つらつら日暮らし

面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(2)

(1)】の続きを見ていこう。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が江戸時代に行った満戒普説に於いて、昨日は「勧戒」をまとめたと示した。それでは、今日はどのような内容なのだろうか。

 山僧、請に応じて遠くより此の郷に来たれり、般若を開示し、参学を激励す。更に、説戒して以て、信心を勧誘す。
 夫れ如来一代の説教、三学を出でず。初めに戒、次に定、次に慧なり。
  是の故に
 無戒の定、凡夫外道の四禅八定なり。
 無定の慧、凡夫外道の聡明世智なり。
 皆是れ冥従り冥に入るの迷妄なり。而して唯仏戒のみ有りて、乃ち得脱の本基、いわゆる一切諸仏の本所乗なる故に、一切菩薩皆此の法に乗じて如来地に至るが故のものなり。
 是の故に経に、千仏の大戒と説く。又、七仏の教戒と説く。
 嗚呼、一たび人身を失すれば万劫にも復さず。
 壮色停まらず。猶お奔馬なるが如し。
 人命無常なり、山水を過ぎて、今日、存すると雖も、明けには亦た保ち難し。縦い百年を保つも、亦、虚生浪死するなり。
 仏言わく、畜生と異なること無し。所以は何、夫れ六畜の如きは法師の語を解さざるを以てなり。
    『永福面山和尚広録』巻10「肥後求麻永國寺満戒普説」


山僧というのは、僧侶の自称である。面山禅師は、拝請に応じて遠い京都からこの求麻に来たと述べ、般若(おそらくは『金剛般若経』のこと)を開示し、戒弟達の参学を激励した。そして、説戒し、信心を勧誘したという。やはり、説戒とは信心に直結するべき内容だといえる。

然るに、面山禅師は釈尊一代の説教とは、三学を説くことから外れることは無いと述べている。この三学とは、仏道修行の基本である戒定慧のことである。一般的には、戒を得て、定を習い、慧を顕すものである。しかし、もし、戒も定も成り立っていなければどうなるのだろうか。それが、「無戒の定」「無定の慧」であり、各々迷いから迷いに入ってしまうことだと指摘されている。しかし、仏戒のみは凡夫がその迷妄を脱する本基であり、諸仏が悟った根本であるため、一切の菩薩がここから如来地に到るとしている。

ところで、六道に輪廻するとはいうが、実際にこの人の身を受けてこの世に生まれるというのは、非常に希有なことだという考えがあった。そのため、もし、一度でも人の身を失えば、永遠の間で何時、人の身に戻れるだろうか?という焦りがある。それに、我々の人命とは無常であり、留まり難いものである。その無常に我が身を任せるままでは、動物と同じである。そして、その動物とは人の言葉を理解することが出来ない。よって、正しく仏戒の意義や功徳を知り、学ぶ必要があるのである。

ここでは、凡夫衆生にとっての参学が、三学を基本とし、その根本に仏戒があることを示したといえよう。

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