全文リットン報告書

2007年01月09日 | Books


【旬を読む】『全文 リットン報告書』ノンフィクション作家・工藤美代子

 ■自虐病に効く特効薬

 日本人のいわゆる自虐史観を代表する最たるものはおそらく日韓併合と満州事変による中国への「侵略」の2つである。
 そうした自虐病に効く特効薬のようなものが本書といえる。誰もが耳にしてはいても読んだことのない「リットン報告書」の全訳が刊行されたことは誤った歴史認識という喉(のど)に刺さった自虐の小骨を取り去る手助けにもなるだろう。
 歴史の中でアメリカは中国に対して特殊な感情を培ってきた。かつて、日本が得た山東省権益に対する干渉、満州国に対する不承認、日中戦争以後の国民政府援助など数え上げればきりがない。
 だが、故ジョージ・ケナンのような外交官は、「われわれは十年一日のごとく日本の立場に向かって嫌がらせをやってきた」(『アメリカ外交50年』)と述べ、アメリカの満州政策を批判し、「支那人に対するある種のセンチメンタリティー」(同書)があったと断じている。

 わが国の歴史教科書などはさしずめケナンに先を越されてきた感がある。
 実は、リットン報告書が1933(昭和8)年2月、国際連盟に承認される一方でその後日本が連盟を脱退したため経緯が多少複雑になった。リットン報告書といえば日本の「満州侵略」を世界がこぞって非難したかの印象がもたれている。だが、英国人リットン卿は満州における日本の立場を相当程度認めていたことが本書から実によく分かる。
 「シナは北京と広東にまったく異なった政府をもち、奥地の交通・通信をしばしば妨害する多くの匪賊のために混乱し…こうした状態はシナと接触するあらゆる国に不利な影響を及ぼし…シナはつねに世界平和の脅威であり…日本はシナに一番近い国で、またシナは最大の顧客だから日本は本章で述べたような無法状態によってどこの国より苦しんでいる」(1章)
 圧巻は3章である。「日本人にとって対露戦争とはロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争…しかも満州における日本の権益の源泉は、日露戦争の10年前に発している」と日本の立場を正確に記している。また、日韓併合をcolonization(植民地化)でなくannexation(併合)とし、植民地見解を否定している点も見逃せない。ただ残念なことは報告書が満州はシナの一部であるという誤認をした点である。
 本書刊行の作業に取り組んだ渡部昇一氏の慧眼に敬服する。(渡部昇一解説・編/ビジネス社・2415円)
                  ◇
【プロフィル】工藤美代子
 くどう・みよこ 昭和25年、東京生まれ。大妻女子高校からチェコスロバキアのカレル大学に留学後、カナダのコロンビア・カレッジ卒。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞。著書に『野の人 會津八一』。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/34182




Amazon.co.jp: 全文リットン報告書: 本: 渡部 昇一
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「ところでみんな! 
海外掲示板に出てっても「Colony(植民地)じゃないYO!Annexation(併合)だYO!」な~んて書込んだりしないようにNE!
実は英語ではColonyよりAnnexationの方がかなりイメージが悪いのよ。
Colonyは本国と植民地国の間に圧倒的な国力差があって、理由はともあれ大国の傘下に小国が入ってる状態だで、Dominion(自治領)、Protectorate(保護国)に近いイメージの単語。
だけど、Annexationは隣国を「強制的に」合併したイメージになるわけ。
欧米じゃ、合併は相手の文化を奪うもんで、併合だとマイナスイメージになるのよ。
逆に植民地の場合は相手の文化を奪わないし、自国の文化を伝えるということでプラスのイメージになるわ。
植民地を持ってて悪かった、じゃなくて、これだけ植民地を持ってて凄いだろ?てな感じかな。
フランスなんて、いまだに植民地政策万歳だしね!
ようするに、日本と欧米じゃ考え方が違うってこと。
嘘だと思うなら辞書引いてみてね♪
習っててよかった英語教育!10億人と仲良くなって残りの30億人と喧嘩しよう!
I’m lucky,You’re lucky, He is lucky, We are all lucky, HAHAHAHA~!」

ルクスお姉さんの補習授業その2
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_02.html





2.リットン報告書とARA密約

(1)中国の利権獲得に異常な関心を示した米国

   1929年11月に始まった世界経済恐慌は、資源や市場を国内外に沢山保持していた米英仏など「持てる国」と、日独伊など「持たざる国」の位置を浮き彫りにさせた。特に日本の場合には、南方へ進出しようとする道を1921年のワシントン海軍軍縮条約で、米国に阻止されたために、大陸、とりわけ日本が日清・日露の両戦役で、多くの犠牲を払って獲得した満州地方に、その活路を見出そうとしていた。武力を直接的に投入して満州の利権を確保しておきたい関東軍首脳と、国際社会から孤立することを恐れ、できるだけ外交交渉によって権益確保を狙おうとする政府首脳の考えは一致しなかった。但し、満州の権益をなんとか確保して日本の活路としたいとする気持ちは、国民も含めて一致していた事は事実である。

 1920年代から1930年始めにかけて、中国の蒋介石政権は、各地に散る軍閥を征圧しつつ、統治の及ばなかった満州地方にも迫ろうとしていた。これに危機感を抱いた現地関東軍首脳は、政府の外交交渉を待っていたのでは、間に合わないとして単独で1931年9月18日に、満鉄を爆破(柳条溝事件)し、これを張学良率いる軍閥の責任として、関東軍を投入した。いわゆる満州事変の勃発である。わずか3ヵ月間で満州全域を占領し、翌年1932年3月1日には、満州国を建国した。

   蒋介石政権は爆破事件が発生してから3日後に、国際連盟(以下、連盟と呼ぶ)に緊急提訴したが、米国の国務長官ヘンリー・スティムソンも4日目に声明を発表し、日本に対して重大な関心を寄せている旨通告してきた。他の列強諸国はずっと沈黙を守っていたにも関わらず、米国だけが直ちに反応して来た。

   何故、米国が中国に関心を抱いたかと言えば、既に米国は1880年の時点で世界1の経済大国になっていたが、過剰生産品を売り捌く海外市場がなかった。この為、1899年には中国の門戸開放政策を宣言し、中国市場に割り込もうとしたが、日清・日露の戦争によって満州に特殊権益を確保した日本の登場により、米国は日本が中国市場を独占してしまうのではと恐れたからである。

(2)国交の無い米ソが満州権益をめぐって秘密交渉

   提訴を受けた連盟では、先ず10月15日の理事会で、日本の反対を押し切って非加盟の米国をオブザーバーとして招請することを決定した。31年12月18日、総会において日本と中国の紛争調査委員会を設置し、現地へ国際調査団の派遣を決議した。メンバーは英独仏伊の4ヵ国代表と、前記米国代表であった。各国代表者は以下の通り。英:リットン卿、仏:クローデル陸軍中将、独:シュネー博士、伊:アンドロバンディ伯爵、米:マッコイ陸軍中将の5名である。また各国の随員は1国につき最高13名までとし、タイプライターを打つためのタイピストを8名とした。この結果、総計では53名ほどで調査団を構成し、32年2月29日、横浜に上陸して日本首脳と会談したのを皮切りに、上海,南京,北京と移動し、4月21日には満州・奉天に到着した。一行は奉天,新京,ハルビンと調査を進め、5月16日には米国代表を除いて牡丹江へと向かった。

   ここで重大な動きが現れる。牡丹江へ出発する直前、ソ連の陸軍大佐アレクセーエフ・イワノフ(GPU極東部長)が、リットン卿と一行の滞在ホテルで1時間に亘って密談をおこなった。さらに5月22日、ハルビンに滞在している米国代表マッコイ少将と、ソ連イワノフ大佐が3時間に亘って密談をしたが、会談後、イワノフ大佐は牡丹江を経てソ連領ウラジオストクへ向けて出発した。当時、ソ連はヴェルサイユ体制の中から創設された国際連盟を批判し、これには加盟していなかった。しかも米国はこの時点では、ソ連と国交を回復しておらず、ソ連を承認するのは1933年である。にも関わらず、ソ連からの使者が国際連盟や米国の代表者と密談を行なった。

   リットン調査団の動静を探っていた日本外務省の嘱託・三浦幸介は、ホテルから出て列車に乗ったイワノフ大佐がしっかりと持っている鞄が、自らの手に鎖で繋げてあるのを見て、重要資料と睨み、列車の進行中にイワノフ大佐を襲って鞄を強奪した。果たして、その中には分厚い書類が入っていたが、1つはリットン卿が国際連盟に正式に提出する報告書で、これには満州建国が日本の官憲によって行われた為に、満州国の現政権を認める訳にはいかないことを述べるとともに、解決の条件として、日本の満州における利益の承認、日支両国間で新条約を成立させること、満州の自治など、10項目が記されてあった。

(3)ARA(アングロ・ルッソー・アメリカーナ)の密約  

この公式に発表される報告書に関する限り、決して日本にとって不利な内容ではなかった。それにも関わらず、日本は翌33年3月27日連盟に脱退通告を送って脱退した。何故なのかという理由は、同じ鞄の中にあったARA文書にあった。それは日本がリットン報告書を受け入れた場合の英米ソの「秘密協約書」であった。

先ず、米国と英国の秘密協約書の草案は、?満州の宗主権は中国にあることを認めるが、その支配は国際共同管理委員会に委譲する。?満州における日本の特殊権益は認めるが、駐兵権は国際共同管理委員会の決定による制限を受ける。?日本は満州における権益を他の1国に譲渡出来るが、その場合は国際共同管理委員会における全ての地位を失う。そして、?国際共同管理委員会が満州において行なう行政は、奉天省は米国、吉林省は英国、黒龍江省はソ連、熱河省は仏,独,伊の3国で行なう。?この協約の内容および存在は、一切公表せず、その秘密を厳守する、となっていた。

次に米国とソ連の秘密協約書は、?ソ連が分担する黒龍江省の一般行政管理は、米国がソ連を承認した後一年以内に、無条件で米国に委譲する。?ソ連が当該紛争地に保有する東支鉄道の敷設権および運営に関する一切の権益を、双方が合意した値段で米国に売却する。?上記2項の代償として、米国は可及的速やかに、ソ連を正式国家として承認し、関税の最恵国待遇を約束する、となっていた。この草案を読んだ三浦幸介は驚嘆し夜に日をついで、松岡全権大使に届けようとしたが、もう少しで日本行きの船に乗るところで、関東軍に怪しまれ逮捕されてしまった。この文書を見た石原莞爾や板垣征四郎達も驚嘆したが、この文書を決定的な瞬間に出そうと考え、そのまま沈黙をし続けた。関東軍にすれば、折角満州事変を起こして軍部の権益を確保したのに、国際共同管理委員会の手に委ねてしまっては、関東軍の出る幕はなく、外務省だけに表舞台で活躍されてしまうと考えた。それならば、政府がリットン報告書を受託しようとする直前に、これを政府に突き付ければ、政府としては連盟を脱退せざるを得なくなると計算した。そうなれば、満州の支配・管理は関東軍の思うまま、という計算をしたのである。

(4)国際連盟の脱退はARA密約を阻止するため

事実、33年3月の連盟総会開催直前まで、関東軍はこの文書を仕舞って沈黙を守っていた。政府の元老(西園寺公望と牧野伸顕)としては、日本を国際的孤立に追い遣ることは不利とみて、報告書が日本の権益を認める限りは、これの受託をやむを得ないと考えていた。ところが、総会開催の直前になって、満州から板垣征四郎が西園寺邸を訪れ、このARA秘密協約書を披見したのである。驚愕した西園寺と牧野は結局、ジュネーヴの松岡に対し連盟脱退を指示した。

この秘密文書は、1957年に米国で一般公開される筈であったが、当時の大統領アイゼンハワーは、この秘密文書の重要性に鑑み50年間の公開禁止処分としてしまった。この文書が日の当たる場所に出て来るのは、2007年の予定である。

余談ながら、全権大使の松岡洋右は、連盟総会において有名な「十字架上の日本」という名演説を残した。それは「日本は満州国を作ったが、東洋平和のためになんとしても必要なものであった。今は理解されなくとも30年後、50年後の世界は日本の行動が正しかったと評価するであろう。日本はあたかもキリストと同じように十字架に架けられようとしている。しかし、キリストがその後、ヨーロッパ社会から認められたように、いつかは日本も認められるであろう。我に罪なし、されど甘んじて十字架に架けられん。」というものであった。謀略を行なった諸国は、キリスト処刑になぞらえた演説の裏には、日本に連盟脱退の意図なしと判断し、安堵の思いを込めて、この演説に対して万雷の拍手を送った。

遊牧民族Vs稲作民族、どちらが強いか(案)
http://www.drc-jpn.org/AR-6J/sugiyama-j02.htm

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