摘みに精を出す楊足妹さん(1928年生まれ)。故郷の友人たちを訪ねる旅に出る台湾原住民出身の塔立國普家儒漾さん(1928年生まれ)。地元の公学校(小学校)の同窓会で威勢よく校歌を歌う陳清香さん(1926年生まれ)。元日本兵でボランティア解説員として台湾の歴史を伝える蕭錦文さん(1926年生まれ)。日本人教師への感謝の念を抱き続ける宋定國さん(1925年生まれ)。舞台を、台湾東部の花蓮縣瑞穂郷、台北、高雄、南部のクスクス村、基隆、日本の千葉県鎌ヶ谷市に移しながら、彼らの日々の暮らしの様子を交え、日本統治時代、戦後の国民党独裁時代を経て現在に至るまでの人生をインタビューで振り返る。

【監督メッセージ】
 台湾の日本語世代のみなさんにお会いするたびに、背筋がピンと伸びる思いがし、自分が日本人であるということについて考えさせられます。日本に統治されていた時代に多感な青少年期を日本人として過ごした日本語世代の存在は、台湾だけではなく、日本の歴史の一部として記憶されるべきだと思います。
 彼らは日本に対する複雑な思いを抱えたまま、長い道のりを歩んできました。その思いに向かってカメラを回しました。五人の登場人物へのインタビューはすべて日本語です。みなさんは、繰り返し問いかける私に根気強く向き合い、優しくときに厳しく語ってくれました。
かつて日本人だった人たちの声を聞いてください。ほんの一部ではありますが、日本が台湾でしたこと、今の日本が台湾にしていないことが浮かび上がってきます。そしてなによりも、時代にとらわれることなく、自分の人生に誇りを持って最後まで生き抜こうとする一人ひとりの姿を、尊敬の念を持って受け止めていただきたいと思います。

酒井充子
http://www.taiwan-jinsei.com/work.html



登場人物

楊足妹さん
 花蓮縣瑞穂郷の楊足妹さん(1928年生)は、日本時代、日本人が経営するコーヒー農場で働いた。幼い弟の守りをするために小学校を1年で辞めた。たどたどしい日本語は、コーヒー農場で覚えた。子供のときから仕事一筋で生きてきたヤンおばさんは、いまでも現役で茶摘みをしている。ひとり暮らしの家には、年に一度、旧正月のときだけ、子供たちが家族とともに帰ってくる。それを楽しみに今日も茶畑に出かける。

塔立國普家儒漾さん
 台湾原住民・パイワン族出身の塔立國普家儒漾(タリグ・プジャズヤン)さん(1928年生)は、原住民の権利確立を目指し、立法(国会)議員を15年間務めた。末期ガンを患っているタリグさんは、高雄の三男の家を拠点に、南部の故郷と友人たちを訪れる旅に出た。友人たちを相手に日本語で語り合ううち、戦後30年も経って台湾に戻ってきた元日本兵の話になった。昔から原住民が置かれている状況を振り返り、積年の思いを吐露する。

陳清香さん
  「二十歳まで日本人だった」という陳清香さん(1926年生)は、同世代の夫との会話はいまも日本語だ。基隆の公学校の同窓会では、みんな日本語で校歌を歌った。クラス一おてんばだった陳さんは、当時、台湾人はなかなか行けなかった女学校へ進学。茶道や華道など日本人としての作法も完璧に身につけていた。「男だったら特攻隊に志願した」と言い切る度胸はいまも健在で、「台湾人の国」建国を目指して運動している。

蕭錦文さん
  蕭錦文さん(1926年生)はビルマ戦線で戦った元日本兵。台湾総統府と台北二二八紀念館でボランティア解説員を務めている。観光に訪れる日本人には親しみを感じるが、日本政府に対しては納得していない。蕭さんは二二八事件で拷問を受け、白色テロで弟を亡くすという過酷な運命をも乗り越えてきた。今は、台湾や日本の若い人に歴史を伝えることが自分の役割だと思っている。

宋定國さん
  宋定國さん(1925年生)には、忘れることができない日本人教師がいた。公学校5、6年生の担任だった小松原先生だ。貧しさから中学退学を考えていた宋さんが先生のところへ相談に行くと、黙って5円札をくれた。涙をながしながら「絶対に成功します」と誓った宋さんは、卒業後、日本の海軍工廠に渡った。日本敗戦で台湾に戻ったが、十分なお礼もできないまま先生と別れ別れになってしまった。戦後三十数年たってから、やっと先生を探しあて再会を果たすも、すぐに死別。毎年日本の千葉県にある墓を参る。

http://www.taiwan-jinsei.com/cast.html


映画『台湾人生』初日決定!
http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=8357






2009.06.15UP

5月22日(金)酒井充子監督の7年に及ぶ取材『台湾人生』

 これまで観た台湾映画のなかで、特に印象に残っている作品の一本が、呉念眞(ウー・ニェンチェン)監督の『多桑/父さん』だ。これは、呉監督の父親の生きざまを息子の視点を通して描き出す自伝的な要素を持った作品だった。

 1929年生まれのこの父親は、日本の統治下で教育を受けた日本語世代に属する。そんな彼の生きざまを際立たせているのは、日本への憧れと猛烈な頑固さだ。

 彼は、日本の敗戦後も日本への憧れを持ち続け、家族には自分のことを日本語で"父さん"と呼ばせる。次男がテレビのバスケットボールの試合に熱中していると、日本に勝てるはずがないと言って息子を小突く。彼の望みは、死ぬ前に日本に行って皇居と富士山を見ることだ。

 彼は自分の思う通りにしか生きられない。息子を映画に連れて行くという口実で飲み歩き、職にあぶれると麻雀賭博に明け暮れる。肺を病んで闘病生活に入っても、アレが立たなくなるといって薬を飲まず、糖尿病を併発して甘いものを禁じられても隠れてむさぼる。息子が外省人(大陸出身者)の女性と結婚すると"外省"と冷たく当たる。

 そんな父親がだんだん魅力的に見えてくるのは、歴史と無縁ではない。日本が去ったあとの台湾には、大陸からきた国民党による弾圧と独裁が待ち受けていた。父親の日本への憧れや頑固な生き方は、独裁に対する反抗の表れでもある。

 酒井充子監督が7年に及ぶ取材を経て作り上げた『台湾人生』は、日本語世代に属する5人の台湾人のいまを追ったドキュメンタリーだ。彼らは流暢な日本語で、日本の統治や国民党の弾圧など、これまでの様々な体験を語る。5人のひとり、台湾原住民・パイワン族出身のタリグさんは、撮影の時点ですでに末期ガンに冒され、映画の完成を見届けて他界した。プレスによれば、彼の最期の言葉は日本語で、家族は誰も理解できなかったという。

 この映画は、高齢化が進む日本語世代をとらえた貴重な記録であるだけでなく、日本の近代を考える糸口にもなる。陳培豊の著書『「同化」の同床異夢??日本統治下台湾の国語教育史再考』(三元社、2001年)は、日本語世代を知るうえでとても参考になる本だが、そのなかにこのような記述がある。

「日清戦争に勝利を得たものの、日本は統治の失敗者になるという予測を覆すために、台湾統治の「文明性」と円滑なる統治を西欧列強に向けてアピールし、東洋の新生帝国のイメージを構築しなくてはならなかった。そのためにも、積極的な教育が新領土台湾の地で行われていったと推測できるのである」

 台湾における同化政策は、植民地と日本の領土、あるいは、平等主義と差別をめぐって揺れ動いた。"同床異夢"という題名は、そのブレを端的に物語っている。この映画に登場する5人の人生は、そうした現実と結びついているように見える。

 蕭錦文さんは、社会的な地位を得るために日本人になることを決意し、日本兵に志願し、ビルマ戦線で戦った。だが、軍隊のなかで最後まで中国人として差別されつづけた。さらに、台湾に帰還すると国民党の弾圧を受け、拷問され、弟を亡くした。そんな彼は日本政府に対する怒りを隠さない。一方、宋定國さんには、忘れることができない日本人教師がいた。貧しさから中学の退学を考えた彼は、公学校の担任だった教師が黙って差し出した5円札のおかげで卒業し、日本の海軍工廠で働いた。そんな彼は、毎年日本を訪れ、教師の墓参りをしている。

 さらに女性の立場にも注目すべきだろう。台湾人がなかなか行けなかった女学校に進学した陳清香さんの勇ましさと教育には深い結びつきを感じる。彼女は「男だったら特攻隊に志願した」と語り、大陸の圧力を恐れることなく靖国に参拝した小泉首相を支持する。先述の『「同化」の同床異夢』には、「儒教の影響で台湾では女子の教育は重んじられていなかった」という記述がある。「台湾人の国」を目指して運動する彼女の人生は、日本の教育によって大きく変わったといえる。一方、もうひとりの女性、楊足妹さんはまったく対照的だ。彼女は弟のお守りをするために小学校を1年で辞め、日本人が経営するコーヒー農園で働き、日本語を覚えたという。

 ポストコロニアル的な視点を持ったこのドキュメンタリーは、81分とは思えない密度を感じさせる力作だ。

http://e-days.cc/cinema/column/oba/200906/27478.php



「台湾人生」の酒井充子監督インタビュー

酒井充子さんは、1969年生まれ、山口県のご出身です。慶応義塾大学法学部政治学科卒業後、エンジニアリング会社を経て、1996年、北海道新聞社へ転職し、函館報道部で市政や経済、映画祭や甲子園取材など、幅広い分野で取材経験を積まれました。
1998年夏、初めて台湾へ行き、それから、台湾のことを伝える手段を模索する中で映画作りへの決意を固めていきます。
2000年からドキュメンタリー映画、荻上直子監督の劇映画「かもめ食堂」などの制作、宣伝に関わる 一方で、台湾取材を開始。
2001年から重症心身障害者施設の生活を5年にわたって追った小林茂監督のドキュメンタリー映画 「わたしの季節」に取材スタッフとして参加されました。
このときのスタッフが再集結し、初監督作品「台湾人生」が完成しました。
http://asian.cocolog-nifty.com/paradise/2009/06/post-1486.html



元台湾少年工 映画で証言 「本当の姿を知って」
台湾少年工の大和魂
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