【韓国】100年前外国人目に映った私たちの姿

2009年11月01日 | 支那朝鮮関連
【韓国】[帝国の黄昏‘100年前私たちは’][45]100年前外国人目に映った私たちの姿[10/31]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1256993115/

チョン・ジンソク韓国外国語大名誉教授・言論情報学

1909.8.29~1910.8.29

大韓帝国末期、私たちの新聞には写真が存在しなかった。写真が掲載されることがなかったので、カメラマンがいたはずがないのだ。開花期の私たちの姿を写した写真は、西洋人と日本人が撮ったものだ。今しがた使った長い竹と門のところで怠けてみせる男たち、胸を出した女たち、歪んでいく藁葺きの家の前で遊ぶは照れくさい表情の子供たち。...大部分は、今日の私たちの目には未開に見える姿だ。

下の絵は露日戦争を取材しに来た米国カメラマン ロバート・ダン(R. L. Dunn)が撮った写真を模写したものだ。米国画報雑誌‘コリウス'(1904.3.26)と英国の‘イラストレイテッド ロンドンニュース’(1904.4.9)にこの絵が掲載された。当時、写真技術から離れて写真と同じように描いた絵をたくさん使った。侵略軍の補給品を背負って運ぶかわいそうな韓国人と、意気揚々な日本軍人が対比されているもので、癇癪が起きる場面だ。雑誌に一度掲載された写真は永遠の生命力を持って、それが伝える否定的な残像も消え去ることはない。


(写真:この絵は露日戦争を取材しにきた米国カメラマン ロバート・ダン(R. L. Dunn)が撮った写真を模写したものだ。)
http://image.chosun.com/sitedata/image/200910/30/2009103001482_0.jpg


19世紀後半まで韓国は文明世界から遅れて、国際舞台と断絶しており、西側に‘最も知られてなかった'(G. N. Curzon, 1894)国であった。1876年に開港をして以来、外国人らの訪韓が増えたが、韓国は相変わらず‘禁断の国’(Ernest Oppert, 1880)‘隠者の国'(W. E. Griffis, 1882)であった。米国の天文学者ローウェル(Percival Lowell)が‘静かな朝の国’(1885)で呼んだのが朝鮮を象徴する最もわかりやすい表現として定着した。

英国国教会が発行して、世界各国に配布した英文雑誌‘モーニングカム’(1890.7.~1939.10.)は布教用の宗教雑誌だったが、韓国の存在を知らせた広報大使の役割もした。1988年のソウルオリンピックのポスターに‘静かな朝の国’をキャッチフレーズとして前面に出すことができたのは、過去のローウェルの著書と国教会の雑誌に根源がある。

西側が私たちを注目した大きい事件は、日清戦争と露日戦争だった。私たちは2つの戦争で韓半島の主人としての振舞いができず、そんな私たちに同情的な眼差しを送る西洋の言論は珍しかった。列強の馬の蹄鉄に踏みにじられる私たちの姿が描かれるだけだった。

19世紀末から日本人たちはソウルで‘生影館’、‘鳳仙館’、‘玉川館’のような相互で写真館の営業を始めた。韓国人が経営する
写真館は1907年キム・キュジン(金圭鎭・1868~1933)がオープンした‘天然堂’が最初であった。キム・キュジンは日本で写真術を学んだが、女性の顧客は女性カメラマンが奥座敷で撮るように配慮した。このような営業戦略が功を奏して1908年の旧暦の正月には、 写真を撮る国内外の男女が1千人余りに達して、そこまで受け入れる暇がなかった(大韓毎日新報、1908.3.4.)。しかし、写真の代金を払わない人が多く、3年後には閉店寸前の状況となる困難に直面したこともある。1910年に米国でカラー印刷と写真を勉強したイ・ジョンチャンがキム・キュジンと同業のために必要な機資材を輸入したという報道があった。

朝鮮日報(韓国語)
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2009/10/30/2009103001583.html



http://www.flickr.com/photos/pingnews/509317963/
[A Korean coolie carrying medical supplies from shore to hospital at Chemulpo]
http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/h?pp/PPALL:@field(NUMBER+@1(ppmsca+08149))

乳出しチョゴリ
http://jeogori.web.fc2.com/

4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html#1
History of Korea
http://www.geocities.jp/furen1002/KoreaHistory.html






李朝五〇〇年の道路事情~人間の背中に頼っていた李朝時代の物流

 李朝下五一八年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路はまったくなかった。
 新しい役人が赴任すると”今度の役人(官史)は、どれくらい泥土にはまったか”と尋ねられるくらいで、幹線道路でも荷車も牛車も人力車もやっと通れるほどで、ほとんどが、田んぼの畦道程度のものであった。
 もっとも重要な幹線とみなされたソウルと義州(現在の北朝鮮と中国の国境近くの町)を結ぶ道路は、宗主国であった中国の使臣が往来するために、唯一、道路と呼べるような代物だった。だがこの最重要道路にしても、たまに補修の要請があって、いくらかの経費を現地に送ると、その四分の三は途上でなくなり、結局必要な経費は、常民・たちからの苛斂誅求で賄われるというありさまだった。
 また、ほとんどの河川には橋がなく、李朝以前にはあった橋も壊された。理由は、李朝が高麗に反逆して奪取した政権であったために、今度は自分たちが反対勢力のクーデターに遭うことを恐れて、軍隊が進軍できないようにしたからである。
 たとえ橋が架けられていても、ところどころ穴があいていて、現地の事情に疎い者や、夜陰にまぎれて橋を渡ろうとすると、足を踏みはずして穴から落ちてしまうこともあった。
 それゆえに、橋と足の発音は同じく ”タリ” と呼ばれている。
 そうなると渡し舟で対岸に渡ることになるのだが、無事に着けば幸運だった。薄い板で作られた舟では、往々にして牛馬車や大勢の人たちの重みに耐えられず、沈んでしまうことも珍しくなかったから、毎年各地で鎮魂祭が営まれた。
 鎖国政策がとられたため、港湾施設といえるようなものもほとんどなく、中国と日本(対馬)を相手に、わずかな物品のやりとりがあるにすぎなかった。
 陸上でも、釜山とソウルの場合、四〇〇余キロの距離を行き来するのに二五,六日間かかるのが普通で、両班の子弟で科挙の試験に赴く者を除くと、旅人も稀だった。
 ソウルと仁川間の三二キロも、行き来に五日以上かかり、したがって生産・管理・消費・物流などといった社会基盤もなく、近代化とはまったく無縁であった。
 こうした事情一つをとりあげても、李朝の「自主的近代化」などというものがまったくの絵空事で、妄想にすぎなかったことは明らかだ。


日本人の税金で賄われた朝鮮の鉄道建設

 鉄道は未開国を近代国家に育成する機能を発揮する為の必要不可欠の動脈であり、市場経済の血管である。鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の生活向上と幸福の増進にも欠かせない。
 道なき山野に鉄道が敷設されたことが、日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、長い地獄のような生活から脱することにつながった事は論を俟たない。
  一八九四年、日清戦争勃発を契機として、朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関する認識もなかった。
 一八九六年、「京仁線」(ソウル~仁川間)三八・九kmの鉄道敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が米人モールスから買収、一九〇〇年七月八日、全線開通させた。朝鮮で最初の鉄道だった。ちなみに日本で新橋~横浜間が開通したのは一八七二年のこと。
 従来ソウル~仁川間の往復は五、六日かかった。ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返して楽しんだと伝えられている。往復で五、六日の所要時間は二,三時間に短縮された。
 元来、両班とは、働かずに、農耕民が生産した物を優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じただろうことは容易に想像できる。
「京釜線」(ソウル~釜山間)四五〇・六kmは、「京釜鉄道(株)」が一九〇五年一月一日全線開通させた。
 京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、三五〇〇万円だった。それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総額)は、七八四万円だから、自力での鉄道敷設は夢でしかなかった。
 それまでフランス・ロシアも競って鉄道施設権を獲得したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできなかった。
 アメリカのモールスも事情は全く同じで、彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような財政事情で、全く実現の可能性が無かったから、日本企業がこの難局を切り抜け、京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助というべきであった。
 京義線(けいぎせん・ソウル~新義州間)は、フランスのグリールが敷設権を取得したが、これも日本(陸軍)が買収して建設を受け継ぎ、一九〇六年四月に全線開通した。
 京義線と馬山浦線の建設費は三一三八万円で、したがって、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると六六三八万円になる。
 この六六三八万円は、日本人の血税で賄われたが、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝鮮側のの享受した利益は莫大なものであった。
 もしも一八九六~一九〇六年の一円が、今の一〇万円に相当するとすれば、六・六兆円であり、それを二〇〇三年十一月二五日の為替レートで韓国ウォンに換算すれば、七九兆六五六〇ウォンに相当する(二〇〇三年十一月現在、物価指数による概算)。


総督府が建設した鉄道路線と、投下した資金

 こうして、一九一〇年の日韓併合時には、すでに全国一〇三九・七キロの路線が完成した。これにつづき併合時には、寺内・長谷川の両総督時代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、一九一七年には会寧~清津間が開通した。
 併合後に朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、次ページの一覧のとおりである。
 斉藤実総督は一九二一年九月に開催した「産業調査委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、それ以降の十二ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は以下のとおりである。
~(略)~
日本の資本で完成した朝鮮の鉄道

 その後、新倉~高原間の平元線一四六・八キロ、吉州~恵山鎮間の恵山線一四一・六キロ、順天・満浦線二八六・六キロ、釜山鎮~蔚山間の蔚山線七〇・八キロなどが開通した。
 その他にも総督府は、私設鉄道に対する補助を行ったが、一九一五年から一九三〇年までにその総額は四〇〇〇万円を超えた。
 一九一〇年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は71ページ下段の表のように飛躍的に発展しており、物流の活発化を裏付けている。
 こうして、一九四五年の終戦の日まで鉄道網の拡張は続けられ、その総延長は六六三二キロ、駅の数は七六二、従業員数は一〇万五二七名に達した。


人間の背中に頼っていた李朝時代の物流

 それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商(行商人)に頼っていた。
 たとえば、全州の行商人(保負商)は妻子とともに、全州名産の生姜と櫛を背負って、平壌まで三週間余りかけて歩き、そこで販売する。次に。人力車も通れない道を再び歩いて元山に行き、昆布と煮干しを売りさばくという具合だ。時間が予定以上かかったり、滞在が延びたりしたら、利益は見込めない。
 そのさまを想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠った李朝が、百姓にとって、いかに過酷な統治者であったかがわかる。
 この場合でも馬を使うのが普通不だが、馬には人間以上の経費がかかる。結局、運搬道具として牛馬ならぬ人間の背中がもっとも利用されることとなった。
 朝鮮には、遠い昔から運搬具として”チゲ”というものがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩にかければ加重が背中全体に、公平に配分されるから肩が痛くないという特徴がある。

 嶺東には蜂蜜の生産が多いが塩は少なく、平安道では鉄の生産が多いがミカン・レモンはなく、咸鏡道では朝鮮人参の生産は多いが綿布は生産されない。
 このような地方特産品を鉄道の敷設によって流通させることができれば、住民の生活向上につながることは言を俟たない。
 暗黒の国土に鉄道が開通し、日本の先導でようやく近代化のきざしが朝鮮にも見られるようになった史実は、否定できない。

日韓併合ー韓民族を救った「日帝36年」の真実  崔 基鎬 (著) (p.59~73) より
http://www.amazon.co.jp/dp/4396612273/


<日本が敷設した韓国の鉄道>

【猫車から】韓国の交通機関の歴史【KTXへ】
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=63570
http://konn.seesaa.net/article/59524788.html










韓国の動物園100年史

 1909年11月1日。モーニングに白のミルキーハット姿の30代中盤の男性が昌慶苑に姿を現した。大韓帝国最後の皇帝、純宗だ。この日は昌慶宮の殿閣を取り壊して新たに造成された動物園と植物園の開園式が執り行われ、純宗はその行事に出席するため、同地を訪れた。昌慶宮正門の弘化門の外は、韓国初の動物園を見ようと訪れた多くの人たちでごった返していた。入場料は大人10銭、子供5銭だった。

 尊厳ある宮殿に動物園を作ることを提案したのは、日本の初代朝鮮統監府統監、伊藤博文だった。しかし伊藤自身は開園の5日前、中国のハルビンで安重根(アン・ジュングン)により殺害され、開園式に出席することはできなかった。

 かつて日本は昌慶宮を昌慶苑に格下げし、韓国初の近代式動物園を開園した。11月1日は、開園からちょうど100周年を迎える。昌慶苑動物園は84年に果川のソウル大公園へ移転し、今年4月にはソウル動物園と改称された。

■解放直前に動物はすべて毒殺

 ソウル市が93年に編纂した『韓国動物園80年史』によると、開園初年にはツキノワグマ2頭、トラ1頭、ウサギ18匹、珍島犬1匹、済州馬2頭、赤鹿や鹿10頭など、72種、361匹の動物がいた。これらは直接捕獲したものや寄贈されたもの、あるいは日本やモンゴルなどから輸入したものだった。ソウル市内に家族で楽しめる公園がなかった当時、桜が咲く季節には1日に2万人から3万人の来園客でにぎわうほど、人気のスポットだった。

 「百獣の王」ライオンは1910年、京都動物園で生まれた雄雌のつがいが持ち込まれ、ゾウは12年にドイツから輸入した。そのころ韓国にやって来たつがいのカバは、25年間に12頭の子供を産み、昌慶苑は「カバ動物園」と呼ばれるほど有名になった。一方、19年7月に1頭のカバが逃げ出し、数百人の警察が昌慶苑の周りを取り囲むという騒ぎも発生した。

 36年には192種、675匹にまで増えた。しかし第2次大戦が起こると、食糧不足に伴うエサ不足で動物たちは次々と死んでいった。さらに45年7月25日には、東京から緊急の厳しい命令が伝えられた。米軍が昌慶苑を爆撃すれば、猛獣が逃げ出し危険となるため、あらかじめ殺処分せよ、という内容だった。直後にライオン、トラ、クマなど21種38頭に毒薬を混ぜたエサが与えられた。その日の夜、昌慶苑周辺には猛獣たちのうめき声が一晩中鳴り響き、飼育員たちは皆涙を流した。

 動物たちは韓国戦争(朝鮮戦争)でも大きな苦痛を味わった。51年の1・4後退の後、飼育員たちが急いで動物園に戻ると、生き残っていた動物は1匹もいなかった。フクロウ、キツネ、タヌキ、ヤマネコなどは飢え死にするか、凍死し、ラクダやシカ、シマウマなどは人間の食糧になっていた。

 廃墟となった昌慶苑の再建は、54年に始まった。米第8軍が、東部戦線で生け捕りした1頭のクマを寄贈した。産業銀行や朝興銀行、商業銀行、京城紡績、東亜商社など、当時20社以上の企業や個人が基金を出し合い、動物を買い集めた。ライオンは韓国銀行が担当し、当時第一製糖の社長だった故イ・ビョンチョル元サムスングループ会長がゾウを寄贈した。当時朝鮮日報社長だった方一栄(パン・イルヨン)氏もフクロウを寄贈した。そして、こうして集められた動物たちを出迎えるため、多くの市民がソウル駅に足を運んだ。

■「平壌動物園よりも大きく作れ」

 60年代も押し迫ったころ、動物園を移転させて昌慶苑を昌慶宮に復元しようという声が高まり始めた。年間300万人もの観覧客が押し寄せるため、昔からあった建物は破損がひどく、新たに動物を迎え入れるための場所も足りなくなってきたからだ。

 77年には移転計画がほぼまとめられ、京畿道果川にある24万8000平方メートルの敷地に移転先が決まった。直後の78年6月、当時の具滋春(ク・ジャチュン)ソウル市長が、「平壌動物園よりも大きく、国際的なレベルで建設せよ」と指示した。敷地は当初の計画よりも10倍以上広い290万平方メートルとなった。ソウル動物園のモ・ウィウォン園長は、「当時、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が72年に北朝鮮を訪問した李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA=現在の国家情報院)部長から話を聞き、そのように決まった、という話を聞いた」と語る。

 「平壌にはこちらよりも優れたものがあるのか」(朴大統領)、「平壌動物園は非常に見ごたえがあります」(李部長)、「そうか、ではわれわれはそれより大きいものを作ろう」(朴大統領)。このような対話が交わされた後、ソウル市長に対し、「平壌動物園(286万平方メートル)よりも大きなものにせよ」という指示が下されたという。

 84年5月1日にソウル大公園動物園がオープンした。オープン当日は75万人もの来園客が押し寄せ、4日後のこどもの日には100万人を突破した。

■コンクリートの飼育舎から生態型動物園に

 90年代には大規模な遊園地やテーマ動物園が各地に建設され、一時は人気が衰えたかに見えたソウル大公園だが、2000年代に入ると、大規模な整備が行われた。ヒツジ牧場など新たな施設を建設し、今年は「ソウル動物園」という新たなブランドも発足した。コンクリートで覆われていた飼育舎はできる限り撤去し、自然そのままの環境を整える工事も行われている。

 11月1日に行われる「100周年記念行事」に合わせ、「新類人猿館」「ソウル動物園歴史館」もオープンする。新類人猿館には動物の知的能力について実験する「認知研究センター」が併設され、来年1月にオープンする。また、チンパンジーの飼育舎には「エサの自動販売機」が設置された。観覧客が群れのいる場所に置かれた箱にコインを入れると、チンパンジーはそれを拾って中の造形物に開けられた穴に入れる。するとエサが出てくるという仕組みだ。

 ソウル大公園の李元孝(イ・ウォンヒョ)園長は、「今後は動物園を、人間と動物が互いに共感し合うことのできる場所にしたい。また、生物種やその生態について研究・保護を行う中心地にしていきたい」と述べた。

キム・ジンミョン記者
2009/10/31 16:41:06
http://www.chosunonline.com/news/20091031000038

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