「ベトナム政府、李明博大統領の国賓訪問を一時拒否」~ベトナム戦争有功者指定に反発

2009年10月16日 | 支那朝鮮関連
【越韓】 「ベトナム政府、李明博大統領の国賓訪問を一時拒否」~ベトナム戦争有功者指定に反発[10/13]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1255610112/

柳明桓(ユ・ミョンファン)外交通商部長官が12日、緊急にベトナムに飛んだ。10日、韓中日首脳会談を終えて国内日程を決めていたユ長官は予定になかった日帰り出国を強行した。

政府のある核心関係者は「ベトナムが李明博(イ・ミョンバク)大統領の国賓訪問を拒否するという強硬な立場だったので外交長官が直接投入された」と話した。イ大統領は今月中、ベトナムを国賓訪問する計画だ。この関係者は「ベトナム政府は数ヶ月前から韓国政府が‘ベトナム戦争参戦有功者優遇’を推進しているのに反発して問題を提起してきたが、これまで外交部がこれに消極的に対処したため、政府は先月3日‘ベトナム戦有功者優遇法’を国会に提出することになった」としながら「3週前に外交部の外にこの事実が知られて対策作りを始めたが、ベトナム政府の反発は緩まなかった」と話した。外交部が米国一辺倒の外交にだけ没頭してベトナムの直接的な不満提起さえ無視して大統領の国賓訪問日程を拒否される外交的侮辱を呼んだということだ。

ユ・ミョンファン長官は12日、ベトナムのファム・ザー・キエム副総理兼外相と緊急会談を通じてこの問題を調整した。大統領府のある関係者は「問題はすっきり解決されたし、明日ぐらいの日程で発表することになるだろう」として、ひとまずイ大統領の国賓訪問は予定通りに進行されると明らかにした。

しかし、また他の政府関係者は「まだ満足する程の結論を下せなかったと理解している」と言ってベトナム参戦有功者優遇法の処理がどうなるかを心配した。「ベトナム有功者優遇法」は「世界平和維持に貢献した越南(ベトナム)戦争有功者と枯れ葉剤後遺症が疑われる患者らを…」と書いている。ベトナム政府は「両国修交の時に私たちは戦争国家の韓国を相手に一切過去の問題を取り上げ論じなかったが、韓国が世界平和を守るための参戦だと正当性を付与することは両国の過去を再び暴くことだ」と反発してきたと分かった。

韓国は1964年、初めての派兵以来73年まで約30万人の戦闘部隊を投じた。公式統計上ベトナムの4万1450人を殺して韓国軍も4960人が戦死した。1992年、両国修交の際に過去の戦争に関する賠償問題は除外され、2001年金大中(キム・デジュン)大統領が「不幸な戦争に参加して本意と違ってベトナム人に苦痛を与えたことに対して申し訳ないと考える」と謝ったことがある。しかしベトナム政府は「私たちは戦勝国だから謝罪を受ける必要がない」という立場を保ってきた。

戦勝国としての自負心で米国や韓国など戦争相手国に過去の歴史を問い詰めないというベトナムが今回、韓国を相手に問題を提起した背景が関心を集めている。外交部など政府の一部では経済開発のための大型プロジェクトを贈り物として引き込むためだという分析が出てきている。

また他の面では現地に進出した韓国人のベトナム蔑視の風潮が極まってベトナム政府が綱紀粛正に出たという見解もある。9月26日ハノイ人民裁判所はベトナム女性教師を殺害した後、死体を遺棄した韓国人キム某に死刑を宣告したことがある。今年1月の下級裁判所が終身刑を宣告したことはとても寛大な処置であったとし、最終審で刑量を上げてしまったのだ。ベトナムで韓国人の嫌悪行為が猛威を振るってベトナム政府が韓国に対する寛容を廃棄する信号を送ったと見られている。

キム・オングァン、ソン・ホンシク記者

ソース:明日新聞(韓国語) 「ベトナム、一時MB国賓訪問拒否」
http://www.naeil.com/News/politics/ViewNews.asp?nnum=501574&sid=E&tid=3





【越韓】 ベトナム国民に与えた苦痛、直視する勇気示せ~李明博大統領ベトナム訪問[10/15]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1255738665/-100

李明博(イ・ミョンバク)大統領が来る20~22日ベトナムを国賓訪問する。我が国大統領としては金泳三(キム・ヨンサム、1997)、金大中(キム・デジュン、1998)、盧武鉉(ノ・ムヒョン、2004、06)前大統領に続く5回目の訪問だ。

我が国とベトナムはベトナム戦争の痛い過去を乗り越えて1992年の修交以来、政治・経済・文化などの様々な方面で急速な関係発展を成し遂げた。昨年両国を行き来した人数は50万人にも及び、相手国に居住する両国民は各々8万~9万人に達する。ベトナム国民9000万人中、60~70%が韓国の映画とドラマを楽しみ、4万人を越えるベトナム人花嫁が韓国に嫁いで生活している。両国関係の幅と深さを示す数値だ。

両国は李大統領の今回の訪問を契機に両国関係を包括的パートナー関係から戦略的協力パートナー関係に一段階格上げする予定だ。ベトナムが東南アジア国家聨合の中心国として、我が国の石油輸送路と重なる3250kmの海岸線を持った戦略的要衝国であり、中国の疾走を牽制するパートナーになりうるという点で正しい方向設定だ。

こういう重大事を控え私たちがベトナム国民の自尊心を逆なでする事態が発生した。国家報勲処が‘国家有功者優遇および支援に関する法律改定案’を立法予告し、ベトナム戦争を‘世界平和維持に貢献した’と描写する文章を入れたのだ。これにベトナム側が強く反発し、柳明桓(ユ・ミョンファン)外交通商部長官が急遽ベトナムに飛び足下の火を消した。だがベトナム国民がこうむった心の傷まで消えた訳ではないだろう。

パムティエンバン駐韓ベトナム大使は<聨合ニュース>と行った会見で「過去韓国が戦争に参加しベトナムに被害を与えたのは事実だ。それでも一度も取り上げたことはない。ベトナム戦争を美化する次元でそのようなことが処理されれば、ベトナム国民の感情を傷つけ再び痛めることになる」と話した。

日本に対して過去史反省を要求している私たちとしては骨身にしみるほどよく分かる内容だ。自分の被害は強調し、他人に与えた被害には目をつぶる態度では絶対に世界の中心国家にはなれない。李大統領は今回の訪問の際、前任大統領よりさらに進んだ姿勢で我々がベトナム国民に加えた苦痛を直視する勇気を見せて欲しい。日本が植民支配を美化する時、私たちが見せる反応を考えればどんな姿勢で臨むべきか簡単に答えが見つかるはずだ。

ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) [社説]ベトナム国民に与えた苦痛を直視する勇気を示さねば
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/382206.html



韓国軍がベトナムでした事「AGAIN1966」

ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。 アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上をこうしたやり方で殺したのである。
1966年2月26日、韓国軍部隊は137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。 1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。
8月までに、"勇猛な"朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。 ブガツ省では、3万5千人の人たちが、"死の谷"に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。
これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。 この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦したとの報道もあった。 かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。 放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪ーーこんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。 母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。
これは、たった一都市に起きた"南京大虐殺"どころの話ではないのだ。 これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日の"ベトナム民族大虐殺"なのである。
つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。

「朝鮮 ー新しい危機の内幕ー」 D.W.W.コンデ 岡倉古志郎訳 1969年 新時代社




「ベトナム戦争での韓国軍の蛮行:耳の首飾り」

キム・ギテ氏の証言
記者:(ベトナムで)韓国軍に殺された人々の大部分が子供たちと女性, 老人です.

キム・ギテ: 若い人々は逃げて隠れたのでしょう. 殺すはずがないと考えて村にいた子供たちと婦女子, 老弱者たちが、むしろ被害をたくさんこうむりました.

記者:韓国軍が耳を切り、鼻を切ったという話があります.

キム・ギテ:実際にそのようなことがありました. 中隊員の中の一名で、死んだ者の目玉を取ってアルコール漬けにした兵士がありました. また、一名は、片方の耳だけを切って集めて針金に通して、幕舎前に掛けたりもしていました.
‘何故そんなことをするのか’と聞いたところ, 「帰国する時に記念に持っていく」と言いました.

ハンギョレ21 2000年 04月 27日 第305号
http://www.vietnam-go.com/message-50-150721
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore00305_1.htm


元従軍慰安婦、ベトナム戦争時の韓国軍による虐待行為を調査
【萬物相】ベトナム戦争参戦45周年
【韓国ブログ】「ライタイハンを忘れない」韓国人が綴る慰安婦問題

ああ, 震撼の韓国軍!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
私の村は地獄になった----ベトナム戦争、もうひとつの戦争犯罪(韓国軍による虐殺)
http://www.asyura.com/0411/war61/msg/748.html


ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1187789216/l50
【韓国】 「国に帰りたい」と言った十九歳ベトナム人花嫁、夫が殺害~追悼行事開かれる[08/20]
http://news.hankooki.com/lpage/world/200703/h2007031521545422510.htm
韓国人人身売買【越韓】 ベトナムで百人の売春婦を斡旋の韓国男、懲役5年の判決→控訴予定[03/15]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1188215351/l50
【ベトナム/韓国】韓国に嫁ぎ、惨殺されたベトナム人花嫁の「最後」の手紙[8/26]
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1174024996/l50x
韓国のベトナム戦争への対応「償いは必要ない」
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1199290586/l50
【ベトナム】 韓国人男性1人に候補者68人の集団見合い摘発 [01/02]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1201139162/l50
【ベトナム】韓国系企業の工場で従業員18人が次々と失神。過労による低血糖が原因[01/23]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1205510061/l50
【ベトナム/韓国】 韓国で「飛び降り自殺」した娘の母、死の原因を突き止めるため韓国を訪問 [03/14]
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=75229&servcode=400§code=400
【ベトナム】国際結婚「韓国人、女性を商品のように扱う」新聞報道で現地は反韓ムードに
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1177575651/l50
【韓国】国家の恥さらし“アグリー韓国人”~ベトナムでの集団見合いで『裸の検査』[04/26]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1184835749/l50
【ベトナム】韓国人の『SEX観光客』をまた摘発[07/19]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1225872677/l50
【ベトナム】 「韓国企業の給与未払い問題や社会保険料滞納問題などについて対応協議」 ~ホーチミン市
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1207131879/l50
限りなく黒に近い灰色【韓国/ベトナム】ベトナム人妻がアパートから転落死 警察の結論は自殺 [04/02]



   ↓↓↓↓

誇らしいベトナム人虐殺記念館完成





http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/766367/





【韓国】 昔のベトナム派兵勇士の訓練場、再建してオープン~平和と統一、象徴する場所に[08/10/23]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1224895222/


http://photo-media.daum-img.net/200810/23/yonhap/20081023171208866.jpg
(写真は聯合ニュースだが別記事)

(華川=聨合ニュース)江原華川(カンウォン・ファチョン)郡にある昔のベトナム派兵勇士の訓練場が立て直されて一般人たちに門を開いた。

江原道と華川郡は23日、ベトナム派兵勇士たちの訓練場だった看東面(カンドンミョン)梧陰里(オウムリ)「パラムボデンイゴ-ル」でベトナム参戦戦友人キム・ジンソン江原道知事を含め、チョン・ガブチョル華川郡守、国家保勳処関係者、ベトナム参戦勇士など2千名余りが参加する中、「ベトナム参戦勇士出会いの場」開場式を行った。

この日の開場式にはハン・スンス国務総理の祝賀映像に続き、記念植樹及びテープ切断などの順に進行され、参戦部隊旗掲揚とナムジンなど人気歌手の公演も用意された。

2001年事業費180億ウォンをかけて着工したベトナム参戦勇士出会いの場は14万平方メートルにベトナム戦争の歴史をひと目で見られる参戦記念館と追慕碑、象徴塔、戦術基地、訓練体験場、内務班、野外戦闘装備展示場などが再現された。

またベトナム戦争当時、ゲリラ組職だったベトコンが地下に迷路のように作った補給路と隠れ家、シェルターなどに利用した「グッチトンネル(長さ157メートル」とベトナム伝統家屋(6軒)、武器製作所などが設置された。

派兵勇士訓練場では1965年、鳩(ピドゥルギ)部隊を始めに、1972年まで白鴎、銀馬、猛虎、白馬、十字星部隊など派遣将兵の90%ほどが訓練を受けた。韓国はベトナム戦に32万5千517人を派兵、このなかに5千名余りに至る将兵が犠牲になった。

参戦勇士チョン・ジョリョル(62.ソウル松坡区)さんは「1968年猛虎部隊を勤めている時に、歩兵としてベトナムキノン地域参戦を控えて華川梧陰里で訓練を受けて去る時の記憶が鮮やかに残っている。40余年ぶりにこちらへ来て、戦友たちに会ったら感慨無量だ」と当時を回想した。

チョン・ガブチョル華川郡守は「ベトナムで国家のために犠牲になった戦友たちの遺品を展示して子孫たちに戦争の痛みを体験できるように`ベトナム参戦勇士出会いの場'を用意した。ここを平和と統一を象徴する場所にして、32万名余りの参戦勇士の交流の場としてはもちろん、子孫たちに安保の観光地として活用する」と述べた。

ソース:daum/聯合ニュース(韓国語)昔のベトナム派兵勇士の訓練場立て直し会場<華川郡>
http://media.daum.net/society/others/view.html?cateid=1067&newsid=20081023211407084&p=yonhap
(ソースに動画あり)

関連スレ:【越韓】ベトナム「反韓感情」解消する放課後学校[10/24]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1224820069/
【越韓】 ベトナム戦争の混血児、ライタイハン~日本の様に後ろ指さされる前に支援を[07/09]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1183990628/

The Vietnam War dispatch of troops Memorial opening in Korea
http://www.youtube.com/watch?v=KS6LyRAbOBQ





【韓国】 華川に行けばベトナム参戦の歴史が分かります~梧陰訓練場跡「ベトナム参戦勇士出会いの場」[09/05/22]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1243041029/


http://image.kukinews.com/online_image/2009/0522/090522s2.jpg

[クッキー社会]ちょうど春雨が降って5月の新緑がさらにさわやかになった21日午後2時。江原道(カンウォンド)華川郡(ファチョン)看東面(カンドンミョン)梧陰里(オウムリ)に造成された「ベトナム参戦勇士出会いの場」には戦争の傷痕が濃く滲んでいた。

40年余り前、越南派兵勇士たちが戦地に発つ前、熾烈な戦闘訓練を受けたここには、最近、前線で生死をともにした昔の戦友が白髪の老いた身体を運んで微かな昔の思い出を求めている。記念館前の掲示板には坡州枯葉剤戦友会100人、ソウル鍾路区参戦戦友会50人、議政府老人福祉館600人など訪問日程がぎっしりつまっている。

この日、ベトナム参戦記念館ショールームの前で昔の思い出を手探りしてとりとめのない想いにひたっていた猛虎部隊出身のチョ・ユンハ(64・京畿道加平郡)さんと白馬部隊出身のチェ・ゼヒョック(64・江原道春川市)さんは「こちらへ来て真暗に消されていた私の人生の向こうをかすかに見ることができて感慨が新しい」と明らかにした。チェさんは「出会いも良くて思い出も良いが、戦争を偏見なしにリアルに見せようと努力した跡が見え、また歴史の記録としての役割ができる、ということにもっと大きな意味を置きたい」と淡々と語った。

梧陰訓練場には鳩部隊を始めに白鴎、銀馬、猛虎、白馬、十字星など派遣将兵の90%程が訓練して行った。韓国はベトナムに32万5517人を派兵した。このなかでおよそ5000人余りの将兵が異国の地で露と消えた。(中略)「出会いの場」にはベトナム戦争の歴史をひと目で見られる参戦記念館と追悼碑、象徴塔、韓国軍戦術基地と塹壕、訓練体験場、内務班、野外戦闘装備展示場などが建てられている。

参戦記念館内のショールームには参戦の背景と日誌を一目瞭然に整理して見せてくれる。青竜部隊のチャビンドンの戦いなどベトナム戦史に残る戦闘と英雄、手紙などが人目を引き、犠牲になった勇士たちの名前も記録されている。ベトコンたちの隠れ家と同時に補給路、秘密基地の役割をした長さ157mのトンネルモデルには作戦会議室、武器製作所、食堂など当時の土中生活の姿がそのまま再現されている。
(後略)

ソース:国民日報クッキーニュース(韓国語) 華川に行けばベトナム参戦歴史分かります
http://news.kukinews.com/article/view.asp?page=1&gCode=soc&arcid=0921288265&code=41121111




【韓国軍によるベトナム市民虐殺の事例】

フォンニィ・フォンニャットの虐殺 - Wikipedia
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)

両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送されたが「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で息絶えた[1](J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)

至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)

殺害された子供(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)[2]

韓国軍に焼かれた住民(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)[2]

フォンニィ・フォンニャットの虐殺(퐁니•퐁넛 양민학살 사건[3]、フォンニィ・フォンニャット良民虐殺事件[3]、Phong Nhi and Phong Nhat massacre[5])は、ベトナム戦争中の1968年2月12日に、南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)(en)によって、非武装の民間人69-79人[6] が虐殺された事件。

1968年2月12日[7]、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着してしまった[8]。アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した[8][2]。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた[8]。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。
当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍(en)に参加していた[9]。続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺(en)が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された[10]。



ハミの虐殺 - Wikipedia

ハミの虐殺(Ha My massacre)とはベトナム戦争中の1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件。

1968年2月12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)(en)は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人虐殺事件を起こし[1]、その日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていたが、2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺した[2]。3人だけを残して全員殺害された村もあった。殺害方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行された[3]。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺やタイビン村虐殺事件など、このような事件がたびたび引き起こされ、9000人以上が韓国軍の犠牲になったとも[3]、あるいは、30万人を超す犠牲者数だったとも言われている[4]。
このため、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われた[5]。



ゴダイの虐殺 - Wikipedia

ゴダイの虐殺(ゴダイのぎゃくさつ、英語: Go Dai massacre, ベトナム語: Thảm sát Gò Dài)とは、ベトナム戦争時の1966年2月26日にベトナムビンディン省で韓国軍が住民380人を虐殺した事件のこと[1]。地名の発音は、むしろ「ゴザイ」に近い。

1966年2月26日[2]、南ベトナムビンディン省タイソン県(ベトナム語版)ビンアン村のゴザイ集落を訪れた韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず虐殺した[3][4]。首都師団はゴダイの虐殺と並行してビンアン村の近隣にあるタイヴィン村で1,200人を虐殺するタイヴィン虐殺を行った。



タイヴィン虐殺 - Wikipedia

タイヴィン虐殺(タイヴィンぎゃくさつ、英語: Tay Vinh massacre)とは、ベトナム戦争時の1966年1月23日から2月26日にかけてベトナムビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した事件のこと[1]。

1966年1月23日-2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は南ベトナムビンディン省タイソン県(ベトナム語版)タイヴィン村の15集落の村民1,200人を虐殺した[1]。2月26日には同部隊は併行してビンアン村の住民380人を虐殺した(ゴダイの虐殺)。


タイビン村虐殺事件 - Wikipedia

タイビン村虐殺事件(タイビンむらぎゃくさつじけん)とは、ベトナム戦争時の1966年2月にベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍が住民65人を虐殺した事件[1]。 

1966年2月、ベトナムビンディン省に駐屯していた大韓民国陸軍首都師団(通称猛虎部隊)(en)は早朝にタイビン村(Thái Bình /太平)を訪れ、住民68名を1ヶ所に集めると銃撃を加えるとともに手榴弾を投げつけて婦女子を含む65名を殺害した[1]。生存者はわずか3名であった。
タイビン村では虐殺された犠牲者名を記した慰霊碑と事件を記録した壁画が設けられ、生存者が虐殺の証言を行っている。





私の村は地獄になった----ベトナム戦争、もうひとつの戦争犯罪(韓国軍による虐殺)

私の村は地獄になった
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号 P.24

WORLD AFFAIRS◇証言
http://www.asyura.com/0411/war61/msg/748.html






ああ, 震撼の韓国軍!
ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている. 真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.


生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)

筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった. それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した. しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも, 一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.


子供も妊婦も容赦なく…

(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました. そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する. リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた. その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた. 証言の大部分はユエンハンを通じてなされ, その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない. 当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた. 冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ, パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた. プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した. 死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると, パンラン地域全域の学校が休学を決議して, 学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した. “ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!” “人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで, 僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった. 僧たちを祭る寺が消えたからですよ. 僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた. 韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた. そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた. プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた. 寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある. 私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない. 大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた. どこに目を向けても、限りなく平和なだけの, 限りなく懐かしいだけの風景, しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?. ‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち, 筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.


"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた. 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが, その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました. 妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました. そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"

パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた. “見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ. “手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね. ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません. ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.” 当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.

このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して, 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した. 生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射, 大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.

-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.

-子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.

韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった. 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.


果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた. 以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した. この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した. しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした. 我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである. それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている. 韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ. 加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう. たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.

ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員
vninfobank@hcm.fpt.vn

ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
Copyright 1995-1998 ハンギョレ新聞社
webmast@news.hani.co.kr
 
これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm



最新の画像もっと見る